序.主は何を見られるのか/私たちは何を見るのか

先程朗読していただいたルカによる福音書211節から4節までに書かれていることは、主イエスが十字架にお架かりになる直前の、いわゆる受難週の出来事の一つでありますが、主イエスはエルサレムの神殿にお出かけになって、そこで民衆に教えたり、祭司長・律法学者たちと論争をなさった続きの場面であります。
 今日の箇所では、主イエスは神殿の賽銭箱の近くで、人々が献金を入れる様子を見ておられます。なぜそんなことをしておられるのでしょうか。もし私たちが、礼拝で他の人が献金をする様子を見ていて、誰が沢山入れたとか、少ししか入れなかったかなどと考えているとしたら、好ましい態度だとは言えません。しかし、主イエスは、誰がいくら入れたかというような表面的なことを見ておられたのではなくて、一人一人がどのような感謝と信頼を神様に献げているのか、その心の内をしっかりと見ておられたのであります。
 私たちも今、こうして教会に来て、礼拝をしています。そのような私たちを主イエスはしっかりと見ておられるのではないでしょうか。私たちがどのような感謝と信頼を神様に献げているのか、私たちの心の内を見ておられるのではないかと思います。
 ところで、聖書は私たちの生き方、私たちのあるべき姿を教えてくれるものであります。特に、信仰者としてのあり方や、生き方が随所で教えられているのは確かであります。今日の箇所も、ここに描かれている主イエスのご様子やお言葉から聴き取るべきことは、私たちのあるべき姿なのでしょうか。しかし、主イエスは聖書について、こんなことを言っておられます。ヨハネによる福音書539(173)を見ますと、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しするものだ」と言われているのです。ここで「永遠の命」と言われているところは、<正しい生き方>とか<本当の命>と読み替えてもよいと思います。つまり、私たちは聖書というものを、私たちの正しい生き方とか、本当の命のあり方を見出すことの出来る書物だという理解を持っていますが、主イエスは、「聖書はわたしについて証しするもの」、つまり、イエス・キリストのことを私たちに指し示すものだ、とおっしゃるのであります。この主イエスの見解によれば、聖書は私たちの生き方を示す人生読本などではない、ということであります。そうであるならば、聖書を読んで、そこから<私たちが如何にあるべきか>という事を読み取ったとしても、それは聖書が本来指し示そうとしているものを、まだ読み取っていない、ということになります。聖書を読むには、そこからイエス・キリストの姿が浮かび上がって来るような読み方をしないといけない、ということになります。
 なぜ今、こんなことを申し上げたかと言うと、今日の箇所では、主イエスが献金をしている人々の様子をご覧になっており、そこでは、やもめ(未亡人)の行為に焦点が当てられている箇所でありますので、そこから私たちの行為や生き方を学ぶ箇所だと受け取るのが普通の読み方でありますが、先程のヨハネ福音書にある主イエスのお言葉によれば、それだけに留まっていては、この箇所が本来示そうとしていることを読み取っていない、ということになるからであります。この箇所から見えてくるのは、実はイエス・キリストのお姿だということであります。もちろん、主イエスのお姿が見えてくることによって、私たちの有り様も変わって来ます。私たちの礼拝の仕方、献金する心も変わって来ます。しかしそれは、私たちが一念発起したら変わるとか、私たちが心を入替えたら変わるというのではなくて、あくまでも、主イエスのお姿を発見することによってである、ということであります。ですから、今日も、この箇所によって、やもめの姿を通して私たちの有り様を学ぶというよりも、ここから主イエスのお姿を見出すような聴き取り方をしなければならない、ということであります。

