序.人の罪に翻弄される中でも――主が共におられたので

先週は田中先生による伝道礼拝で、ヨセフ物語は中断しましたが、先々週には、ヨセフの見た夢が兄たちを怒らせ、ヨセフはとうとうエジプトに行く隊商に売られてしまった顛末の物語を聞きました。そこには父ヤコブのヨセフに対する偏愛があり、ヨセフの思い上がりがあり、兄たちの憎しみと怒りがありました。神様の祝福が約束された筈のヤコブ(イスラエル)の家族も、人間の罪のために崩壊してしまったかに見える状態に陥ったのであります。
 そこからヨセフ物語の舞台はエジプトに移りますが、そこではヨセフにどのような運命が待ち受けているのでしょうか。創世記39章以下に記されていますが、イシュマエル人によってエジプトに連れられて来たヨセフは、エジプト王ファラオの宮廷の役人で、侍従長のポティファルという人に、召し使い(奴隷)として買い取られます。父ヤコブのもとで王女が着るような裾の長い晴れ着をまとって優雅な生活していたのとは、天と地ほどの差がある厳しい生活が待ち受けている筈でありました。ところが392節以下を見ていただきますと、主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せたのであります。ヨセフの隠れていた能力がここでは発揮されたということでしょうが、聖書は「主が共におられたので」と記し、「主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれた」と述べるのであります。神様は、人間の罪が生み出した不幸な境遇の中でも、共にいてくださり、祝福をもって臨んでくださるということを言いたいのであります。ヨセフが祝福を受けただけではありません。5節を見ると、主人が家の管理やすべての財産をヨセフに任せてから、主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された、と記しています。主が共におられる人の周りには、神さまの祝福が広がるのであります。ヨセフの能力や人間性を賛美しているのではありません。神様が共におられるところでは不幸な状況も祝福に変えられるのであります。このことは、この世にあるキリスト者に与えられる神様の祝福のことを示していると受け取ってよいのではないでしょうか。この世の営みには人間の様々な罪がからまっていて、そこから来る不幸をキリスト者も避けることが出来ません。しかし、それでもってキリスト者に対する神様の祝福が途切れることはないのであります。反って、キリスト者は、不幸の中にあってなお、祝福をもたらす器とされるのであります。
 このあと397節以下には、ヨセフがそのような神様の祝福の中にありながら、人間の罪から起こった醜い事件に巻き込まれたことが書かれています。主人であるポティファルの妻がヨセフを誘惑して来て、それをはねつけたところ、身に覚えのない話を作って主人に告げ口をされたので、ヨセフは何の罪もないのに監獄に入れられてしまうのであります。このように、人間の罪は神様の祝福を受けている人をさえ不幸に陥れることがあります。しかし、聖書はそれでも、21節、23節にあるように、主がヨセフと共におられることを強調するのであります。ヨセフは獄中にありながら、監守長の目にかなって、獄中の囚人たちを取り仕切る役割を与えられるのであります。人間の醜い罪が不幸を招き寄せたとしても、それを越えて、神様の祝福は続くのであります。ヨセフが受けた祝福は、監獄で用いられるようになったということに留まりません。この監獄生活が、この後の大きな祝福の展開につながるのであります。しかし、それまでにはまだ10年以上の長い年月が必要でありました。

1.忘れられた二年間

40章に入りますと、エジプト王の給仕役と料理役が王に対して過ちを犯したという疑いで、ヨセフが入れられている監獄に入って来たことが書かれています。幾日かして、その二人が同じ夜に夢を見ました。朝になると、その二人は夢を解き明かしてくれる人がいないと言って、ふさぎ込んでいました。夢は将来を示すものだと考えられていたので、自分たちがこれからどうなるのか、心配でたまらなかったのでしょう。二人はエジプト人でしょうから、神様を知りません。そこでヨセフは二人に言いました。「解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください」8節)。夢を解き明かすのは、人間の知識や経験によって出来ることではなくて、祈りをもって神様に問う時に、はじめて示されることだ、という意味でしょう。
 そこで、二人はそれぞれ自分が見た夢をヨセフに話しました。給仕役の夢を聞いてヨセフは、三日経てば元の職務に復帰できるという意味だと解き明かしてやりました。一方の、料理長の夢は、三日経てばエジプト王によって木にかけられることになると解き明かしました。三日後にエジプト王の誕生日の祝宴の席で給仕役と料理長が調べられて、その結果、ヨセフが解き明かした通りになりました。
 
