序.歴史の主役は誰か

待降節第三の主日を迎えておりますが、今日は、ルカによる福音書21節から7節までの箇所を与えられております。ここは主イエスの誕生の時のことが記されていて、皆様もこれまでに何度も読まれ、聞いて来られた箇所であろうかと思います。ですから、ここに書かれている内容は、既によくご存知のことばかりかもしれません。しかし、字面の内容はともかく、ここで筆者が伝えようとしていることは何か、今日、神様が私たちに語りかけて下さることは何か、ということは、必ずしも文面にはっきりと表れているわけではありません。
 
この箇所の「日曜学校誌」の教案を書かれた小野村先生は、冒頭で、「ここには二人の王がいます」と言っておられます。その意味がお分かりでしょうか。二人の王とは、ローマ皇帝アウグストゥスと主イエス・キリストです。当時のユダヤの国を政治的に支配していたのは、ローマ皇帝でありました。そこに、もう一人の王が誕生したのであります。筆者のルカが、冒頭の1節でわざわざ皇帝アウグストゥスの名を記しているのは、単に主イエスがお生まれになった当時の事情を説明しようという意図だけではなくて、一体、本当の王は誰なのか、歴史を導き、世界を支配している本当の主役は誰なのか、ということを語りたかったのではないでしょうか。――そのことは、文面には明確に表われているわけではありませんが、この待降節に私たちが聞き取らなければならないことではないでしょうか。なぜなら、待降節や降誕節というのは、昔の出来事を思い起こして懐かしんだり、楽しみのきっかけにするということではなくて、今の時代を導き、私たちを支配しておられるのは誰か、ということを確認する時だからであります。主イエスの誕生ということは、大昔に偉大な働きをした偉人の誕生ではありません。私たちのためにこの世に来られ、今も生きて働いて私たちを支配しておられるお方の誕生であります。今日は、そのことを与えられたテキストから聴き取って行きたいと思います。

1.皇帝アウグストゥスの支配の中で

さて、1節から3節にかけては、皇帝アウグストゥスから出された勅令のことが記されています。皇帝はローマ帝国の全領土の住民に住民登録をするよう命じたのであります。これは14年ごとに行われたもののようでありますが、その目的は、一つは税の取り立てのためであり、今一つは徴兵のためであります。税は皇帝による支配の財政的な基盤を確実にするものであり、徴兵は軍事的な支配の基盤を確実にするものであります。それが、パックス・ロマーナと呼ばれるローマの平和を実現するのであります。主イエスが誕生されたのは、そのようなこの世の王の支配のもとであった、ということです。
 
神様の御支配というのは、この世の現実の経済や政治とは切り離された、観念の世界や夢の中の物語ではありません。私たちが労働してお金を稼いだり、その中から税金を納めたり、必要なものを買ったりという現実の経済活動や、教育や福祉や医療の仕組みを利用して生活している中で、神様のご支配が進められるのであります。ルカが住民登録のことを書いているのも、主イエスの誕生の出来事が、そういうこの世の生活と無関係の出来事ではない、ということを言いたかったのではないでしょうか。
 
この住民登録は、人々は皆、自分の生まれ故郷の町で行わなければなりませんでした。マリアとヨセフは先々週に聞いた受胎告知や先週聞いたマリアの賛歌を歌った時点では、婚約期間中でありましたが、この時は既に結婚していたのではないかと思われます。しかしここでは5節で、まだ「いいなずけのマリア」と言っております。それは、生れる子がヨセフの子ではなくて神の子だからでしょうか。とは言え、戸籍上はヨセフの子となるわけで、ヨセフはダビデの家系に属していましたから、ダビデの町ベツレヘムで登録をしなければならなかったのであります。二人が住んでいたナザレからは百数十キロもあって、歩くと5日ほどもかかりますから、身重のマリアにとっては辛い旅を強いられたことになります。けれども、皇帝の命令は絶対です。従わざるを得ませんでした。アウグストゥスはローマ帝国を確立した有能な政治家でありますが、その強大な権力の影には、辛さを耐えなければならない庶民がいたことを思わせられます。主イエスは生まれる前から、そのような弱い者の一人としてお生まれになることによって、弱い者、虐げられた者を救われるのであります。こうして、この世の権力の支配の中で、神様の救いの御計画が着々と進められて行くのを、私たちは見ることが出来るのであります。

2.ベツレヘムにいるうちに

身重のマリアとヨセフの旅は、他の人たちよりずっと時間がかかったことでしょう。やっとのことでベツレヘムに着いた時には、7節の最後に記すように、宿屋には彼らの泊まる場所がなかったのであります。お金さえ出せば泊めてくれる宿屋もあったかもしれません。しかし、貧しい二人が泊まることのできる客間はなかったのです。ようやく宿屋の家畜小屋で疲れた体を休めることになりました。
 
