「主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。』」(ルカによる福音書1423

 主イエスが律法の専門家やファリサイ派の人々と食事をしておられた席で、客の一人が「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。食事は主人と客の交わりが深められる場であり、旧約聖書においても(イザヤ25610ほか)、主イエスの教えの中でも(ルカ1329ほか)、終わりの日における神の御前での祝宴を指し示すものとされていたので、この客の言葉は信仰の表現と聞こえる。ところが主イエスは、そこに信仰の危うさを見抜かれて、「盛大な宴会の譬え」を話された。
 あらかじめ大勢の人が招かれていたが、当日になると、それぞれもっともと思える理由を述べて出席を断った。彼らに共通していることは、招かれた宴会を自分の関心事よりも軽く考えていて、その裏には、今回出席しなくても、別の機会に招いてくれるだろうという安易な思い上がりがあることだ。この譬えは未信者の人や信仰の浅い人に語られたのではなく、神の国の到来を待ち望んでいる筈の人に語られたのである。私たちも、神との交わりを期待しつつも、今招かれていることを決定的な機会と捉えていないのではないか。
 
主イエスは更に譬えを続けられる。主人は怒って、町の広場や路地から、貧しい人や体の不自由な人を連れて来るように命じる。社会の中で差別を受け、盛大な宴会には招かれないと思われていた人を招く。それでも席が埋まらないので、標記のように言って、通りや小道(通常の生活の場には住めない人がいる場所)からでも強引に連れて来るように命じる。ここに、宴会の席を満たしたいという主人の熱意が表現されている。神はこのように、資格がないと思われている人、神の国に相応しくない者であっても、十字架の赦しの熱意を持って、無理にでも、神の国の喜びの席に着かせようとしておられるのである。私たちは神の招きを軽んじる罪深い者であるが、主は十字架の熱意をもって、神の国に席を用意して、招き入れようとしておられる。この招きに身を委ねるとき、他のいかなるものにも優る喜びにあずかることが出来る。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨> 2010年12月26日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書14:15−24
 説教題:「招かれる喜び」
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