序.私たちへの救いの告知

今日から待降節(アドベント)に入ります。今日与えられておりますルカによる福音書126節以下は、「受胎告知」と呼ばれている箇所で、主イエスの母マリアが天使ガブリエルから主イエスを身ごもったことを告げられる場面であります。旧約聖書から続く長い待降物語(救い主の誕生を待ち望む物語)のクライマックスの場面ですから、多くの画家によっても描かれていて、よく知られた印象深い場面ではありますが、処女懐妊(未婚の女性が身ごもる)という信じられないようなことが書かれていることや、主イエスの誕生という普通の人の誕生とは違う出来事に関係しているので、美しいお伽話や夢のような、私たちとはかけ離れた遠い世界の出来事と受け取り勝ちであります。確かにここに描かれている出来事は、二度と繰り返されることのない唯一無二の出来事であり、マリアという特別な人物に起こったことでありますから、同じようなことが私たちにも起こるということではありません。しかし、だからと言って、ここで起こっていることは、私たちと無関係なことではありません。このとき起こっていることは、他でもない私たちの救いのための御業が地上に開始されたことを告げる場面であります。ここで起こっていることを受け入れるか受け入れないかは、神様が起こされた救いの業を信じるか信じないかということにつながっているのであります。更に言うならば、私たちが救われるか救われないかに関わっているということであります。

2000年前に天使ガブリエルを遣わしてマリアに受胎を告知された神様は、今日、この礼拝において、聖書の御言葉を通して、私たちのための救いの御業が始まっていることを告げておられるのであります。それは、マリアが戸惑わざるを得なかったように、私たちとしても戸惑いや疑いを禁じ得ない知らせではありますが、マリアとともに、天からの御言葉に耳を傾けて、私たちも待降節の人々の群れに加わらせて頂きたいと思うのであります。

1.ナザレのマリアに天使が

さて、今日の聖書の箇所は、六ヶ月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた、という言葉で始まっています。天使というのは、神様の使いです。この時神様は、人間の世界に新しいことを始めようとなさって、その御心を伝えるために、天使を遣わされたのであります。このことは、これから起ころうとしている主イエスの誕生が、人間の営みの連続の中で起こるのではないということを示しています。人間の歴史の中に神様が大きく介入して来られるのであります。「六ヶ月目に」というのは、15節以下に書かれていることですが、同じ天使ガブリエルが現れて洗礼者ヨハネの誕生のことを告げた時から六ヶ月目ということです。洗礼者ヨハネというのは、御承知の通り、人々に悔い改めを説いて、悔い改めた人にヨルダン川で洗礼を授けた人で、主イエスにも洗礼を授けることになる人です。この人の最大の役目は主イエスを救い主として人々に証しすることで、主イエスと深い関わりを持つことになる人物あります。ですから、そのヨハネの誕生のことも、天使が伝えたのであります。マタイ福音書によれば、マリアの婚約者ヨセフにも現れて、主イエスの誕生を知らせました。天使は主イエスの誕生の夜にも羊飼いたちの上に登場いたしました。このように、主イエスの誕生を巡って、しばしば天使が登場するのです。それは、主イエスの誕生が、神様の御心によって起こる特別なことであるからであります。しかし、主イエスの誕生を巡る出来事は、私たちの理解を越えたもので、容易に受け入れ難い事柄であります。もし私たちのところにも天使が現れてくれたなら、もっと信じ易いのにと思うかもしれません。しかし、私たちにはそのようなことは起こりません。けれども幸いなことに、私たちには聖書というものが与えられており、預言者や使徒たちの証言を通して神様の言葉が伝えられています。そして私たちはこうして、毎週、神様の言葉を聴くことが出来ます。そのことをもっと喜びたいと思います。
 それから、もう一つ喜ぶべきことは、主イエスの誕生を告げられ、それを信じ、神様の救いの実現に大きな役割を果たすことになるマリアという人が、決して特別な家柄の人ではなく、特別な能力を持つ人でもなく、信仰という点においても特別に信心深かった人でもなかったということであります。彼女が住んでいたのは、首都エルサレムからは遠く離れたナザレという片田舎の村でありました。46節からのマリアの賛歌の中で、自ら「身分の低い、この主のはしため」と言っておりますから、高貴な、裕福な家庭であったとは考えられません。殊更貧しい家庭であったということを強調するのも適切ではないかもしれませんが、特別な家庭でなく、平凡な家庭の娘が、重要な役目を与えられたことに注目したいと思います。神様が救いの御業を進められるために用いられる人間には、何も特別な資格や能力は要らないということであります。私たちのような普通の人間も、神様の大きな御業に参加することが許されるのであります。
 但し、ただ一つ、マリアが選ばれた理由があります。それは、27節にあるように、ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめであったということです。旧約聖書には、救い主はダビデ家の子孫に出現すると預言され、信じられていました。その預言が実現するために、ヨセフと婚約していたマリアが選ばれたのであります。それなら、私たちが救いに与るためには、そのような選ばれた家系に結びついていないといけないということでしょうか。心配は要りません。イエス・キリスト以後は、新しいイスラエルの民である教会に属してさえいるならば、救いの条件は満たされているのです。