マリアのお腹には、救い主が宿っておられます。しかし、そのことに気づく人は誰もいません。誰も救い主を歓迎する人はおりません。目に見えないことですから、止むを得ないと言えばそれまでですが、このことは神様の介入を喜ばない人間の罪の姿の表われと言ってよいのではないでしょうか。ヨハネによる福音書の111節には、「言(ことば)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」と書かれています。神の言(神様の御心そのもの)であるイエス・キリストが来られたのに、人はこれを受け入れようとしないのです。私たちの中も、様々な自分の楽しみや、自分の興味や、自分の忙しさで満員になってしまって、主イエスをお泊めする場所がなくなっていないでしょうか。あっても、家畜小屋のような場所に追いやっていないでしょうか。しかし主は、そのような場所でも泊まって下さるのであります。
 
ところで、6節にあるように、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産むのであります。こうして救い主となる主イエスはベツレヘムの町で誕生なさるのであります。
 
ここで、ベツレヘムという土地について、聖書の告げるところを聞かなければなりません。マタイによる福音書2章には、主イエスが誕生なさった頃に、東方の占星術の博士たちが星を見て救い主の誕生を知って、エルサレムにやって来て、ヘロデ王を訪ねたことが記されていますが、ヘロデ王が学者たちを集めて、メシアがどこに生まれるのかを調べさせたところ、預言者ミカが記しているのを見つけて報告しました。マタイはそれを引用して、こう書いています。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである」(マタイ26)。――このように、旧約聖書の中には救い主がベツレヘムに生まれることがちゃんと預言されていて、それが神様の御計画であったということが分かるのであります。ルカ福音書ではそのことを直接には記してはいませんが、ヨセフとマリアが皇帝の勅令によって、強制的にベツレヘムに行かざるを得なかったことの中にも、神様の御手が働いて、ご計画の成就に結びついたことを暗に伝えようとしているのであります。

3.月が満ちて

「月が満ちて」という言葉にも注目したいと思います。これはマリアが聖霊によって受胎してから10ヶ月が経って、出産の時が来たということではありますが、ルカは単に生物的な懐妊期間が満ちたことを言っているのではなくて、神様のご計画の懐妊期間が満ちたことを言いたいのではないでしょうか。神様のご計画の時が満ちたのであります。イスラエルの歴史を通して働きかけて来られた神様の救いの業が、今、新しい形で地上に展開される時が来たのであります。
 
私たちに聖霊が宿って下さり、救いに入れられる時も、私たちが自分の意思や都合で決めるのではありません。自分の中でこの世の仕事や楽しみに整理がついたら礼拝に行こうとか、自分の中で信仰心が高まったら洗礼を受けるとか、神様を私たちの中にお泊めする時を自分で決めることは出来ません。神様のお定めになった時が満ちて、神様がお泊り下さるのであります。もちろん、だからと言って、その時を神様に任せ切りにして、私たちはそっぽを向いていてよいということにはなりません。祈りつつその時を待つ必要はあります。しかし、その時は神様が備えて下さいます。教会に来るようになって、すぐに洗礼に導かれる方がおられるかと思えば、何十年も求道生活をしてから受洗をされる方もおられますし、長い間、教会から離れていて、時が満ちて、戻って来て、洗礼を受けられた方もおられます。しかし、大事なことは、時に応じた神様の召しに応えることです。これは求道者だけの話ではありません。神様が私たちを教会の働きに用いて下さるにも、神様の時があります。今日はこの後、倉田御夫妻の入会式があります。大阪から松江に引っ越して来られて2年が経ちますが、今日、神様の定められた時が満ちたということでありましょう。

4.飼い葉桶に寝かせた

次に、7節にある、布にくるんで飼い葉桶の中に寝かせた、ということについて思いを巡らしたいと思います。先程、客間には泊めてもらえなくて、ようやく家畜小屋で体を休めることが出来たということを申しましたが、聖書には家畜小屋という言葉はなくて、産まれた子を飼い葉桶に寝かせたと記してあるところから、泊まったのは家畜小屋であったと推測出来るのですが、普通は「馬小屋」とも言われます。家畜の匂いがする、綺麗とは言えない暗い場所であった筈であります。人間が住む場所ではありません。まして、神の子をお迎えするような場所ではありません。しかし、御子イエス・キリストはそんなところを自らの宿り場所とされたのであります。それは、先程も言いましたように、人間の方が主をお迎えすることが出来なかったことの表われではありますが、神様はそこに御子を寝かせることを良しとされたのであります。主イエスはそこから地上の生活を始められるのであります。そこから地上での救いの御業を始められるのであります。そしてそのような場所での歩みは十字架に至るまで続くのであります。主イエスはいつも、多くの人々からは見放された人びとの所を訪れられました。病や汚れや罪が覆っている所へ入って行って、そこから逃れられないでいる人々と交わり、癒され、清め、解放されました。
 
