序.大きな物語の喪失

1回の読書会で昨年の4月から1年かけて「大いなる物語の始まり」という、芳賀力先生が書かれた本を読みました。「大いなる物語」とは、旧約聖書、新約聖書を通じて書かれている神様の救いの物語のことで、その物語は今も続いており、これからも続けられて行くのであります。ところが多くの人は、その物語をよく知らなかったり、その物語に耳を傾けようとしなかったり、忘れてしまったりしています。芳賀先生はその本の中で、現代は「大いなる物語」を喪失した時代である、ということを述べておられます。春に大会応援伝道で来られた青木豊先生も、創世記の今日の箇所の教案の中で、やはり「大きな物語の喪失」ということを書いておられます。青木先生が言われるのは、近代文明の発展を背景として「人類の進歩、歴史の進歩」という物語を人々は追及し、その物語の中に自分を位置づけることで将来に対して希望を抱いて来たが、今やそれが崩れて、希望を見出せない時代になっているということであります。近頃、「龍馬伝」のような明治維新前後のドラマがよく取り上げられるのは、当時の人々が将来に向けての「大きな物語」に自分たちの夢を託している姿に、現代の人たちが魅せられるからだ、と言っておられます。確かに、今の日本も、世界全体も、夢のある「大きな物語」を描きにくい時代の中にあります。「大きな物語」がないということは、目先の「小さな物語」に希望を見出そうとすることになります。芳賀先生が書かれた本の中では、そんな「小さな物語」の例として、健康で美しいことだけが称賛される「健康至上主義」の物語や、多くの者が夢中になる立身出世のサクセス物語や、とっかえひっかえ相手を交換する男女のラブ物語や、政治理念がなく目先の票や利権に結びついた政治を巡る物語を挙げておられます。確かに、様々の「小さな物語」に興味をそそられたり、夢を託したりして、真の「大きな物語」を見失いがちな現代であります。
 8月以来聴いてきましたアブラハム、イサク、ヤコブ、そしてヨセフの物語は、神様の「大いなる救いの物語」の初めの部分でありますが、今日で創世記が終わり、来月からは新約聖書のルカによる福音書の物語に飛ぶことになります。今日の箇所は、ヨセフ物語の最後の部分で、ヨセフの人生は波乱に富んだ、苦難に満ちた歩みでありましたが、最後はいわばハッピーエンドになるのであります。しかし、これは単なるハッピーエンドの物語ではありませんし、青木先生も書いておられるのですけれども、単に道徳的な教訓を述べた物語でもありません。これは、神様の「大きな救いの物語」の一部であり、主イエス・キリストによって完成される、より大きな物語を指し示すものなのであります。先程、45章の前半を朗読いたしましたが、先週の続きの42章から要所を見て行きながら、この世の様々な大小の物語とは違う、神の物語の真髄の一部に触れたいと思います。

1.ヨセフの夢の実現
 13年ほど監獄生活を余儀なくされたヨセフは、エジプト王ファラオの見た夢を解き明かしたことによって、一躍、エジプトの総理大臣の地位に昇って、7年間の豊作の間に食糧の備蓄を指導し、その後、夢で示されたとおり、激しい飢饉に襲われるのであります。飢饉はヤコブ一家のいたカナン地方をも襲っていました。
 42章の1,2節を見ると、ヤコブは、エジプトに穀物があると知って、息子たちに、「どうしてお前たちは顔を見合わせてばかりいるのだ」と言い、更に「聞くところでは、エジプトには穀物があるというではないか。エジプトへ下って行って穀物を買ってきなさい。そうすれば、我々は死なずに生き延びることができるではないか」と言います。息子たちが顔を見合わせていたのは、「エジプト」という地名が、20年ほど前にヨセフをエジプトへ向かう隊商に売ったことを思い出させたからでしょう。彼らは父の命令に従ってエジプトへ行くことにしますが、父はヨセフの弟ベニヤミンだけは同行させませんでした。ヨセフと同じような不幸なことが起こるといけないと思ったからでありました。
 エジプトではヨセフが穀物の販売の陣頭指揮をとっていました。ヨセフの兄たちがやって来て、地面にひれ伏します。そのとき、ヨセフは一目で兄たちだと気づいたのですが、兄たちはエジプトの高官がまさかヨセフだとは気づきません。9節を見ると、ヨセフは、そのとき、かつて兄たちについて見た夢を思い起こしたと書かれています。畑でヨセフの束に兄たちの束がひれ伏した夢を思い出しながら、ここで神様が夢で示された計画が成就したのだということが分かりました。