2.主があなたと共に

さて、天使はマリアのところに来て、28節にあるように、こう言いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」天使は一方的な祝福の言葉を送ります。ここにも彼女が恵みを受ける理由は何も述べられていません。「主があなたと共におられる」ということが、恵まれていることの唯一の理由であります。神様が一方的に彼女を選んで、共におられると語られるのであります。神様は全てのものを支配しておられます。そして全ての人のことを御存知であり、心に留めておられ、全ての人に恵み深くあられます。しかし、全ての人が、神様が共にいて下さると知っているわけではありません。むしろ知らないのが普通であります。そして私たちは、神様を無視して、気侭な生活をしております。そんな中で、救いは、このような「主があなたと共におられる」という、神様の一方的な語りかけから始まります。私たちに機会が与えられて、このような御言葉を聴くことが出来、それを信じて受け入れることが出来ているとすれば、それは特別に幸いなことであります。
 しかし、マリアも、天使の一方的な祝福の宣言の意味が理解出来ずに、29節にあるように、この言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んでしまいました。神様の恵みの語りかけは、しばしばこのようにストレートには喜びとはならず、戸惑いとなるのであります。神様が私たちと共におられるということ、私たちの救いということは、それほどに私たちにとって意外なことであり、私たちの理解を越えた大きいことだと言えるのかもしれません。私たちも、教会へ来て聖書に接して、救いの御言葉を受けたときに、素直に喜ぶことが出来ず、何のことかと考え込んでしまうのが普通であります。真面目に真剣に受け止めようとするほど、疑問が生じて来たり不安になったりして、躊躇せざるを得ないのです。マリアはそういう意味で私たちの代表であります。

3.恐れることはない。神からの恵みをいただいた

 このようなマリアに対して、天使は言いました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」3033節)
 ここで天使は、これから起る出来事の具体的な内容を告げる前に、まず、「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」と宣言しています。神様のなさる事は、いつも驚くべきことであります。常識を超えた事であります。だから、不安になったり、恐れを覚えざるを得ません。なぜそんなことが起こるのか、納得できる理由で説明することは出来ません。この恐れを私たち人間の側で取り除くことは出来ません。ただ、天からの「恐れることはない」という言葉を聴くことしか出来ません。そして天使は「あなたは神から恵みをいただいた」と言います。このことがマリアに起こるのは、ただ「神からの恵み」によるのであって、それ以外の理由はないのであります。マリアの側では、感謝をもって受け取るほかないのであります。私たちが信仰に導かれるとか救いに入れられるというのも同様であります。私たちの側に何の理由も見出すことは出来ません。ただ神様の恵みによるのであります。これは偶然とか、運命とも違います。神様の御意志から来ることなのであります。だから、戸惑いつつも、受け取るほかないのであります。
 31節に「神からの恵み」の具体的な内容が告げられます。それは、「あなたは身ごもって男の子を産む」ということでありました。これはヨセフとの結婚を予定していたマリアが望んでいたことであり、本来はうれしいことである筈であります。まして32節にあるように、「その子は偉大な人になり」「ダビデの王座をくださる」というようなことであれば、驚かざるを得ないとは言え、喜ばしいことであります。しかしそれは、マリアが一層不安と戸惑いを覚える内容でありました。「イエス」という名は<主は救い給う>という意味を持っていますが、ヘブル語で「ヨシュア」と呼ばれているのと同じ意味で、ユダヤでは珍しい名前ではありません。しかし、ここで全体として言われていることは、イスラエルの民が待ち望んでいたメシア(救い主)が誕生するということを表わしています。「いと高き方の子」即ち「神の子」とも言われています。そんなお方が人間に身ごもるということは、とても理解できないことですし、ユダヤの信仰ではあってはならないことであります。ましてそれが自分に起こるということは考えられないことであります。その上、マリアはまだ結婚していませせん。未だかつて、男女の結びつきがなくて子供が生まれるということはなかったのです。こんなことは誰にも理解してもらえないことであり、当事者としては迷惑な話であります。婚約者のヨセフにはとても説明出来ないことであります。疑われても仕方のないことであります。当時のユダヤの律法によれば、婚約者以外の異性と関係をもつことは姦淫の罪を犯したとされて、石で打ち殺されねばなりませんでした。マリアには身に覚えのないことでありましたから、絶対に受け入れられないことであります。ですから、これを聞いたマリアは天使に「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言わざるを得ませんでした。
 私たちにとっても、この天使の言葉は素直に受け取るのが難しいことであります。私たちは科学的にあり得ないことだと考えてしまいます。そして、もしマリアが本当に身ごもったのだとすれば、ヨセフとの間に既に関係が出来ていたのか、あるいはイエスの誕生を普通の人間の誕生と区別して美化するために作り上げたお伽話ではないか、と考えてしまうのであります。この事態は、理性ではとても受け入れられないことであり、人に説明することも出来ないことであります。ですから、私たちもマリアと共に戸惑わざるを得ません。そして、マリアと共に、「どうして、そのようなことがありえましょうか」と問わざるを得ません。

