ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。    (ルカによる福音書267 
 ここには二人の王がいる。皇帝アウグストゥスと救い主イエス・キリストである。皇帝は、税の取立てと徴兵の目的のために、全領土の住民に住民登録を命じる。マリアとヨセフはナザレに住んでいたが、ヨセフがベツレヘムの出身であるために、身重のマリアと共に、百数十キロの旅を強いられる。このように、救い主である王は、この世の王の権力による強引な支配の下で誕生するのであるが、実は、預言者ミカが救い主はベツレヘムで生まれるとの神の御計画を告げていた。この世の最高の権力者である皇帝も、神の救いの御計画の成就のために用いられたのである。
 ベツレヘムでは彼らが泊まれる宿屋がなく、ようやく家畜小屋で身を休めることになったが、そこでマリアは月が満ちて、主イエスを出産し、幼な子は飼い葉桶に寝かされた。これらのことの中に、人間が救い主を歓迎できなかったことが表されており、そのことは十字架にまで至ることになる。だが神は、御子が家畜小屋で誕生し、飼い葉桶に寝かされることを良しとされた。それは救い主が、多くの人から見放された人々を訪れ、病や汚れや罪が覆っている所へ行って、そこから逃れられないでいる人々と交わり、癒し、清め、赦されるために来られたからである。
 私たち自身の中にも、誰にも見られたくない、触れてほしくない、暗い、醜い、罪に汚れた部分=「家畜小屋」がある。だが主イエスは、そんな所に入って来られる。そんな所こそ、救い主を必要としている。私たちの中の「家畜小屋」こそ、私たちが主と出会える場所なのである。そこを締め切っていては、救いは得られない。真の王である救い主は、この世の力が支配しているかに見える場所、私たちの罪が満ちている場所を、御自分の恵みが働く場所、御自分の御支配の場所とされ、真の平和、真の救いの場とされる。それは、主イエスが「家畜小屋」に宿り給うという姿においてであり、十字架の死に至るまで、人間の罪の重荷を背負って下さるということによってであった。 (1212日 待降節第三主日礼拝説教より)

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2010年12月12日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書2:1−7
 説教題:「飼い葉桶の主イエス」
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