序.罪深いイスラエルの救いの物語

7月から創世記の物語によって御言葉を聴いて参りました。創世記にはドラマチックな物語がたくさんありますが、最もドラマチックな物語が今日の37章から50章に至る「ヨセフ物語」ではないかと私は思います。私が小学校低学年の頃だったと思いますが、このヨセフ物語を子供向けに書いた本を読んで、子供心にも深く心に残ったことを覚えています。8月に開いた「夏休みこどもかい」で、紙芝居でこのヨセフ物語を見せました。日曜学校礼拝では4回に分けて取り上げられるので、あらかじめ全体のストーリが子供の頭に入っている方が分かり易いと思ったからなのですが、あまり感動した様子もありませんでした。簡単な紙芝居では、この物語が伝えようとしている神様のドラマを伝えることは難しいのかもしれません。
 通常、「ヨセフ物語」というように呼ばれることが多いのですが、372節を見ていただきますと、ヤコブの家族の由来は次のとおりである、と書かれています。ということは、聖書はヨセフが主人公の物語とは捉えていなくて、ヤコブの家族の物語、つまり、ヤコブとその子孫の物語と捉えているのであります。ヤコブは、先週聴いたヤボクの渡しの場面で、神様から新しくイスラエルという名前を与えられました。そして、ヤコブの子孫がイスラエルの民となるのであります。ですから、聖書はこのヤコブの物語の中に、罪深いイスラエルの民をお救いになる神様の救いの物語を読み取っているのであります。
 今日はその長い物語の最初の、ヨセフが不思議な夢を見た部分だけがカリキュラムのテキストになっているのですが、たまたま次週は田中先生による伝道礼拝ですので、次の37章の後半部分の、ヨセフがエジプトへ売られる場面が抜けることになりますので、今日はその部分にも目を向けながら、それらから神様の救いの物語の一端を聴き取りたいと思うのでございます。

1. 穏やかに話せない家庭
 ヤコブは、兄エサウの受けるべき祝福を奪い取ったために、エサウの怒りを避けて、20年の間、伯父のラバンのもとで暮らさなければなりませんでしたが、そこでラバンの下の娘ラケルが好きになるのですが、ラバンはすぐにはラケルと結婚させてくれず、7年待った挙句、姉のレアをあてがわれて、4人の子供が出来ます。その間に2人の側女との間にも4人の子供が出来ます。その後、ラケルとの結婚まで更に7年待たされて、その間に姉のレアとの間に2人の子供が出来、やっとラケルと結婚させてもらえて、11番目にヨセフが生まれ、12番目の末っ子にベニヤミンが出来るのであります。このように、大勢の子供が与えられたのは、神様の約束の通りで、これがイスラエルの12部族になるのですが、非常に複雑な家族が出来上がってしまったのであります。そこにはヤコブの2人の妻と2人の側女たちの間に醜い争いがあったことを聖書は30章辺りで隠さず記しております。そんな家族の状況は、子供たちの関係にも悪い影響を与えずにはおかなかったと思われます。2節には、父の側女ビルハやジルバの子供たちと一緒にいた、と書かれているのも、子供たちの間に差別があったことを伺わせます。最悪なのは、3節にありますように、ヤコブがラケルの子であるヨセフをどの息子よりもかわいがったのであります。聖書には、年寄り子であったので、と記していますが、最も愛したラケルから生まれた子であったということもあったと思われます。
 ヤコブのヨセフに対する偏愛ぶりは、3節に書かれているように、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった、ということに現れています。「裾の長い晴れ着」という言葉はサムエル記下1318節に出て来るのですが、そこでは王女が着る服として出て来ます。袖の長い服というのは、働くのには適しません。ヤコブはヨセフをまるで王女のように扱って、労働にも就かせなかったのでしょう。この晴れ着はヤコブの偏愛の象徴であり、兄たちの憎悪のシンボルでありました。
 4節には、兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった、と書かれています。こんな特別扱いをされると、ヨセフの方もいい気になって、思い上がります。2節の最後には、ヨセフは兄たちのことを父に告げ口した、と書かれています。兄たちの失敗や間違いを一々父に報告したので、一層憎しみを買うことになったのでありましょう。
 このように、ヤコブの複雑な結婚と子育ての失敗が、家庭の崩壊の危機を招いておりました。――皆さんのご家庭では、ここに描かれているような極端なことはないかもしれませんが、どこの家庭でも、夫婦の間、親子の間、兄弟の間に微妙な関係が生じるものであります。それが往々にして、子供の心の成長に悪い影響を与えることがあります。最近の様々な事件の原因も、家庭での人間関係の歪みによるものが多くあります。ヤコブの家庭も、様々な事件を起こした家庭も、決して私たちとは無縁の他人事とは思えないのであります。
 4節の最後に、穏やかに話すこともできなかった、とあります。この「穏やか」という言葉は、よくご存知のヘブル語の「シャローム」という言葉から来ています。普通、「平和」と訳されますが、それは単に争いやもめ事がないというだけではなくて、神様の祝福が満ち溢れている状態を表す言葉だと言われます。ですから、「穏やかに話すことも出来なかった」というのは、単に怒声が飛び交ったり、喧嘩が絶えなかったというだけではなくて、神様の祝福が失われた状態だった、ということであります。ヤコブは父イサクの祝福を奪い取ったのでありますけれども、その結果、神様の約束どおり多くの子供が与えられたものの、その家庭の中は、神様の祝福が失われた状態になってしまっていたのであります。――私たちの家庭の中でも、つい穏やかに話せないことがあります。それは神様の祝福を失いかねないこと、神様のシャロームから遠ざかることなのであります。

