「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」                          (ルカによる福音書213,4  主イエスは十字架の時が迫る中で、神殿の境内で人々に教えたり、祭司長・律法学者たちと論争したりしておられたが、この時は人々が献金をする様子を見ておられた。金持ちたちは多額の献金を得意そうに賽銭箱に入れていたが、主イエスは、彼らの内面には神に対する感謝と信頼が欠けていることを見抜いておられた。そこへ貧しいやもめがやって来て、レプトン銅貨2(今の邦貨にして50100円程度)を入れたのを見て、主イエスは標記のように弟子たちに語られた。やもめは<2枚とも献げると後で困るかもしれない>とは考えず、全てを神に委ねて全部を献げた。「生活費」という語は「人生」「命」とも訳せる。やもめは自分の人生や命そのものを献げるに等しいことをしたのだ。主イエスは上辺の金額ではなく、人の生活や人生とともに心の内面や信仰も、全てを見ておられるのである。
 やもめ自身は、人に見られていること、知られていることを全く考えずに、誰に評価されることも期待せずに、自由に決断して献げた。人の目に囚われている律法学者(204547)や、神殿のすばらしさに目を奪われている人たち(2156)とは異なる。私たちも人の目や上辺の姿に囚われて、自由な生き方が出来ていないのではないか。だが、全てを神に委ねることによって、やもめのように自由で喜びに満ちた生き方が出来るのだ。
 ところで、主イエスは標記のように語られることによって、弟子たちや私たちに対して、やもめのような固い信頼と篤い信仰を持つようにとの高いハードルを課せられたのであろうか。そうではない。主はこのやもめの姿の中に、全てを神に委ねて十字架に向かわれる御自身の姿を重ねて、聴く者たちに示しておられるのだ。神に信頼しきれない私たちの罪のために、主イエスは御自分の「生活費」ならぬ「命」を献げて下さった。この主を仰ぐとき、私たちも自分なりの感謝と献身のしるしを、喜びをもって献げることが出来るのではないか。主はそれを「だれよりもたくさん入れた」と言って下さる。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2010年11月21日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書21:1−4
 説教題:「わたしを献げる」
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