序.神の国で食事をする人とは

2010年最後の主日礼拝となりました。今年は米子伝道所の年間の目標として、「救いの恵みを継承する」ということを掲げて、1年間の歩みを進めて参りました。この目標は、高齢化が進む中で、独立教会に向けての使命を果たして行くために、恵みが次の世代へと受け継がれて行かなければならないという認識のもとで、求道者の中から受洗者が与えられること、次の時代を担う人たちが教会の活動に積極的に参加することなどを目指すものでありました。振り返って、その目標は達成されたのでしょうか。私は、着実に恵みは継承されつつある、と感じております。受洗者が与えられるという目に見える成果は得られなかったものの、日曜学校から続いている高校生の一人が成人礼拝につながっていること、青年会が少人数ながら定着したこと、倉田御夫妻が入会されたこと、そして、今日、このあと日曜学校教師就職式が行われて、日曜学校の体制が充実するなど、多くの恵みを与えられて、今後につながる前進が見られたのではないかと思います。
 しかし、救いの恵みの継承ということは、自分達が先に恵みを十分に獲得していて、それを求道者や若い世代の人たちにも受け継いでしていただく、ということではなくて、まず自分たち自身が神様の恵みをしっかりと受け止めるということがなければ、継承ということも起こらないわけであります。今日は、ルカによる福音書の「大宴会のたとえ」と言われている箇所を取り上げさせていただきました。日曜学校のカリキュラムでは、今日はクリスマスの直後ということで、幼子のイエスさまが両親によって神殿に献げられた箇所が定められているのですが、そこは先日の松江地区家庭集会で取り上げまして、今日の箇所は1114日の講壇交換のために抜けてしまっていた箇所であります。けれども、この大宴会の譬えは、来るべき神の国における食事のことを話されたものでありまして、1年の最後を締め括るに相応しい箇所だと思いましたので、ここを取り上げることにいたしました。
 
この箇所によって主イエスが人々に問いかけておられることは、誰が神の国で主と共なる食事に与ることが出来るか、ということであります。私たちは既に救いの恵みを受けた者として、神の国での食事を約束されている筈であります。そうであれば、後は、その恵みを次の世代の人たちに継承すればよいだけ、ということになります。しかし、ここで主イエスがこの譬えを語られたのは、<あなた自身は本当に神の国で食事が出来るのか>、と問い直されるためであります。「救いの恵みを継承する」という目標を掲げた1年を締め括るに当って、この主イエスから投げかけられた問いについて考えてみたいと思います。

1.「なんと幸いなことでしょう」

まず、15節を見ていただきますと、食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った、とあります。この時、主イエスと共に食事をしていた客というのは、14章の初めの方を読みますと、ファリサイ派の議員の家に招かれていた律法学者やファリサイ派の人々であることが分かります。彼らは、正しい者は終わりの日に復活して、神の国での食事に参加することが出来ると信じており、自分たちは掟をきっちりと守っている正しい者だから、当然その食事にあずかることが出来ると考えていました。その彼らが、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったのですから、<自分たちこそ、神の国の食事に招かれる資格があるので、なんと幸いなことか>と、自信をもって自画自賛しているわけであります。
 
食事を共にすることは楽しいことであります。同席する者の交わりや絆が深まります。これまでとは違った関係が互いの間に生れます。聖書の世界でも、食事が色々の場面で重要な役割を果たしていました。旧約聖書では、訪問客があった時だとか、契約の合意に達した時だとか、王が位に就く時だとか、争っていた者が和解に達した時などに、会食が持たれました。新約聖書でも、様々な食事の場面があるのを皆様も思い出されるのではないかと思いますが、カナの婚礼の場面、五千人の人たちが食事をして満腹した場面、徴税人レビやザアカイの家での食事などがありますが、いずれもそこには喜びが伴っています。しかし、聖書では、食事は単においしい物を食べることによる満腹の時や人間同士の親しい交わりの喜びの時というだけではなくて、先程朗読していただきましたイザヤ書25章の箇所がそうですが、終わりの日における勝利の祝宴を指し示していることがあり、主イエスも十人のおとめの譬えや今日の箇所のように、宴会の譬えを用いて、天国(神の国)のことを語られたのであります。神の国とは、神様が御支配なさる世界のことでありますが、そこでは単に神様がその権威をもって御支配なさるということではなくて、神様の愛による御支配であり、そこでは神様と人間とが愛によって結ばれて、良い関係が築かれるのであります。そのことが食事や宴会の譬えによって表されているのであります。
 
