序.召天者記念日――再臨を待ち望む

今日は召天者記念日として礼拝を守っています。カトリック教会では殉教者や聖人を覚える日として、諸聖人の日(万聖節とも呼ばれる)というのがこの時期に行われるようですが、プロテスタントの教会では聖人を崇敬するということはしませんが、天に召された信者の方々を偲びつつ、故人の上にあった神様の恵みを覚えるとともに、それに続く私たち自身の永遠の命について考える日として、「召天者記念日」あるいは「諸聖徒の日」、「永眠者記念日」といった呼び名で11月の第一日曜日または復活節に併せて、記念の礼拝や墓地礼拝を行う教会が多いようです。
 間違ってはいけないのは、私たちの召天者記念日というのは、後ろ向きに亡くなった故人を偲んだり、故人の信仰や業績を称えるのが主眼の日ではなくて、故人を偲びつつも、来るべき主イエスの再臨の時を覚えて、その時のために私たちがどう備えるかということを前向きに考え直す日だということであります。主の再臨の日とは、主イエスが再び来られる日であると共に、既に召された故人も、そして私たちも復活して、主の前に呼び出される日であります。その日に、主の祝宴に故人や諸聖徒と共に、私たちも与ることが出来るかどうかが問題であります。そのことを共に考えるのが、召天者記念日であります。
 先週までしばらく、創世記から御言葉を続けて聴いて参りましたが、今日のテキストがルカ福音書になっているのは、召天者記念日に合わせたためではなくて、引き続き日曜学校のカリキュラムに合わせているからなのですが、今日の箇所は再臨の日のことを主イエスが譬えを用いて語っておられる箇所で、この日にちょうど相応しい箇所であります。あるいは前の教育委員会が召天者記念日のことも考慮に入れてこの箇所を選んだのかもしれません。いずれにいたしましても、今日はこの与えられた聖書の箇所を通して、召天者記念日に与えて下さる神様の御言葉を聴きたいと願っております。
 ところで、今日の箇所で主イエスは誰に向かって話しておられるのでしょうか。12章の初めの1節を見ますと、とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた、とありますように、弟子たちに語り始められた話がここまで続いているのであります。ですから、今日の箇所の中で主人と主人の帰りを待つ僕が登場しますが、それは、主イエスと弟子である信仰者をあらわしていて、<あなたがたは僕なのだから、僕としての役割をしっかり果たしなさい>、と弟子たちに教えておられるのであります。
 この主イエスの話が終わると、41節でペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と尋ねています。それに対して主イエスは、「主人が、召し使いたちの上に立てて、時間通りに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのをみられる僕は幸いである」と語っておられますから、これは「忠実で賢い管理人」となるべき僕、つまり弟子たちのことが語られているということであります。それでは今日の箇所の話は、弟子でない人たち、まだ弟子になっていない未信者の人たちには関係がないのかと言うと、そうではありません。この後、54節になると、イエスはまた群衆にも言われた、とあって、弟子以外の人々にも語っておられるのでありますが、その段落では、「今の時を見分ける」ということの大切さについて述べられていますし、57節では、「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」と言って、あなたがたも裁判官のもとに連れて行かれる、ということを警告しておられます。つまり、終わりの日(再臨の日)の主の裁きのことを警告しておられるのであります。ですから、弟子以外の未信者の人々も弟子になって、終わりの日に帰ってこられる主人を待つ人になりなさい、という警告も含まれているのであります。今日は、召天者のご遺族として、信者の方もおられますが、未信者のご遺族もおられます。今日の箇所の御言葉は、直接的には、弟子である信者に向けて語られたものでありますけれども、<未信者の方々にも聞いてもらって、是非とも僕である信者になってもらいたい、そして一緒に主人である私の再臨を待ち望んで欲しい>、という主イエスの思いも込められた言葉であるとして受け止めていただきたいと思いますし、そう受け止めるのが相応しいと思うのであります。