4.聖霊があなたに降り

このようなマリアの問いに対して、天使は35節でこう答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」――今起ころうとしていることは、聖霊の働きによることであり、神様の力が働く御業であると言うのであります。自然現象ではありません。通常の人間の営みを越えた出来事であります。「聖なる者、神の子」の誕生なのであります。神の子が人となり給うという、前にも後にも例のない、ただ一度だけの出来事が起こっているのです。それは、人間の常識や理性で理解出来ることではないのであります。信じるしかないことであります。
 続いて36節では、天使がこう言っております。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。」エリサベトとは洗礼者ヨハネの母であります。もう子供が出来ることを諦めていた高齢のエリサベトにも、神様は男の子を身ごもらせたことを天使は知らせたのです。これは処女のマリアが主イエスを身ごもるという、マリアにとって信じ難い出来事を受け入れやすくするための神様の配慮でありました。しかし、そのことがあったからと言って、マリアが救い主を身ごもることの謎を説明出来るわけではありません。ただ、人間が不可能と思うようなことも、神様がなさろうとするなら出来るということの見本でしかありません。そして37節で、「神にできないことは何一つない」という決定的な言葉が語られます。神様は無から有を生み出すことも出来るお方であります。全能者であります。

このような天使の答えを聞いて、皆さんはどう思われたでしょうか。「聖霊が降る」とか、「神は全能者だ」と言われたって、答えになっていない、と思われるかもしれません。確かに天使は、私たちの理性で納得できる説明をしているわけではありません。<聖霊の働きを信じなさい、神の全能を信じなさい>、と言っているのであります。信仰へと招いているのであります。
 「神にできないことは何一つない」という言葉は、原文を直訳すると、「神においては、その語られたすべての言葉が、不可能ということにはならない」となります。つまり、<神様がお語りになった言葉は、必ず実現する>、ということであります。神様は天地創造の初めに、「光あれ」と言われると、光が出来ました。神様はイスラエルの歴史の中で、預言者たちを通して、救い主の誕生を約束されて来ました、その言葉が今、実現しようとしているのであります。神様の言葉は神様の御意思であり、御計画であります。そして、神様の言葉が語られると、出来事が起こり、御心が実現するのであります。神様が天使を通して、「あなたは身ごもって男の子を産む」と言われ、「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」と語ったことは、神様の深い御心から来る御計画、大きな愛から来る決断であり、それを聞いたマリアが信じて、受け入れた時に、その通りになるのであります。