1.内面を見抜かれる主

さて、211節には、この時の主イエスの様子が記されています。イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。主イエスは人を見られます。私たちを見られます。どこを見られるのでしょうか。何の目的で見られるのでしょうか。興味本位で見ておられるのではありません。先程も申しましたように、心の内を見ておられるのであります。一人一人がどのような感謝と信頼を献げているかを、見ておられるのであります。
 すぐ前の45節からの段落を見ていただきますと、小見出しは「律法学者を非難する」となっていまして、主イエスが普段、律法学者の様子を見ておられて、気にかかっておられることを述べておられます。46節以下で、こう言っておられます。「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」――律法学者たちは、自分が人からどう見られているか、人の目を気にして、人に偉く見られるように振る舞います。「やもめの家を食い物にする」というのは、当時の社会において、やもめは弱い立場にあったので、保護しなければならないとされていましたが、律法学者はやもめたちの相談に乗ってあげるという口実でやもめから利益を受けたり、人々から尊敬を受けるということがあったようです。主イエスはそんな律法学者の、上辺を繕っている偽善を見抜いておられたのであります。
 また、今日の箇所のすぐ後の5節からの段落では、ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、主イエスが「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と言われたことが記されています。ここでは「ある人たち」と書かれていますが、マルコ福音書の併行箇所では弟子の一人が「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と神殿の見事な建築に感嘆していた時に、同じ言葉を語られたとされています。いずれにしましても、主イエスは立派に見える神殿がやがて崩壊することを予告されていまして、外見では立派に見える神殿とそれを支える宗教指導者たちの中にある脆さを見抜いておられたのであります。
 このように、主イエスは私たちの内面を鋭く見られる方、そこにある信仰が本物かどうかを見抜かれるお方であります。私たちは人の前では上辺を繕うことが出来ても、主イエスの前では全てが見通されている、ということであります。その主イエスが、金持ちたちの献金の様子を見ておられて、彼らの内心をどう見抜かれたのかは記されていませんが、おそらく、外見では多額の献金を得意そうに入れておりながら、内面的には神様に対する感謝と信頼が欠けていることを見抜かれていたのではないでしょうか。

2.だれよりもたくさん入れた

さて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた主イエスは、続いて2節では、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見られたことが書かれています。レプトンというのは最小の銅貨で、今の日本のお金でいうと50円か100円くらいに相当する金額です。献金の額としては、大きくない金額です。ところが、これを見た主イエスはこう言われました。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」
 「貧しいやもめ」と言っておられますが、そのことは誰の目にも分かったわけではありません。たまたま主イエスが知っておられる人だったということではないでしょう。主イエスはこの人の生活も心の内も見抜いておられるということでしょう。「乏しい中から持っている生活費を全部入れた」ということを御存知でありました。このやもめは二枚のレプトン銅貨を持っていましたから、一枚を残しておくことも出来たわけですが、<二枚とも献げると後で困るかもしれない>とは考えずに、後のことは神様を信頼して、全部を献げてしまいました。ここで「生活費」と訳されている言葉は<人生>とか<いのち>とも訳せる言葉です。人生全体、命そのものを献げるにも等しいことをしたのです。主イエスはそのことをちゃんと見ておられました。主イエスは上辺の金額だけでなく、その人の生活や人生も、心も、信仰も全てを見ておられたのであります。そして、このやもめの献金が、あの金持ちたちの誰よりもたくさん入れたと評価なさったのであります。
 私たちが教会で献げる献金というのは会費のようなものではありません。だからいくらでないといけないということはありません。多ければ功徳があるとか、神様に評価されるということはありません。献金は神様の恵みに対する感謝のしるしであると共に、神様へ自分自身を献げる献身のしるしであります。私たちは神様の恵みに対する感謝は意識して献金すると思いますが、献身のしるしであるということを忘れ勝ちであります。献身ということは、神様に全てをお任せして自分を神様の御心のままに用いていただく、ということであります。ですから、献金は自分の持っているものの一部を献げるのであっても、自分の持ち物も生活も一切を神様に献げることのしるしであります。献金をする時には、そのことがもっと意識されなくてはなりません。私たちは生活の一部を神様のために用いているかもしれませんが、大半は自分の都合やこの世での付き合いを優先して用いているのではないでしょうか。献身ということを意識すると、うっかり献金が出来ないという思いになるかもしれません。けれどもそれだけに、私たちが献金をする時に、それが献身のしるしであることを思い起こすことが大切です。主イエスは、やもめの献金をそういう観点から見て評価されましたし、私たちが献げる献金も、そういう観点から御覧になるということであります。つまり、私たちがどのような状態の中で、どのような献身と信頼の心を持って献げているかを、すべて見透しておられて、そのような心を込めた精一杯の私たちの献げ物を喜んで下さるのであります。