ところで、4014節以下によると、ヨセフは給仕役が元の王の給仕役としての職場に復帰できると見て、王に嘆願をしてくれるように依頼しました。「ついては、あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、この家から出られるように取り計らってください。わたしはヘブライ人の国から無理やり連れて来られたのです。また、ここでも、牢屋に入れられるようなことは何もしていないのです。」ところが23節にあるように、給仕役は復職できたのですが、ヨセフの依頼のことを思い出さず、忘れてしまったのです。 41章の初めを見ますと、二年の後、と書かれています。この後、ファラオが夢を見て、それを解き明かす者がいなかった時に、給仕長はヨセフのことを思い出すのですが、それまでに、2年間もの日が経ったのです。すぐにでも監獄から出してもらえるのではないかと期待していたヨセフにとって、この2年間は、それまでの約10年間の監獄生活にも増して、長く感じられたのではないかと思われます。ヨセフがポティファルのもとで精一杯働いたことも、給仕役のために夢を解いてやったことも、何の役にも立たなかったように思える2年間ではなかったでしょうか。神様は何のためにこのような無意味とも思える苦しい2年間をヨセフに過ごさせられたのでしょうか。このことについて聖書は何も説明しておりません。しかし、このようなことは私たちの人生においてもあり得ることであります。願い通りに事が進まない期間、無意味に時間だけが過ぎて、展望が開けない期間、こんな所に留まっていて良いのだろうかと疑問に思いながら過ごさなければならないことがあります。『ヨセフの見た夢』という説教集を書いた遠藤嘉信という先生は、このような無駄に思える人生の期間について、こう語っておられます。「そうした時の経過にも、必ず主の目的があります。隠された神の知恵があります。自分の力で自分の人生を切り開こうと考えたり、自分で自分の思い通りの人生設計を考えて、それを貫こうと考えているかぎり、たとえ立派な計画であっても、神がそれをお許しにならない場合もあります。・・・自分で願い求め、自分を自分で弁護し、そして自分の力で常識的に生きようとするときに、私たちがそれゆえに不幸な歩みに陥らないために、あるいは小さな幸せに甘んじるということのないために、神にとどめられることがあります。あるいは、自分の計画どおりに事が運び、やっぱり自分の願いどおりに事が進んだと、そう感じるとき、そこには主を覚えることがなくなってしまうことを神はご存知なのです。多くの人が神に出会うことのできない理由もここにあると思います。そう考えると。むしろ自分の計画どおりに事が進まないことも神のあわれみです。」(p78
 ヨセフにとっても、監獄で囚人たちを管理しながら過ごさなければならなかった12年ほどの経験は、その後にエジプトで大きな働きをするための、貴重な訓練の期間であったのかもしれません。

2.ファラオの夢を解く――「わたしではありません。神が」

さて、王の給仕役が職場に復帰して二年の後、エジプト王ファラオが奇妙な夢を二つ見ました。一つは、ナイル川から、つややかな、よく肥えた七頭の雌牛が上がって来て、草を食べていると、今度は醜い、やせ細った七頭の雌牛が川から上がって来て、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くした、という夢でした。もう一つは、よく実った七つの穂が一本の茎から出て来て、その後から実の入っていない穂が生えてきて、実の入った七つの穂をのみ込んでしまった、という夢でした。古代の王国では、王の見た夢というのは特別な意味を持っていました。王は夢を通じて神から国の運命を告げられると考えられていました。ファラオは自分が見た夢が、国にとっての脅威を示していると直感して、心を騒がせて、エジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めさせ、彼らに夢の話をしましたが、彼らはうっかりしたことを言えないと思ったのか、知恵がなかったのか、誰も王を納得させる解釈を述べる者はいませんでした。
 
