「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」            (ルカによる福音書147 

 天使から神の子イエスの受胎を告げられた処女マリアは、親類のエリサベトも、不妊の女と言われながら男の子を身ごもって六ヶ月になっていることを聞かされて、彼女を訪問し挨拶すると、その胎内の子が喜んでおどった。マリアとエリサベトは共に神から与えられた約束を受けたことによって結びつけられ、そこには「未だ」目には見えないながら、「既に」救いの出来事は確実に始まっていた。
 そのような中で、マリアは標記のように、喜びの賛歌を歌い始める。「主をあがめ」という言葉の語源は、「神を大きくする」という意味であり、起こりつつある神の御業を覚えて、その大きさに圧倒されて、賛美と信頼を捧げているのである。
 続いてマリアは、そのような賛美に導かれた理由を述べている。一つは、「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったから」(48)であり、何の優れたものをも持っていない普通の女性が、ただ神の憐れみのゆえに、神の御業に用いられたことである。私たち自身や、この小さな群れ(教会)をも神は見過ごさず、目を留めて下さるのだ。
 更に、「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」(49)と、神の御業そのものについて語っている。その「偉大なこと」の中身とは、天使が告げた(3233)ように、神の子が人の子としてこの世に来られ、その愛をもって人間の諸問題をご自身で引き受けようとされていることで、「その憐れみは代々限りなく」(50)、私たちにまで及ぶのである。また、「偉大なこと」は個人に及ぶだけでなく、「思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げる」(5153)との、この世の変革にまで及ぶ。こうして、神の国のご支配が行われるのである。私たちが待降節の御言葉を聴き、その約束を信じているところ(教会)では、「未だ」目には見えないが、「既に」主イエスが共にいて下さり、救いの御業が始まっているのである。
          (12月5日 待降節第二主日礼拝説教より)

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2010年12月5日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書1:46−56
 説教題:「偉大なことを」
         説教リストに戻る