5.お言葉どおり、この身に成りますように

38節を見ると、マリアは言っております。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」――「わたしは主のはしためです」と言っております。「はしため」とは女奴隷のことです。奴隷は主人の言うことに従順に従います。たとえ自分には理解出来ないことであっても、たとえ自分には不利益になることであっても、主人の言うことに従うのが奴隷であります。マリアも、まだ疑問が解消されたわけではありません。ヨセフが信用してくれるという保証もないし、世間が認めてくれる保証もありません。これからこの事によってどれだけ苦労しなければならないかも見えていません。相当苦労しなければならないことは予想出来たでしょう。しかし、ここでマリアは天使の言葉、すなわち神様の言葉を受け入れました。そして全てを神様に委ねました。全ての困難は神様が解決して下さると信じました。そしてこう言ったのであります。
 ここでマリアは、「そんなことは私にはとても信じられません」と言うことも出来ました。或いは、「言われることが、その通りになったら信じます」と言うことも出来たでしょう。いずれにしろ、やがて結果が出ることであります。ダビデの王座につくかどうかは、少し先にならないと分からないにしても、男の子が生まれるかどうかは、10ヶ月後にははっきりすることであります。天使の言ったことが本当かどうかは、やがて証明されるのであります。けれども、今は、分かりません。その中でマリアは信じたのであります。もし彼女がここで信じなかったならば、彼女は主イエスの母にはならなかったかもしれません。しかし、彼女は信じたのであります。そして主イエスを身ごもったのであります。――このように、マリアが受け入れることが出来たことは、驚くべきことであります。これは聖霊の働きというほかありません。しかし、マリアがこの事を受け入れ信じたことによって、間もなく自分のお腹に子を宿すことになって、マリアは神様のおっしゃった事が本当であったことを、身を持って知るという、最高の喜びを体験することが出来ました。
 <信じる>ということは、このようなことであります。結果が出て信じるのは、信じる中に入りません。ただ神様の言葉だから信じる時に、恵みの結果が与えられるのであります。しかし、信じること自体も聖霊の働きであります。神様はお選びになった人に、このように信じることの出来る恵みをお与えになるのであります。

結.マリアと共に私たちも

初めに申しましたように、ここに記されている出来事は、私たちからは遠い世界のことではなくて、私たち自身の救いに関わることであります。このことを信じるかどうかは、私たちが救われるかどうかに関わっています。しかし、このことを自分に関わることとして真剣に受け取ろうとするならば、戸惑いと躓きを覚えざるを得ません。苦難や犠牲を伴うことであるかもしれません。これまでの生き方を変えなければならないことでもあります。
 しかし、天使とマリアとの対話によって分かって来たことは、自分たちの思いを越えた神様の御意思によって起こっているということであり、天使が言うように、「主があなたと共におられる」ということ、主が私たちの救いのために介入されているということでありました。そこでマリアは、未だ全てが見えてはいないながら、神様の言葉に全てを委ねることが出来ました。そして、平安と喜びに満たされることが出来ました。これは大きな奇跡であります。神の子が人に成るということも奇跡だし、処女マリアが身ごもるということも奇跡ですが、それをマリアが受け入れたということは、それらにも勝る大きな奇跡であります。これは他でもなく聖霊の働きによることであります。
 私たちも今日、聖書を通して、天使の言葉を通して、不思議な主イエスの誕生の知らせを聞きました。それは私たちの理解を越えた出来事であります。しかも、このことを通して神様が私たちの人生に介入しようとなさっていること、私たちを救いに入れようとなさっているということは、俄かには受け入れ難いことであります。しかし、それが神様の御意思によることであり、そこに聖霊が働いているのであれば、様々な疑問や、これを受け入れることによって負わなければならない重荷も、全て神様の御心の内にあり、神様が私たちに恵みを与えて下さる手段であると信じることが出来るのではないでしょうか。神様はそのような信仰を聖霊によって私たちに与えて下さって、私たちもマリアと一緒に、「お言葉どおり、この身に成りますように」と言うことが出来るのではないでしょうか。そして、喜びに満ちた本物のクリスマスを迎えることが出来るのであります。 祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 今日、全世界で行われている待降節の礼拝の群れに、私たちも加えて下さって、ありがとうございます。
 クリスマスの出来事は、私たちの理解を越えた事柄であります。私たちは戸惑いを覚えざるを得ないし、これまでの生き方を揺さぶられる出来事でありますが、どうか、あなたの御言葉に全てを委ねる者とならせて下さい。どうか、そのために、聖霊を送って下さい。
 様々な不条理と重荷を負って、苦しんでいる方、あなたを信じることに困難を覚えたり、決断を躊躇している方々を特に顧みて下さり、あなたがどのような所、どのような時にも、共にいて下さることを信じさせて下さい。
 どうか、あなたを知らずして苦しみや孤独の中にある人を顧みて下さい。どうか、このクリスマスの機会に、あなたの恵みに出会うことが出来ますように計らって下さい。
 この祈りを、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げいたします。                              アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年11月28日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書1:26-38
 説教題:「神からの恵み」
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