2.我々は罰を受けているのだ――神がなさったこと
 しかし、ヨセフはそしらぬ振りをして、「どこからやって来たのか」(7)と問い、「お前たちは回し者だ。この国の手薄な所を探りに来たにちがいない」(9)などと申します。そして、兄弟が12人いて一人を亡くしたことを聞くと、シメオンだけを残して、カナンに残したベニヤミンを連れてくるように命じます。ヨセフは憎らしい兄たちに対して冷酷な仕打ちをしているようにも見えますが、これは神様が兄たちに与えた悔い改めの機会であります。21節を見ますと、「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった」といっております。自分たちの罪に気づき始めております。ヨセフは兄たちの会話を聞いていて、堪らなくなって陰で泣くのであります。神様の導きをお覚えています。しかし、ヨセフはあくまでも冷酷に、シメオンを残させた上で、穀物を与え、代金を受け取るのですが、その代金の銀をそっと穀物の袋に入れておくのです。帰り道でそのことに気づいた兄たちは、震えながら、「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは」(28)と言っております。彼らもまた、神様の御手を感じているのであります。
 カナンの父のもとに帰って報告すると、ヤコブは36節で「お前たちは、わたしから次々と子供を奪ってしまった。ヨセフを失い、シメオンも失った。その上ベニヤミンまでも取り上げるのか」と言って嘆きます。これを聞いて長男のルベンは、「もしも、お父さんのところにベニヤミンを連れ帰らないようなことがあれば、わたしの二人の息子を殺してもかまいません」(37)とまで言います。自分の息子だからといって殺してもかまわないと言うのは、現代の人権感覚には合いませんが、ルベンも事の重大さを知り、自分の罪を覚えると同時に責任を感じているということでしょう。

3.神が罪を暴かれた――罪に苦しむ
 ヤコブはこのルベンの説得には応じませんでしたが、更に飢饉がひどくなる中で、もう一度エジプトに行って、食糧を買わざるを得ない状況に至ります。そこで、今度はユダが父に、ベニヤミンを連れて行かなければ食糧を手に入れることが出来ない事情を述べて説得します。そのときユダは439節以下でこう言っております。「あの子のことはわたしが保障します。その責任をわたしに負わせてください。もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らず、無事な姿をお目にかけられないようなことにでもなれば、わたしがあなたに対して生涯その罪を負い続けます。」――ここにユダの真剣な態度を見ることが出来ますし、そこには神様が働いておられることを思わされます。
 こうしてやっと、ヤコブは説得に応じて、ベニヤミンを連れて行くことを承諾し、沢山の贈り物を持たせます。一行がヨセフの家に着くと、ヨセフはベニヤミンが一緒なのを見て、食事を用意させます。しかし、一行は以前に銀が袋に入っていたことで、ひどい仕打ちを受けるのではないかと恐れるのですが、エジプトに留まっていたシメオンを返してもらった上、歓待を受けます。そして、多くの食糧も手に入れることが出来ました。
 ところが、ヨセフはまた手の込んだことを致します。44章に記されていますが、ベニヤミンの袋の中に、払われた代金とともに銀の杯を忍び込ませるのです。そして、一行の帰り道で、追っ手を送り、袋を調べさせて、ベニヤミンが銀の杯を盗んだという濡れ衣を着せるのであります。一同が驚いてヨセフの所に戻ると、ヨセフは「お前たちのしたこの仕業は何事か」(15)と迫ります。それに対してユダは16節でこう言います。「御主君に何と申し開きできましょう。今更どう言えば、わたしどもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、わたしどもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります。」――銀の杯のことで疑いをかけられたことは、彼らにとって身に覚えのないことである筈です。それなのにユダは自分たちに罪があるかのような発言をしています。どういうことでしょうか。ユダはヨセフを売り飛ばした罪のことを思わざるを得なかったのではないでしょうか。そして、その罪を神様が暴かれているのであり、自分たちが償わざるを得ないと思っているのであります。
 このあと、4418節以下に、ユダの長い嘆願が記されています。ベニヤミンを残すと、父がどれほど落胆するかということを切々と述べた後、ベニヤミンの代わりに、自分を奴隷としてここに残してくださいと言うのであります。(33) 人間の罪は、誰かが代わりに負えるものではありません。人の罪を負えるのは、イエス・キリストだけです。しかし、ユダは今、自分の罪の結果、このような事態に立ち至ったことを自覚して、その代償は自分が負わなければならないと思っているのであります。ここに、ユダの悔い改めを見ることが出来ます。これを聞いたヨセフも、兄たちがその罪の重さに苦しみ、悔いていることが分かったでしょう。今の兄たちは、昔自分を売り飛ばした兄たちとは違うことを知り始めます。そして、その背後に神様の導きがあったことに気づくのであります。

