序.胎内の子がおどる

今日与えられております聖書の箇所はルカによる福音書146節以下の、普通「マリアの賛歌」と呼ばれている部分で、今歌った95番の讃美歌はこれをもとにしたものです。この賛歌がどのような状況の中で歌われたかということを、初めに見ておきたいと思います。
 先週は126節から38節の「受胎告知」と呼ばれている箇所から御言葉を聴きましたが、そこでは、ヨセフと婚約中の処女マリアに天使が遣わされ、神の子を身ごもったことを告げたことが書かれていて、マリアには当然、戸惑いと恐れが生じるでありますが、天使が「聖霊があなたに降った」、「神にはできないことは何一つない」と語った言葉によって、マリアは「わたした主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言って、天使の言葉を受け入れるに至ったことが記されておりました。
 その後、親類のエリサベトが不妊の女と言われながらも男の子を身ごもっている、と天使に教えられたことに従って、マリアがエリサベトの家に出かけたことが、39節以下に書かれていて、マリアがエリサベトに挨拶をすると、エリサベトの胎内の子がおどったというのです。そして、エリサベトは44節以下でこう言っております。「あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」――この時起こっていることは、胎内の赤ん坊が足で蹴ったということに過ぎないのかもしれませんが、聖書が「胎内の子がおどった」という表現をするのは、この時起こっていることが普通のことではないからであります。ここで起こっているのは、約束として信じられてきた救いの御業が、現実の出来事になっているからであります。まだ、子供の姿は見えませんし、その子供たち(主イエスとヨハネ)によって神様の救いの業が行なわれるのは、将来のことであります。しかし、この時既に、救い主がマリアのお腹の中におられるのであります。
 カール・バルトという人は、この箇所について、こう書いています。<既に約束を受けている二人の人間がいるところには、教会がある>。ここでマリアとエリサベトが結ばれているのは、単に彼女たちが親類同士であるからではありません。単にどちらも身ごもった女性だからというのでもありません。そうではなくて、彼女たちが別々に天使を通じて聞いた神様の約束が一つに結びついているからであります。単に二人の男の子が生まれるという話ではなくて、救い主の誕生と、救い主に先立って道を備える役割を果たす者の誕生が近づいているのであります。神様の救いの御業が行われるという点において、彼女たちは一つに結びついているのであります。救いの約束を受けて、それを信じて集まる者たち――それを教会と言い換えることが出来ます。マリアとエリサベトが御言葉に導かれて出会ったところは教会であります。そしてそこには、まだ目には見えませんが、現に救い主とそれを証しする者がいるのであります。「未だ」救い主は誕生していませんが、「既に」救いの出来事は確実に始まっているのであります。教会とは、そのような所です。この礼拝とは、そのような「未だ」と「既に」とが同時に起こっている場所であります。今日は46節以下のマリアの賛歌を聴きます。これはマリアの歌ですが、神様の救いの御言葉でもあります。そして、救いの御言葉が語られ聴かれるところでは、「未だ」救いを目で見ることは出来ないにしても、「既に」救いの出来事は始まっているのであります。主イエスはおられるのであります。
 そこで、マリアは何を語るのでしょうか。教会は何を証しするのでしょうか。それを聴いて参りましょう。

1.わたしの魂は主をあがめ

さてマリアはこう歌い始めました。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」このマリアの賛歌のことをマグニフィカートとも呼びます。これは「主をあがめ」とある、この「あがめる」という語が、ラテン語訳の聖書では「マグニフィカート」で、それが冒頭にあるために、そう呼ばれるようになったのです。この「マグニフィカート」という言葉は、元々、「大きくする」という意味を持っておりまして、地震の大きさを表すマグニチュードと同じ語源から来ています。神様を大きなお方とする、神様を畏れあがめる、ということです。人の思いでは測り知ることの出来ないことをなさる神様の大きさに対して賛美と信頼を献げることが、「あがめる」ということであります。
 「わたしの魂は」と言っています。これは「わたしの心」とか「わたしの命」と訳してもよいところです。「わたしの霊は」とも言っております。わたしの全存在、全人格、全生涯をかけて、神様を大きくする、ということです。――私たちは神様を大きくしているでしょうか。私たちは、自分が小さくなるとか、人から小さく見られることを恐れています。私たちは自分が大きくなることを願い、時には神様より自分が大きくなってしまっているのではないでしょうか。自分を大きくするために神様を利用しようとさえしてしまっていないでしょうか。それは、既に神様によって始められている大きな出来事を見ていないからです。隠された真実を信じていないからであります。しかし、マリアはエリサベトと出会い、彼女の胎内の子がおどっているという事を聞いて、神様のなさろうとしていることを知って、神様を大きくさせられているのであります。神様をあがめざるを得なくされているのです。心からの賛美と喜びに導かれているのであります。自分が身ごもったことを婚約者のヨセフが理解してくれるかどうか、世間がどう受け止めるかという心配は、まだ解決していません。けれども神様の大きさを知った今は、それらはもはや問題ではありません。神様の大きさの中で解決する筈であります。心配よりも喜びが大きくなったのであります。私たちも、今起こりつつある神様の御業を知るとき、神様を大きくすることが出来ます。