3.知られざる自由

ところで、主イエスはやもめの献金の様子を見ておられましたし、私たちの献金も見ておられる、ということを申しましたが、やもめ自身は主イエスに見られていることは知りませんでした。人に見られていること、知られていることを全く考えずに献げたのはまちがいありません。もし、主イエスがこのことを弟子たちにお話しにならなかったら、誰も知らないことであります。生活費全部を献げるということは、やもめにとって大きな決断であったかもしれませんが、やもめはそれを誰に強いられるわけでもなく、誰に評価されることを期待するのでもなく、自由に決断したということであります。決断という言葉は当てはまらないかもしれません。もっと自然に神様への信頼の中から出て来たことかもしれません。むしろ、こんな小さな額の献金しかできないことを恥じ入りながら献げていたのかもしれません。まして、生活費全部を献げたことを神様の前に誇るというような気持ちは全くなかったでしょう。ただ、神様への信頼をもって献げただけであります。そういう点で、前の段落で非難されている律法学者とは正反対であります。彼らは人にどう評価されるか、人の目ばかり意識していました。彼らは自由ではありません。人の目に囚われています。私たちもとかくそうなり勝ちであります。献金のことだけではありません。私たちの行動、生き方のすべてが、人の目に囚われて自由ではありません。神様への感謝と信頼に基づく生き方になっていません。そのような生き方には自由がありませんし、安心がありませんし、そこから喜びも出て来ません。すべてを神様に委ねて、神様に自分の持ち物の一部ではなくて、生活の全てを献げるところから、本物の安心と喜びが出て来るのであります。
 もちろん、全ての財産と生涯を教会のために献げなければ、喜びが与えられないとか、生活費の全部とか殆どを献げるならば救われる、ということが言われているのではありません。神様は、私たちが苦しい生活をしたり、ひもじい思いをすることを望んでおられるわけではありません。私たちが沢山の献金をして、自分の犠牲の大きさに自己満足しているのでは、決して神様はお喜びにならないでありましょう。神様は私たちから全ての物や、必要なものを取り上げることに喜びを持たれるのではありません。むしろ、神様は、私たちがお願いする前に私たちの生活に責任を持ち、全て必要なものを備えてくださいます。大切なことは、神様への信頼であります。神様は必ず必要なものを備えて下さるし、自分に最も相応しい働きの場所なり生き方を与えて下さるという信頼であります。そこから、自由で喜びに満ちた生き方が出て来るのであります。

4.十字架の主との二重写し

しかし、そのことは理解出来ても、それほどの信頼を神様に寄せることが出来ていない自分があることに気づかされますし、そのような自己放棄とも言えるようなことに対して尻込みする気持ちがあることも否定できません。やもめが「乏しい中から持っている生活費を全部入れた」ということを主イエスが評価されたということによって、神様への固い信頼とか熱心な信仰という高いハードルが私たちの前に立てられたように思われるかもしれません。
 けれども、最初に申しましたように、聖書を私たちの生き方やあるべき姿を示したものとして読むだけでは、聖書が私たちに伝えようとしたことを十分に聴き取ったとは言えないのであります。聖書は私たちに高いハードルを突きつけるために書かれたのではありませんし、主イエスがここで弟子たちにこのように語られたのも、その言葉を今日こうして私たちに聞かされているのも、<お前は生活費の全部を献げていない>とか、<お前はすべてを神様に献げ切っていないから、信仰心がまだ浅くて不合格だ>とか、<もっと精進して、神様への信頼を高めなさい>ということを言おうとされているのではないのであります。私たちは、この主イエスのお言葉から、主イエス御自身のお姿を読み取らなければ、聖書を読んだことにならないのであります。
 主イエスは確かに、ここで御覧になったやもめの姿の中に、神様に信頼を献げている生き方を見られたのでありましょうが、そのことを指摘なさることによって、これを見習えとおっしゃっているというよりも、このやもめの姿の中に御自分の姿を指し示しておられるということではないでしょうか。やもめの姿の中に、私たちの理想像が示されているというよりも、主イエス御自身のお姿が映し出されていることに、私たちは気づかなければなりません。
 主イエスはすべてを神様の御手に委ねて、十字架に架かられました。正に、生活費ならぬ「命」を献げられたのであります。この出来事はその十字架のことが目の前に迫っている時のことでありました。ですから主イエスにとって、やもめのしていることと自分がこれからしようとなさっていることが重なって見えたのではないでしょうか。だからこそ、やもめの献げ物を、正に御自身のことのように喜ばれたのであります。主イエスは、私たちが神様に信頼を献げ切れないでいる罪のために、神様の御心に従って、御自身の生活費ならぬ命を献げて下さったのであります。私たちは、そのような大きな恵みを与えられているのですから、私たちの命が、また生活の全てが主によって守られていることを信じることが出来ますし、そのことに対して、私たちなりの感謝と献身のしるしを、喜びをもって表わすことが出来るのではないでしょうか。