4.神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになった
 さて、そこで先程朗読した45章のクライマックスの部分になりますが、ユダの嘆願を聞いたヨセフは、もはや平静を装っていることができなくなり、同席したものを退席させて、声をあげて泣きながら、ついに、3節にあるように、「わたしはヨセフです」と名乗りました。兄弟たちは驚きのあまり、何も答えることも出来ませんでした。彼らはエジプトへ売ったヨセフがこんなに高い地位に就いているということに驚くと同時に、あんなにひどい目にあわせたヨセフから、どんなひどい仕返しをされるかと恐れたに違いありません。ところが、ヨセフは兄弟たちを近づけると、思いがけないことを言います。4節の終わりからです。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。」(48)ここには、「神が」ということが4度も語られています。ヨセフはこの22年の間、苦しい目に遭うたびに、兄たちに売られたことを恨み、赦せないという気持ちになったことでしょう。「しかし今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません」と言い、「神がわたしを先にお遣わしになった」と言い、すべては神様が「あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです」と言っています。人間の罪から来る憎しみを超えて救いに至らしめられる、神様の御業を見ているのであります。
 ヨセフは異教の国に生活し、名前も「ツァフェト・パネア」というエジプト名をもらっていました。アブラハム、イサク、ヤコブの神を呪うこともあったかもしれません。しかし今は、人間の憎しみや思い上がりから来る醜い言動を越えた、大いなる神様の計らいを思わされて、まことの神様への信頼が甦ると共に、自分に対してひどいことをした兄たちを赦す心を与えられたのであります。ヨセフのところへ初めて兄たちが現れた時には、懐かしさと共に、穏やかならぬ気持ちを持ったかもしれません。それで、冷酷な扱いをしたり、濡れ衣を着せるような嫌がらせをしたのかもしれません。しかし、神様はそんなことをさえ用いて、兄たちに悔い改めを起こさせなさいました。そんな様子を見ているうちに、自分の方にも思い上がりから兄たちにひどいことをした罪があったことに思い至らされたかもしれません。そして何よりも、そんな人間の罪にまみれた言動をも、善いことに変えた給う神様の深い赦しの御心を知らされたのでありましょう。
 私たちもまた、ひどい仕打ちを受けるようなことがあって、腹立たしい思いに囚われることがあります。もうあの人とは関わりたくないという思いにもなることがあります。あんな人は裁かれて、不幸な目に遭えばいいとさえ思うことがあるかもしれません。しかし、そのような思いに縛られて、残された生涯を過ごさなければならないとすれば、大変不幸なことであります。いくら自分の正当性を主張出来ても、心が晴れることはありません。そうした思いに囚われていることは、悪魔に負けていることに他なりません。パウロはローマの信徒への手紙の中で、こう言っております。「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。……悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ1219,21)では、どのようにして憎しみや赦せない自分から解放されることが出来るのでしょうか。<赦さなければいけない>という義務感だけでは、感情を抑えることは出来ません。ヨセフは神様の御計画のことを考えたのであります。ヨセフが考えたというよりも、神様の大きな物語の中に組み込まれている自分を発見させられたと言った方がよいかもしれません。小さな憎しみや不幸の物語を越えた、神様の大きな救いの物語に気づいたのであります。アブラハム、イサク、ヤコブの神がイスラエルの民に約束された大きな救いの恵みを実現されていく物語の中に自分が置かれていることを知らされたのであります。ヨセフがエジプトで高い地位を与えられたから、大らかな気持ちを持つことが出来たというのではありません。自分をひどい目に遭わせた兄たちを見返せたから、兄たちを赦せたというのでもありません。そんなことは小さな物語に過ぎません。神の選びの民の救いということが大いなる物語なのであります。この神の大きな救いの物語は、今は教会を通して実現しつつあります。すべての人がこの神様の物語の登場人物であります。私たちが赦し難いと思っている人も、神様の大いなる物語の登場人物であります。そのことに気づくとき、私たちもヨセフのように赦しへと導かれます。

結.神の救いの物語の中にある私たち
 実は、私たちはヨセフよりももっと恵まれています。なぜなら、私たちはヨセフが気づいたよりも、もっとはっきりと大きな救いの物語を知らされているからです。それは、主イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、すべての人の罪を赦し、新しい命へと生かしてくださる神様の救いの御業が行われたからであります。多くの人は、まだこの大いなる救いの物語に気づいていません。この物語を知らされた私たちも、自分の実生活の中で、神様がその救いの物語を展開しておられることに気づかずに、小さな自分の物語の中で、「悔やんだり、責め合ったり」しているのかもしれません。しかし、私たちも、また全ての人が、神様の大いなる救いの物語の中にあるのです。そのことを知るとき、自分自身を考える考え方も、周囲の人と接する接し方も変えられるに違いないのです。 祈りましょう。

祈  り
 救い主イエス・キリストの父なる神様!
 ヨセフの物語を通して、互いに赦せない罪深い自分たちの姿を示されると共に、イエス・キリストを通して成して下さったあなたの大いなる赦しの物語の中に置かれている恵みを覚えさせられて、感謝いたします。
 様々のこの世の小さな物語に心を奪われて翻弄されがちな私たちでありますけれども、どうか、あなたの大いなる物語に自分を委ねる者とならせて下さい。
 どうか、先日の特別伝道礼拝に出席された求道者の方々も、また当日出席出来なかった方々も、あなたの大いなる救いの物語の表舞台に立たせて下さいますように、お願いいたします。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年10月31日  山本 清牧師 

 聖  書:創世記45:1-15
 説教題:「神の計画は大きい」
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