「神にできないことは何一つない。」(ルカによる福音書1:37

 処女マリアは、ナザレという片田舎の平凡な家庭の娘であったが、神の一方的な選びによって、旧約聖書に預言されていた救い主を身ごもることを天使から告げられた。「男の子を産む」(31)ということは、ヨセフとの結婚を予定していたマリアが望んでいたことであり、「その子は偉大な人になる」(32)のは喜ばしいことではあるが、「いと高き方(=神)の子」(32)が人間に身ごもるということは、ユダヤの信仰ではあってはならないことであり、男女の結びつきがないまま子供が生まれるのはあり得ないことであって、誰にも理解されず、姦淫を疑われても仕方のないことである。マリアは戸惑って、「どうしてそのようなことがありえましょう」と言わざるを得ない。私たちにとっても、このことが、私たち自身の救いの開始を告げる出来事だと言われても、神話かお伽話のように思えて、俄かには信じ得ない。
 だが、天使は、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」と言い、人間の営みを越えた、神の御心と御力による出来事であることを告げ、主イエスを証しするために生まれるヨハネも、不妊の女と言われていたエリサベトに身ごもって既に六ヶ月になっていることを知らせ、標記のように語った。これは直訳すると、「神においては、その語られたすべての言葉が、不可能ということにはならない」で、神がお語りになった言葉は必ず実現するということである。これを聞いて、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言った。天使から伝えられた神の言葉を受け入れ、全てを神に委ねたのである。神の子が人間に成ることや、処女が身ごもることも奇跡だが、それをマリアが受け入れたことは、それらに勝る奇跡であり、聖霊の働きによるほかない。私たちも、聖書を通して神の言葉を聴くとき、聖霊が働いて、私たちを救いに入れようとなさっている神の御心を受け入れるという奇跡が起こされるのである。 

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2010年11月28日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書1:26−38
 説教題:「神からの恵み」
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