「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った人も、旧約聖書の伝統を学んでいる人ですし、主イエスの譬えも聞いていたかもしれませんし、1329節を見ると、主イエスが「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」とおっしゃっていますから、それを伝え聞いていたかもしれません。しかし、主イエスは、彼の15節の言葉を聞かれて、問題を感じられたのであります。だから、16節以下の譬えを語り始められるのであります。私たちも、長く聖書に親しんでいる人は、神の国における祝宴の約束を信じて、その席に連なることを期待しているかもしれません。しかし、私たちは、その席に当然のように連なることが出来ると考えて、彼と同じように、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言って、呑気に構えていてよいのでしょうか。

2.招かれていながら断った人たち

16節以下の盛大な宴会の譬えは、大変分かり易いものです。古代のオリエント地方では、宴会の日に先立って、あらかじめ招待をし、出席を確認して準備を進め、その上で、当日になってから、もう一度使いの者をよこして17節にあるように、「もう用意ができましたから、おいでください」と言わせるのだそうです。そういう解説を聞くと、一層よく分かります。ところが、この主イエスの譬では、その時になってから、それぞれ理由を述べて、出席を断ったというのであります。「最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』」と言いました。畑を買うというのは大きな取引です。先方との契約の都合で見に行かねばならないことになってしまったのでしょう。止むを得ない理由のように思えます。しかし、宴会に招かれていることを大切に考えていたら、先方との契約に際して、日程の調節が出来たかもしれません。「見に行かねばならない」と言っていますが、その気さえあれば、そうならないようにも出来たかもしれません。結局、この人にとって、宴会に出ることよりも、畑を買うことの方が大切だったのであります。「ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』」と言いました。この人は、「調べに行くところです」と言っております。もう現実が進行してしまっているので、それを変更出来ない、というのです。もっともにも聞こえますが、彼には進行している現実を変更する気がないのであります。この人も、宴会に行くよりも牛を買うことの大事なのです。「また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』」、と言いました。自分は新婚早々だから行くことが出来ない、不可能だというのです。しかし、突然結婚するということはない筈で、宴会の日程のことを余り重要に考えないで、結婚の方を優先したから出席出来なくなっただけであって、宴会に出席することを優先して結婚式の日取りを決めることも可能であった筈です。――この人たちに共通していることは、招かれた宴会を軽く考えていて、その裏には、今回出席できなくても、また別の機会に招いてくれるだろう、というような安易なうぬぼれた気持ちがあるということであります。
 
主イエスが、こんな譬えを話されたのは、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った人の中に、神の国での食事を断る危うさがあることを見抜かれたからであります。神様のお招きと他の用事や興味とを天秤にかけて、神様のお招きを後回しにする信仰の危うさを見抜いておられるのであります。
 
私たちはこれを、礼拝に招かれていることと、この世の抜き差しならない用事と天秤にかけることに重ねて聞くことも出来ますし、洗礼を受けて終わりの日における神の国での祝宴へと招かれることと、様々な理由をつけて受洗を躊躇することに重ねて受け止めることも出来ます。しかし、この譬えは、神の国のことをまだよく知らない異邦人に語られたのではなくて、ユダヤ人の律法学者かファリサイ派の人に語られたのであります。神の国の到来を最も大切なこととして待ち望んでいる筈の人に語られたのであります。そうだとすれば、この譬えを未信者の人や信仰の浅い人に語られたと考えて、自分はこんなことにはならないと、他人事のように受け取ってはいけない、ということであります。信仰生活の長い人であっても、礼拝を忠実に守っている人であっても、何か大きな関心を引く出来事に遭遇すると、あれこれ理由をあげて、神の国での食事のことを、後回しにしてしまうということであります。そこには、自分は必ず神の国の食事にあずかれるという奇妙な自信があって、今招かれていることを決定的な機会と捕えておらず、また、神の国の食事というものを、口先では「なんと幸いなことでしょう」と言ってはおりますが、神の国の食事(神様との親密な交わり)の喜びを、他のものには比べられないほど大きなものだとは思っていない、ということがあるのではないでしょうか。

3.招かれていなかった人たち――神による逆転

このような者を神様はどう扱われるのでしょうか。主イエスの譬えは21節以下に続きます。「僕は帰って、このことを主人に報告した。すると家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』」――主人は怒りました。神様との交わりを大切にしない者に対して、神様はお怒りになるのです。24節を見ますと、『言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない』と言われています。主人からの貴重な招きの機会を逃した者は、二度と招きに与ることはできないのです。神様は私たちを良い加減な考えでお招きになっていないのに、それを無視することは、永遠に機会を失うことになりかねないのです。
 