2.この主のはしためにも目を留めて

次に、4849節では、マリアが主をあがめ、神を喜びたたえる理由が述べられています。
 
48節には、「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったから」と言われています。自分のような、とるにたらぬ者を顧みて下さった、ということです。――これは単なる謙遜の言葉ではありません。実際マリアは特別な身分を持つ家柄でもないし、特別な能力を持つ人物でもありませんでした。ナザレという小さな村の貧しい一人の少女に過ぎませんでした。なぜ彼女が選ばれたかと問うなら、彼女が持っている優れた何かによってではなくて、敢えて言うなら、彼女が何も優れたものを持っていないからこそ目を留められたと言った方がよいのです。そのような普通の女性が、神の子であるイエス・キリストの母とされたのです。これは、神様の憐れみによるとしか言い様がありません。このことは、クリスマスの出来事そのものが、神様の憐れみによる御業である、ということを物語っております。神様が主イエスを地上に送って下さったのは、人間が罪のために救いのない状態に陥っているからであり、そのような人間を憐れんで、救い主を送って下さったのであります。
 
そしてもし、私たちがクリスマスの出来事を聞くことを許され、私たちのためにも主イエスを与えて下さったのだということを知ることが出来るとすれば、それは私たちに対する神様の憐れみによることであります。多くの人は主イエスのことを知りません。知っていても受け入れていません。その中で、私たちがクリスマスの恵みを知ることが出来るのは、私たちの側に資格があるとか、熱心に求めたといった理由があるのではなくて、ただ神様の憐れみによることであります。神様に対して何の誇るべきものを持たない私たち、むしろ、罪深くて、神様の御心を痛めることのみ多い私たちを、神様は憐れんで、クリスマスの恵みに招いていて下さるのであります。
 
このことは、私たち自身と同時に、教会についても語られていると受け止めることが出来ます。マリアとエリサベトが出会っている所に教会があるということを申しました。御言葉を信じる者がいる所に教会があります。しかし、マリアは目立たない普通の娘でありました。エリサベトは祭司の職を受け継ぐアロン家の娘でありましたが、不妊の女と言われて、祭司職を継ぐべき子供を産めないという負い目を負っていました。二人は御言葉を信じているとは言え、目立たない小さな教会であります。しかし、その小さな教会が神様に目を留められ、神様の救いの御業の一端を担う大事な役目を与えられているのであります。私たちの米子伝道所も、目立たない小さな群れであります。世間的に立派な人々が集まっている群れではありません。むしろ、弱さや欠けを持った者たちの集まりであります。世の中の強い嵐が吹けば、消え去ってしまいそうに見える群れであります。経済的にも人材的にも独立教会への道は遠いと思われる教会であります。しかし、神様はそんな教会をも見過ごさず、目を留めて下さっているのであります。憐れみをもって御言葉を語り続けていて下さっているのです。救いの御業を、こんな小さな教会の中でも行っていて下さいます。そのことを私たちは信仰の目と耳をもって受け止めることが出来ます。
 
マリアは「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」と言っております。心配したり、びくびくしたりしておりません。生涯にわたって、また歴史の終わりまで、幸いな者であり続けることを確信しています。それは、神様が始めて下さった救いの御業を見つめているからであります。私たち自身や、私たちの教会も、今から後、いつの世の人からも、幸いな者、恵まれた教会である、と言われると確信してよいのであります。そのために私たちがしなければならないことは、天使の知らせを聞いたマリアと一緒に「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38)と言って、御言葉を受け入れるだけであります。

3.力ある方が、偉大なことを

続いて、49節にも、マリアが主をあがめ、神様を喜びたたえる理由を別の面から述べています。「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」――48節では、神様が低い者・小さい者を憐れんで目を留めて下さったことに焦点が当てられておりましたが、ここでは、神様がなさっている御業そのものについて語っています。御業と言っても、この時点でマリアが主イエスの十字架や復活の御業を知っているわけではありません。天使によって知らされたことは、3233節で述べられていたように、神の子が貧しい人間であるマリアに身ごもって、人間としてお生まれになり、その方が先祖ダビデの王座についてヤコブの家を治めるということ、即ち、神が人間となって、この世を御支配なさり、神の国を建設なさる、ということでありました。そのために、神の子が自分に身ごもったということが、マリアの言う「偉大なこと」の中身であります。これは言い換えれば、28節のところで天使が最初に言った、「主があなたと共におられる」ということであります。神様は正しいお方であり、私たち罪ある人間から遠い存在であります。しかし、そのお方が、人間の中に身ごもり、罪ある人間と共に、人間として地上に生きられるのであります。それは、人間の問題・人間の悩みを遠く高い所から解決するのではなくて、自ら担い、共に悩むためであります。人間のことを、御自分のこととして引き受けて下さるのであります。ここに十字架にまで行き着く愛があります。これが「偉大なこと」なのであります。
 