その時になって、例の給仕役がヨセフのことを思い出して、2年前に自分の夢を解いてくれた者がいたことを王に話しました。さっそくファラオは牢屋にいるヨセフを呼びにやりました。ヨセフは散髪し着物を着替えてから、ファラオの前に出ます。ここには、遂に自分の出番が来たというヨセフの喜びと緊張の気持ちが表されていますが、同時に、神様が満を持してこの時を用意していてくださったのだという驚きと、その神様の計らいに応えなければとの思いが表わされているのではないでしょうか。
 ファラオがヨセフに、「わたしは夢を見たのだが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが」と言いますと、ヨセフは「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」16節)と答えます。かつてのヨセフであれば、得意気に自分の夢を解く能力をひけらかしたかもしれませんが、今は「わたしではありません」と、自分の特別な能力によって夢を解き明かすのではなくて、神様が夢によって御意思を示されているのだということを強調しています。しかも、「神がファラオの幸いについて告げられるのです」と言います。この「幸い」と訳されている言葉は、ヘブル語の「シャローム」という言葉です。前回も申しましたが、「シャローム」という言葉は、単に「平和」とか「幸い」ということではなくて、神様の祝福が満ち満ちている状態を表します。エジプト王の上に神様の祝福が及ぶということを言っているわけです。ヨセフは夢を解くことで自分が監獄生活から解放されることを期待しているだけではなくて、神様がエジプトの国に祝福を及ぼそうとしておられることを見ているのであります。また、この言葉の裏には、ヨセフ自身のこれまでとこれからの人生も、神様の祝福のもとにあるのだという思いが込められているのではないでしょうか。兄たちによってエジプトに売られたことも、ポティファルのもとで働いたことも、濡れ衣を着せられて監獄に入れられたことも、給仕役の夢を解くことが出来たものの、二年間忍耐を持って待たなければならなかったことも、すべて神様の大きな祝福の計画のもとにあったことを思わせられているのではないでしょうか。この長い厳しい体験の道のりの中で、ヨセフは人を管理する能力や、エジプトの言葉を身につけることも出来ましたが、それ以上に大きなことは、思い上がりを砕かれ、神様への信頼と服従を学んだことでありました。一時はポティファルのもとで、懸命に働くことによって、主人の財産を管理する地位にまで駆け上がり、更に自分の能力を活かして上を目指せると考えたかもしれません。だがそれは成りませんでした。監獄では夢を解く能力を発揮して、すぐにでも脱出できることを期待しましたが、二年間待たされました。自分の力で将来を切り開くことは断念させられました。それは自らのうぬぼれを砕かれ、ただ神様だけを信頼することを学ばせるためでありました。ヨセフはこの試練の時を経て、今、神様の御心を謙遜に聴くことの出来る者に変えられたのであります。神様は私たちにも、このような試練の時を通して祝福を与えられることがあるということが示されているように思います。