結.わたしを献げる

今日の説教の題を「わたしを献げる」といたしました。貧しいやもめは、その生活費全部を献げました。それは「命」を献げるに等しいことであり、正に「わたしを献げる」ことでありました。これは言い換えれば「献身」することであります。主イエスはこのやもめの「献身」を高く評価され、喜ばれました。このことを弟子たちに話され、私たちも聞かされているのは、主は弟子たちや私たちも「わたしを献げる」こと、すべてを主に委ねて「献身」することを求めておられるし、そうすることを喜んでくださる、ということであります。しかし、主イエスが弟子たちに伝えようとされたこと、そして今日私たちに知らせようとしておられることは、それに留まるものではありません。主イエスは弟子たちや私たちに「献身」を要求されるのではなくて、まず御自分を私たちのために献げようとしておられるのであります。主御自身が<お前たちのために「わたしを献げる」>と言って下さっているのであります。最後に、先程朗読された旧約聖書の詩編508節以下の御言葉(旧p883)をもう一度聴きたいと思います。
 献げ物についてお前を責めはしない。お前の焼き尽くす献げ物は常にわたしの前に置かれている。わたしはお前の家から雄牛を取らず、囲いの中から雄山羊を取ることもしない。森の生き物は、すべてわたしのもの、山々に群がる獣も、わたしのもの。山々の鳥をわたしはすべて知っている。獣はわたしの野に、わたしのもとにいる。たとえ飢えることがあろうとも、お前に言いはしない。世界とそこに満ちているものは、すべてわたしのものだ。わたしが雄牛の肉を食べ、雄山羊の血を飲むとでも言うのか。
 告白を神へのいけにえとしてささげ、いと高き神に満願の献げ物をせよ。それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって、お前はわたしの栄光を輝かすであろう。               (詩編50815
 ここに語られているように、神様は私たちの献げ物を当てにするようなお方ではありません。神様が喜ばれるのは、神様への信頼の告白をいけにえとして献げることであります。その告白さえ私たちは口ごもり勝ちな者であります。しかし、レプトン銅貨二枚を入れたやもめのことを「だれよりもたくさん入れた」とおっしゃる主は、私たちの小さな献げ物と貧しい信仰告白をも「だれよりもたくさん入れた」と言って下さるのではないでしょうか。それは、主イエスが「わたしを献げる」と言って下さっているからであります。
 祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 貧しいやもめの姿を通して、十字架の主イエスのお姿を仰ぐことを許されて感謝いたします。
 主イエスが私たちのために尊い命までも献げて下さったのですから、どうか私たちの生涯が、いくらかでもあなたのお役にたちますように、お用い下さい。どうか、私たちに与えられた時間や持ち物や体を、御心にかなって献げることが出来るようにさせて下さい。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年11月21日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書21:1-4
 説教題:「わたしを献げる」
          説教リストに戻る