1.帰って来る主人――再臨のキリスト

さて、今日の説教の題を「帰ってくる主人」といたしました。この「主人」というのは、先に夫を亡くされたご遺族のご主人のことではなくて、先程からも申しておりますように、イエス・キリストのことであります。主イエスはご自分の死と復活について予告されましたが、それと共に再臨のことを予告しておられるとみられる箇所が何箇所もあります。このルカによる福音書では、ペトロが主イエスに対する信仰を告白したあと、921節以下で死と復活のことを予告され、その続きの26節で、「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる」とおっしゃっていて、ここに「栄光に輝いて来るとき」ということが語られています。今日の箇所でも、譬えを語られたあと、40節で、「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」と言っておられます。この後も、「人の子が来る」ということを何度か言っておられます。そして、十字架と復活のあと、昇天されたときのことが使徒言行録に書かれていますが、そこでは天使がこう言っております。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒111)と言っております。
 こうして初代の教会では、主イエスの再臨を今か今かと待つようになり、そのことが色々な手紙の中に記されているのでありますが、主イエスは何のために再臨なさるのか、その目的はと言えば、罪からの救いの完成であります。主イエスは十字架と復活によって私たちに必要な救いの御業を果たして下さいました。後は、私たちがその救いを信じて受け入れるかどうかであります。主イエスは世界中に教会を建て、この救いの福音を一人でも多くの人に伝えようとしておられます。今、主イエスは私たちが悔い改めて、この救いを信じるようになることを、忍耐をもって待っておられます。そして、やがて終わりの時(終末)が来ます。主イエスが再び来られます(再臨が起こります)。その時までに主イエスを信じて救いを受け入れていなければ、神の国に入ることは出来ません。永遠の滅びに陥ってしまいます。最後の審判です。しかし、主イエスを信じる者は、永遠の安息に入れられます。再臨の日は、恐ろしい裁きの日であるとともに、信じる者にとっては希望と喜びの日なのであります。パウロはテサロニケの信徒への手紙の中で、こう言っております。「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。」(Ⅰテサロニケ219,20)―――再臨の主イエスを待ち望みつつ、教会において御言葉を聴きながら、終わりの日を待ち望む生き方をしている者こそ、希望に満ちた喜びの生活を送ることができると、パウロは言っているのであります。
 「終末」というと、一般には世の終わりとか地球最後の日というイメージで語られることが多いのですが、聖書が教える終末というのは、ただ何もかもが潰(つい)える日、来て欲しくない滅亡の日ではなくて、イエス・キリストが再び来て下さる日であり、待望の日、希望の日、喜びの日なのであります。

2.目を覚ましている――腰に帯を締め、ともし火をともして

 主イエスは再臨の日の喜びのことを、しばしば神の国における祝宴の譬で語っておられるのでありますが、今日の箇所もその一つであります。ここでは主人が婚宴のために出かけています。それは主イエスが天に昇られたことを表わしています。僕たちは主人が帰ってくるのを待っています。この僕が私たちであります。ここで大前提とされていることは、<主人は必ず帰って来る>ということです。
 問題は、僕たちがどのような心構えで主人を待っているか、ということであります。そこで主イエスは、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ3537a)と言っておられます。
 ユダヤの婚宴というのは、夕方から始まって、延々と続くのだそうです。夜中で終わるのでなく、明け方まで続いたり、一週間も続くことも珍しくなかったようです。ですから、婚宴に招かれて出かけた主人がいつ帰って来るか分かりません。夜中に帰って来るかもしれません。そこで僕たちは主人がいつ帰ってきてもよいように、眠りこけてしまわないようにしなければなりません。「目を覚ましている」というのは、単に眠らないということではなくて、いつでも主人を迎えられる体制が出来ている、ということであります。「腰に帯を締める」というのは、長い衣を着る人が、出かけたり仕事をするために身支度することであります。いつでも主人のために仕事が出来るようにしておく、ということです。「ともし火をともしている」というのは、たとえ暗い時間帯に帰って来るようなことがあっても主人を困らすことがないようにする、ということであります。これらは一言で言えば、緊張感をもって、主人の帰りを待ちなさい、ということであります。
 では、主イエスはこの譬えをもって、私たちに何を求めておられるのでしょうか。再臨がいつ起こるかわからないといっても、私たちは年中、張り詰めた緊張状態でいるわけには行きません。ここで言われているのは、いつ主人が帰って来てもよい準備が整えられているということであります。いつ主イエスの前に出なければならない時が来てもよいように、備えが出来ている、ということであります。では、主イエスを迎えるための備えとは何でしょうか。私たちが非の打ちどころのないように完璧な生き方をしているということでしょうか。キリスト者として尊敬を受けるような教会生活をしているということでしょうか。そうではありません。もし完璧な生活が出来るなら、主イエスをお迎えする必要もありません。私たちはあくまでも僕であって、主人にはなり得ません。しかし私たちは、いつの間にか自分が主人になってしまうのであります。自分は誰からも文句を言われない生き方をしていると自負したり、主イエスに相談せずに、自分の判断と自分の力で生きて行けると思ってしまったりするのです。調子よく行っているときは、そうなり勝ちであります。主イエス不在の生き方になるのであります。教会の歩みもそうであります。教会の主人はもちろんイエス・キリストであります。主イエスの御心を聴き、主イエスの助けを受けてしか、まともに進めない筈であります。それだのに、主イエスなしでもやって行けるかのように、御言葉に聴くことがよい加減になり、祈ることも少なく、ただ動き回っているだけになってしまっていないか、ということであります。主人の帰りを待つのに相応しい備えとは、自分たちで完全に準備を整えるというよりも、主人の帰りを心底から待ちわびるということ、主人の姿は見えなくても、いつも主人を主人として尊んで頼りにし、主人の御心を尋ねる、ということではないでしょうか。目を覚ましているとは、私たちの心の目がいつも主イエス・キリストに向かって開いているということであります。