私たち一人ひとりにも、それぞれに暗い部分、醜い部分、罪に汚れた部分があります。外面は繕っておりますが、人には見られたくないような闇の部分があります。私たち自身の中に、見られたくない、触れられたくない「家畜小屋」があります。主イエスにも、そんな所は見られたくないし、触れてほしくないと思うかもしれません。主イエスだって、そんな闇を払い除けることは出来ないと勝手に思っているかもしれません。しかし、主イエスはそんな所にも入って来られるのであります。そんな所こそ、主イエスを必要としているのですし、主は喜んで入って来て下さるのであります。私たちの中にあるそんな「家畜小屋」こそ、私たちが主イエスと出会える場所、主イエスと深く交わることの出来る場所なのであります。そこを締め切っていては、いくら長い教会生活をしていても、本当の救いは得られないかもしれません。
 
あるいは、もしかすると私たちは、主イエスを私たちの生活の中にある片隅の「家畜小屋」にだけ押し込めて、他の立派な部屋を自分のために使っていて、そこには自分の気に入る人を招いて、楽しい時を持っているのですが、そこには主イエスをお招きしないということはないでしょうか。そこに主が入って来られると、自分のペースが崩される、自分が支配出来なくなる、自分の逃げ場がなくなってしまう、と思っていないでしょうか。自分の全てを主に明け渡していないということがないでしょうか。しかし主は、そういう場合の、主イエスを押し込めておきたい「家畜小屋」には留まっておられるお方ではありません。広いけれども、主イエスが不在の部屋は、主イエスの目から見れば、死臭が漂っているのではないでしょうか。主イエスはそのような豪華で楽しい部屋を壊しておしまいになるのでしょうか。それは、救いの邪魔になるからであります。間違ってはいけません。私という家を治めておられるのは、実は主イエス・キリストであります。主イエスは私の家の中の汚い部分である「家畜小屋」に喜んで入って来られます。しかし、実は、私たちが綺麗で大切だと思っている部屋の方が問題なのかもしれません。そこが「家畜小屋」なのかもしれません。いずれにしても、主イエスが実は、私たちの大切な家の本当の主人であります。主イエスを占め出しておいて、救いはありません。

結.今、王として私たちのところに

今日、最初に「二人の王」ということを申しました。ローマ皇帝アウグストゥスと主イエス・キリストであります。ローマ皇帝は当時の世界の最高権力者でありましたが、それは、あらゆるこの世的な力の象徴であります。政治的な力ばかりでなく、経済的、文化的な力も含めた諸力と権威の象徴であります。私たちはそうした力の影響下にあるのであって、それから逃れて夢の世界を漂うことは出来ません。マリアとヨセフが住民登録の義務に応じようとしたように、この世の力に服さないと生きて行けないことがあります。
 
しかし、もう一人の王である救い主イエス・キリストは、そのようなこの世の力が支配しているかに見える場所を、御自分の恵みが働く場所となさり、御自分の御支配の場とされ、真の平和、真の救いの場とされるのであります。それは、力と力の対決によってではなくて、主イエスが「家畜小屋」に宿り給うという姿においてであり、十字架の死に至るまで、私たちの罪の重荷を背負って下さるということによってであり、このように礼拝において御言葉を賜わって、私たちに近づき、交わって下さることによってであります。

主イエスは、未だ多くの人の目には隠されていて、「家畜小屋」に追いやられておられるように見えるのでありますが、実は既に、私たちのところに来られたのであり、真の王としての救いの御業は着々と進んでいるのであります。待降節と降誕節はそのことをもう一度確認する時であります。そして、私たちの大広間に主イエスを王として迎え入れる時であります。そこでこそ、本当のクリスマスの喜びに与ることが出来るのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 
待降節第三主日の今日も、貧しい、汚れに満ちた私たちの所を訪ねて下さって、御言葉をもって私たちに語りかけて下さいましたことを感謝いたします。どうか、この世の諸力の中で翻弄されております私たちを救い出して下さい。どうか、あなたの御支配に身を委ねて、真の平和に生きることが出来る者とならせて下さい。
 
どうか、来週のクリスマス礼拝には、多くの方々と共に御子の誕生を喜び祝うことが出来ますようにさせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年12月12日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書2:1-7
 説教題:「飼い葉桶の主イエス」
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