3.神がなさろうとしていること

ヨセフはファラオの夢の内容を聞いて、すぐさまその意味を悟ることが出来ました。それは、七年の豊作の後に、七年の飢饉が続くということでした。ヨセフはそのことを王の前でも臆せず大胆に解き明かすのですが、魔術師や賢者と言われる人のように、ただこれから起こることを予言するのではなくて、25節を見ると、「ファラオの夢は、どちらも同じ意味でございます。神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお告げになったのです」と言って、神の御意思によることを述べております。また、28節でも、「これは、先程ファラオに申し上げましたように、神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお示しになったのです」と繰り返しておりますし、更に32節では、「ファラオが夢を二度も重ねて見られたのは、神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるからです」と言って、これから起ころうとしていることが全て神様のなさることであることを、繰り返し述べて強調しているのであります。
 エジプトはヨセフにとっては他所の国ですが、そこも神様がご支配しておられるのであれば、放っておくわけには行きません。ですからヨセフは、神様がこれからなさろうとしておられることを述べるだけではなくて、その事態に対してどのように対応したらよいかについても、親身になって提案いたしました。33節以下ですが、今すぐ、聡明で知恵のある人物を見つけて国中を治めさせることと、豊作の7年間の産物を備蓄しておいて、飢饉の7年間に備えるという政策を提言いたしました。これを聞いたファラオと家来たちは皆、ヨセフの言葉に感心いたしました。
 こうしてファラオは、「このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか」と言って、40節では「お前をわが宮廷の責任者とする」と言い、更に41節では「見よ、わたしは今、お前をエジプト全国の上に立てる」と言って、総理大臣の立場に抜擢するのであります。ヨセフは総理大臣の立場になって、自分が提案した政策を実行して、7年間の大豊作の間に食糧を蓄えさせたので、その後ヨセフが述べた通り7年の飢饉が襲いましたが、食糧は不足することなく、エジプトのみならず、周辺各地の人々も助かることになります。
 思い返しますと、ヨセフは複雑な家庭に生まれ、その中で父親の寵愛を受けて、傲慢な歪んだ性格に育ちましたが、兄たちにエジプトへ売られたことで、大きな試練を経験させられました。その中でヨセフは、何とか自分の能力を活かして這い上がろうといたしましたが、それは成功しませんでした。せっかく夢を解いて、監獄から開放されるかと期待したときにも、2年間待たねばなりませんでした。長い忍耐の時が必要でありました。しかし、辛抱して待つ間に知らされたことは、神様が最も良い時に、自分を用いてくださり、人々の役に立つ働きを出来るようにしてくださるということでした。ヨセフが夢を解くことが出来たのも、神様がお示しくださったからであり、エジプトの国や周囲の国々を救うことが出来たのも、ヨセフの知恵や力が優れていたからではなくて、神様が導いてくださったからだということがよく分かりました。こうしてヨセフは、神様を信頼し、神様の御心を謙遜に聴き取る信仰を学ぶことができました。

結.神が忘れさせてくださった

 このようにして、ヨセフは長い苦しみの時から解放されるのですが、神様の祝福の御計画はまだ終わっていません。ヨセフが最初に見て兄弟や父に話した夢はまだ実現していません。家族との再会は果たされていません。
 しかしその間に、ヨセフは祭司の娘と結婚をし、二人の息子が生まれます。幸せな家庭が与えられたのです。50節以下にそのことが記されていますが、長男にマナセと名付けます。これは「忘れさせる」という意味です。その心は、「神が、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった」ということでありました。息子が与えられたことによって苦労も忘れられると、神様の計らいに感謝しているのですが、そこには父の家のことが忘れられない思いを見ることもできます。まだすべてが解決したわけではない。しかし、ここまで導いて下さった神様には心から感謝しつつ、すべてを忘れさせてくださった、と言っているのであります。
 次男はエフライムと名付けました。これは、「増やす」という意味で、「神は、悩みの地で、わたしに子孫を増やしてくださった」という感謝の気持ちが込められています。アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた祝福の約束は、子孫が増えるということでありました。その祝福の約束を自分も受け継がしていただいたという感謝であります。その感謝を覚えつつ、将来への希望を見出しているのであります。
 
私たちも人生の中で、思い通りに行かないことや、様々の苦難を経験しなければなりません。そこには自分を含めた人間の罪もからんでいます。頑張っても自分の力ではどうすることも出来ないことがあります。しかし、そのような試練が与えられるのも、神様が一番良いようにして下さることを私たちが信じることが出来るようになるためです。神様の御心を聴き取る耳を養われるためであります。そして、今与えられている恵みの中に神様の祝福のしるしを見出すときに、神様に感謝することが出来るし、人々のために貢献することも出来るし、将来に向かって希望を抱くことも出来るのであります。神様は私たちをも、一人のヨセフにしてくださるのではないでしょうか。
 祈りましょう。

祈  り

思いを超えた御計画をもって、私たちを導いていてくださる父なる神様!御名を賛美いたします。
 あなたは様々な苦難を通しても、私たちを鍛え、養い、信仰を育ててくださいますことを覚えて感謝いたします。
 どうか、私たちの心を、絶えず御言葉によって目覚ましめて下さり、祝福の約束を信じ、御心に従う者とならせてください。
 どうか、それぞれに与えられた場所にあって、あなたを証しすることが出来る者とならせてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年10月24日  山本 清牧師 

 聖  書:創世記41:1-45
 説教題:「神がなさろうとしていること」
          説教リストに戻る