3.主人が帯を締めて、給仕をする

ところで、37節後半を見ると、不思議なことを付け加えて語っておられます。「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕をしてくれる。」37)――どういうことでしょうか。主人が帰ってきた時に、すぐに主人の足を洗ったり、お疲れでしょうと飲物を用意したり、着替えを手伝ったり出来るように、準備をしておくように、ということではなかったのでしょうか。ところが逆に、主人が帯を締めて、待っていた僕たちを食事の席に着かせて、給仕を始める、とおっしゃるのであります。婚宴の席で出たお祝いの食べ物を持ち帰ったということでしょうか。待っていた僕たちにも婚宴の喜びを分けようということでしょうか。よく待っていてくれたと、ねぎらってくれるということでしょうか。ともかく主人と僕が逆転するようなことが行われるのであります。これは何を意味しているのでしょうか。――これが実は、主イエス・キリストと私たちの関係を示しているのであります。これからずっと後の2224節以下には、弟子たちが自分たちの間でだれがいちばん偉いのか、というような議論をし始めたことが書かれていますが、その時に、主イエスが27節でこういうことを言っておられます。「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」(2227)主イエスが弟子たちのために給仕をなさるとおっしゃっているのです。そのことで思い当たることがあります。主イエスは最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗われたということが、ヨハネによる福音書13章に書いてあります。これは何を意味していたのでしょうか。それは、主イエスが弟子たちのため、そして私たちのために、十字架に架かって下さるほどに仕えて下さるということをお示しになったのでありました。事実、主イエスはそのようにして私たちの身代わりとなって死んで下さったのです。
 そのお方が、終わりの日にもう一度帰って来て下さるということであります。それは、十字架と復活によってなされた私たちのための救いの業を完成されるためです。終わりの日に主イエスが再臨なさるということは、ただ単に、聖書に書かれている主イエスに実際にお会い出来るというだけのことではありません。私たちのために命を捨ててまで愛し抜いて下さった救いの御業を完成される、ということなのであります。私たちは今も、罪を犯し続けています。主人である主イエスのことを無視したり、自分の都合のよいように利用しようとしたりしています。それは弟子として全く相応しくないことであります。しかし、主イエスはそのような罪深い私たちのために、罪の赦しを完成し、何としても神の国に入れようとしていて下さるのであります。そして、その日には、自ら帯を締めて、私たちのために天国の祝宴の席に着かせて下さるのであります。私たちに必要なことは、38節にあるように、「主人が真夜中に帰っても。夜明けに帰っても、目を覚ましている」ことであります。主人の帰りを待ちわびて、心を主イエスに向け続けているということであります。

4.人の子は思いがけない時に来る

39節以下には、もう一つの譬が語られています。「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」これも終わりの日のことを示された譬えであります。終わりの日がいつ来るのかということは、誰にも分かりません。主イエスは別の機会に、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である」(マルコ1332)と言われました。主イエスも再臨の日がいつなのかを知らないとおっしゃっています。家の主人は泥棒がいつやって来るかを知らないように、主イエスもご存知ないのです。終わりの日の裁きは思いがけない時にやって来るのであります。うっかりしていると、私たちは永遠の審きを受けて、天国の祝宴に入れていただけなくなるかもしれません。しかし、目を覚まして用意しておれば、いつその時が来ても大丈夫です。主が戦って下さるからであります。その時には、必ず主が来て下さることを信じて、目覚めているなら、大丈夫であります。

結.小羊の祝宴

最後に、ヨハネの黙示録にいくつか記されている再臨の日の光景の一つを見たいと思います。黙示録195節以下(p475)をお開きください。
 また、玉座から声がして、こう言った。「すべて神の僕たちよ、/神を畏れる者たちよ、/小さな者も大きな者も、/わたしたちの神をたたえよ。」
 わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ、/全能者であり、/わたしたちの神である主が王となられた。わたしたちは喜び、大いに喜び、/神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、/花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、/聖なる者たちの正しい行いである。」
 それから天使はわたしに、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言い、また、「これは、神の真実の言葉である」とも言った。わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。すると、天使はわたしにこう言った。「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。」                    (黙示録19510

ここで、小羊とは主イエス・キリストであり、花嫁とは信者たち、即ち教会であります。私たちは、再臨の日の小羊の婚宴に招かれている幸いな者たちなのであります。目を覚まして、この日を待ちたいものです。     祈りましょう。

祈  り

私たちの主、イエス・キリストの父なる神様!
 主の再臨の時に向けて、時が刻々と進んでいる中で、私たちは、まどろみがちな者であり、何の備えも出来ていないような者でありますが、今日、御言葉をもって目覚ましめて下さり、幸いな僕の一人としてお招き下さいましたことを感謝いたします。
 
どうか、既に天に国籍を与えられている先人たちとともに、終わりの日の祝宴に連なることが出来る者とならせて下さい。
 どうか、この後の召天者記念会も、あなたの祝福のもとに行うことができますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年11月7日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書12:35-40
 説教題:「帰ってくる主人」
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