怒った主人は、代わりに貧乏人、体に障害を持つ人たちを連れてくるように僕に命じます。これは、主人である神様がそうした人々を差別して、最初はお招きにならないということではありません。これは主イエスが、当時のユダヤの人々の間違った考え方を批判して語っておられるのであります。ユダヤ人の考えでは、こうした人々は本人や先祖のどこかに問題があって、神様の招きからは漏れていると考えていたのです。本人も自分たちは神様に招かれる資格はないと諦めていました。主イエスはそのような当時の考え方を破って、こうした人々と食事をしたりされました。ここで主イエスは、この主人の姿を通して、神様のお考えは逆なのだということをお示しになっているのです。神様から招かれる資格があると思って呑気に構えている人が捨てられ、逆に、自分たちには招かれる資格がないと思って諦めている人こそが、招かれるのであります。皆様は、貧乏な方や体に障害を持っておられる方を差別してはいけないと考えておられ、そうした人たちこそ、神様の招きに与ってほしいと思っておられるでしょう。しかし、私たちは、貧富の差や障害の有無では差別しないとしても、人の品性や知性や地位や信仰的な行動などによって人をより分けて、それを神様の救いの可能性があるかどうかの基準にしてしまっていることはないでしょうか。そして、自分は神様の救いの安全圏にあると思っていて、あの人はちょっと危ないのではないかと批判したり、この人は信仰の世界には相応しくないなどと勝手に決め込んでいるのではないでしょうか。そんな私たちに、主イエスはこの譬えを通して、あなたこそ、神様の招きを軽く考えていて、自分の都合や自分の優先順位や自分の感覚や感情で神様の招きを断ってしまっている、神の国での食事に相応しくない者なのではないか、と問いかけておられるのであります。

4.無理にでも――神の熱意

さて、主イエスの譬えには、まだ先があります。22節以下を見ますと、「やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者はひとりもいない』」と続いています。主人はもともと盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招いていたのであります。神様は神の国で大勢の人たちと食事をすることを望んでおられるのであります。多くの者が神様と緊密な交わりを持つことが出来るようになって、救いに入れられることを望んでおられるのであります。しかし、席はなかなか埋まらないのであります。神の国の席は無限にあると言ってもよいでしょう。主人は「通りや小道に出て行き、無理にでも連れて来」るように命じます。「通り」というのは、生活の場ではありません。そこにいる人は行きがかりの人であります。あるいは、道ばたで物乞いをしているような人かもしれません。「小道」とは「垣根」を意味する言葉でもあって、「小道」にいる人とは家の囲いに入れない人、ユダヤ人の囲いからはずれた異邦人という意味が込められている可能性があります。いずれにしても、あらかじめ選ばれているのではない人、むしろ社会からははじき出されているような人々を連れて来い、ということであります。しかも、「無理にでも」と言われています。本人の気持ちや都合さえ無視してでも、ということであります。ここに、何とかして宴会の席を賑やかにしたいという主人の熱意が表現されています。神様は人間どもが可愛そうだから神の国に招いてやろうと考えておられるのではなくて、何としても多くの人間たちと良い関係を作りたい喜ばしい交わりをしたいと望んでおられるのであります。そして、神様は資格のないような者をも強引に神の国の食事に招き入れようとなさっているのであります。神様を蔑ろにする罪深い者であって、神様の招きに相応しくない者であっても、十字架の赦しをもって無理矢理に神の国の食事の席に着かせようとしておられるのであります。十字架の熱意が罪ある者をも救われるのであります。

結.気がつけば神の国の食事の席に

主イエスはこの譬えをファリサイ派、あるいは律法学者の人に向かって話されました。彼は、自分こそ神の国の食事に招かれる幸いな者だと、自負していました。しかし、主イエスはこの譬えをもって、彼の自負を打ち砕かれました。神様の怒りをさえお示しになりました。

しかし、主イエスはこの譬えによって、彼を切り捨てようとされたのではありません。神の国での食事の資格があると思っていた者ですが、資格がないことを明らかにされました。しかし、主イエスは、神様が資格のないものをこそ無理にでも招いて、一緒に食事をしたいと思っておられることを、この譬で示そうとしておられます。

私たちはこの譬えを通して、自らの思い上がりや救いに対する安易な考えを思い知らされて、自分には救われる資格がないことを覚えるべきであります。しかし、神様は、そのような資格のない者をも十字架の愛をもって救いへと招きいれて下さるお方であります。神様は私たちが気付く前に、神の国に席を用意して、招き入れて下さるのであります。そして、いつのまにか、喜びの席に連ならせていただいているのであります。この神様の招きに身を委ねるということが、信じるということであります。そこには、他のいかなるものでも味わうことのできない、かけがえのない喜びがあります。
 
祈りましょう。

祈  り

恵み深い父なる神様!
 
今日も御言葉によって、あなたの招きに与ることが出来まして、感謝いたします。何かと言い訳をしながら、あなたの招きを軽んじている者でありますが、そのような者をも赦しをもって、招いて下さる強い御心を覚えております。どうか、あなたの招きに身を委ねる者とならせて下さい。どうか、来るべき新しい年も、あなたの恵みの食卓から漏れることがないように、お導きください。
 
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿> 2010年12月26日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書14:15-24
 説教題:「招かれる喜び」
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