次に、50節では、「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」と言っております。「その憐れみ」とは、48節で言っていた「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」ということと、49節で言っていた「わたしに偉大なことをなさいました」ということを指しています。これらは共に、神様の「憐れみ」から来ることであります。神様がマリアや私たちに目を留めたり、偉大なことをなさる義務を持っておられるわけではありません。また、マリアや私たちが神様の憐れみを受けるだけの値打ちがあるわけではありません。神様はただ、その愛の故に、ただ、その恵みの故に、憐れんで下さるのであります。
 
「代々に限りなく」と言われています。これは「後々まで」という意味です。クリスマスの出来事は、マリアという一個人に起こった出来事ではありませんし、二千年前という一時代に起こった過去の出来事というのでもなくて、「代々に限りなく」続けられ、力を持ち続ける出来事である、ということです。二千年前に主イエスを通して示された神様の「憐れみ」は、今も私たちに与え続けられているし、これからも持ち続けるのであります。今の世界がどんなに暗く、悲惨に見えるとしても、望みを見出すことが困難に思えたとしても、神様が人間を愛し、世を憐れみ、私たち一人一人に関わって下さるということは、変わらないのであります。主イエスは決して過去の偉人ではありません。聖霊において、今も生きて働き給うお方であります。重荷や弱さを負っている私たちの現実の生活の中に降りて来て下さって、その重荷や弱さを共に担って下さるお方であります。
 
51節から53節には、神様のなさる「偉大なこと」は、単に個人に関わることだけでなく、この世の秩序にも及ぶということが語られています。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」と言っております。ここには権力の逆転、立場の交代が述べられています。しかしこれは、いわゆる革命や社会改革とは違います。「主はその腕で力を振るい」とある神様の腕の力とは、武力や暴力のことではありませんし、革命思想や政治力のことでもありません。それは主イエス・キリストの十字架によって振るわれる力、愛の力のことであります。この力が振るわれると、思い上がる者は打ち散らされ、権力の座から引き降ろされるのであります。これは決して、<ざまを見ろ>と言って喜んでおれることではありません。厳しいことであります。私たちも思い上がって、誇り高ぶっているなら、引き降ろされるのです、裁きを受けるのであります。自分の力で幸せを確保出来ると思っている者、別に神様に頼らなくても、生きて行けると思っている者、自分は正しいことをしていると思い上がっている者は、引き降ろされるのであります。では、その反対の「身分の低いもの」「飢えた人」とは、どのような人でしょうか。それは、自分の罪に気づき、神様以外に頼るべきものを持たない人、神様の恵みの御言葉に飢えている人のことです。神様はそのような人を、神の国の一員として、救いの御業に参加させて下さり、神様の御支配にあずからせて下さるのであります。

結.憐れみをお忘れになりません

最後にマリアは、54.55節で、「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに」と言って結んでおります。ここでマリアは彼女が属するイスラエルの民の一員に立ち帰っています。イスラエルの先祖たちに語られた救い主の到来の約束を待ち望む人々の群れの一人に帰って、神様の憐れみの約束を確信しています。マリアが信じた約束は、イエス・キリストによって更新されて、今や、イエス・キリストを信じる全ての人に、新しいイスラエルの民として、救いの約束を与えられています。神様は救いの約束を、イエス・キリストによって、より鮮明に、決定的に私たちに示して下さいました。
 
今日最初に、マリアとエリサベトが出会っている所に教会がある、ということを申しました。約束によって生きる人が出会う所に教会があります。そしてマリアとエリサベツが出会った所に、既に主イエスが身ごもっておられたように、私たちがこうして共に御言葉を聴き、その救いの約束を信じる者が集まっている所には、目には見えませんが主イエス・キリストがいて下さるのであります。そして、「マリアの賛歌」が、神の恵みを受けた人たちが出会い、現にそこに主イエスがおられるところで歌われたように、待降節の喜びの賛美は、礼拝のために集り、神の言葉を聴いて信じる教会の群れの中でこそ、声高らかに歌われるのであります。そして、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌うとき、そこには、主イエス・キリストがおられるのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

主なる神様!
 マリアの賛歌を通して、私たちも待降節の恵みへとお招き下さいましたことを感謝いたします。
 
人間の罪がもたらす暗さや不安が広がる現代にあって、私たちを罪から救い出すために、主イエスが今も教会を通して働いておられることを覚えて、賛美いたします。
 
どうか、一人でも多くの人が、この待降節と降誕節の時に、この神様の恵みを教会において聞いて、受け入れ、喜びで満たされますように。どうか、不安や恐れにおびえている人に、クリスマスの恵みが知らされ、平安と希望が与えられますように、お願いいたします。
 
主イエス・キリストの御名によって、この祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年12月5日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書1:46-56
 説教題:「偉大なことを」
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