2. ヨセフの見た夢
 さて、このような崩れた家族関係の中に、神様が一石を投じられました。ヨセフに夢を見せられたのです。ヨセフは自分の見た夢を兄たちに話しました。「畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」この夢は誰が聞いても、兄たちがヨセフにひれ伏すことを意味することは明らかです。ヨセフは17歳にもなっていましたが、こんな話を得意気に兄たちにするとは、無邪気というか、空気を読めないのも良いとこです。怒った兄たちは、「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか」と言いました。兄たちがヨセフをますます憎んだというのも当然です。
 この夢を心理学者が精神分析すれば、ヨセフの内心にある思い上がりの反映と説明するでしょう。しかし、聖書の世界では、夢は神様のメッセージの伝達手段の一つと考えられていました。父ヤコブもベテルで天から地に向かって伸びる階段の夢を見ました。ヨセフの物語の中では、この後も夢が鍵になって物語が展開して行きます。そこには神様の御心が働いていたのであります。
 ヨセフはまた別の夢を見て、性懲りもなく、それを兄たちに話しました。「わたしはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」今度は兄たちだけでなく、父にも話しました。これを聞いて、さすがのヤコブも、「一体どういうことだ、お前が見たその夢は。わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか」と言って叱りました。
 しかし、こんな夢をヨセフに見せたのは、神様です。神様は後に起こることを夢でお知らせになったのです。それは、後日この夢の内容が実現した時に、それが神様の御計画であったと認識できるためです。
 これを聞いた兄たちが一層ヨセフをねたんだとしても当然ですが、11節を見ると、父はこのことを心に留めた、と書かれています。このことについては最後に述べたいと思いますが、これは今日の箇所の鍵になる言葉だと思います。

3. 売られたヨセフ
 さて、このあと、大事件が起こります。兄たちの憎しみとねたみが募って、ついにヨセフを殺そうとまで考えるようになるのであります。12節以下の物語になりますが、兄たちがシケムの野原で羊の群れを飼っていたとき、父ヤコブは兄や羊たちが無事か見届けて、様子を知らせてくれるよう、ヨセフを遣わすのであります。14節で「無事か」と言っていますが、ここも「シャローム」という語が使われています。しかし、シャロームはとっくの昔に失われています。18節を見ると、兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めると、まだ近づいて来ないうちに、ヨセフを殺してしまおうとたくらみ、相談します。「おい、向うから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう。」――この言葉は、傲慢なヨセフに対するねたみから出たものですが、そこにはヨセフが見た夢で示された神様の御計画への反逆が秘められています。これを聞いて、さすがにルベンは「命まで取るのはよそう」と言って、穴に投げ入れるだけにして、後で助け出そうと考えていたのですが、ルベンのいない間にイシュマエル人の隊商が通りかかって、ユダの提案によって、ヨセフを銀20枚で売ってしまったのであります。こうしてヨセフはエジプトへ連れて行かれることになります。ルベンの思いは叶いませんでしたが、ヨセフは殺されることなく、エジプトへ行くことで、ヨセフの見た夢が、奇しくも実現することにつながっていくのであります。
 この一件を、兄たちはヤコブにどう報告するのでしょうか。ヨセフが着ていた例の袖の長い晴れ着に羊の血を塗って、父のもとに送り届けて、「これを見つけましたが、あなたの息子の着物かどうか、お調べになってください」と言わせます。この晴れ着はいわば父の偏愛の象徴であり、兄たちのねたみのシンボルでありましたが、それを父のもとへ送り届けることは、父親への挑戦でありますし、自分たちの責任を親に転嫁しようとする行為であります。ここにも大きな罪があります。ヤコブは血染めの晴れ着を見て、深く嘆き悲しみます。息子たちがやって来て父親を慰めようとしますが、それが偽善的な行為だけに、ヤコブが慰められることはありません。ヤコブは「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう」と言って泣きます。――こうして、神様の約束を受けた筈のヤコブ(イスラエル)の一家のシャロームは、人間の愚かさと醜悪な罪によって、内部崩壊するのであります。
 
先程も申しましたように、この物語に描かれたような、人間の罪が描き出す醜い人間模様は、様々な形で私たちの身近な人間関係の中にも見られるのであります。キリスト者の家庭でさえ、何とか体面を保っていても、その内側は、往々にして人間の罪によって泥まみれになっているのであります。救いを必要としているのは、神様を知らない人たちだけではありません。

4.悪を善に変える神――万事が益に
 では、神様は、このような人間の愚かさと罪が生み出した悲惨な現実をそのままにしておかれるのでしょうか。ヤコブの一家の物語は、このあと舞台をエジプトに移して展開されることになるのですが、そこでは、人間が罪の故に犯した過ちを、神様はご自分の大きな救いの御計画に結び付けて下さるのであります。
 この後の物語のあらすじは多くの方がご存知であろうと思いますが、エジプトでポティファルという人のところで働くようになったヨセフはよく働いて用いられるのですが、彼のその後の人生が大きく転換するのは、彼が夢を解くという特異な能力を神様から与えられていたことによります。しかし、その能力が発揮されるまでには、主人のポティファルの奥さんを辱めたという濡れ衣を着せられて、獄中生活をしなければならないという苦難の時が必要でありました。けれども、その獄中で出会ったエジプト王の料理長が見た夢を解いてやったことがきっかけで、王の見た不思議な夢を解く機会が訪れ、それによってこの地域を襲った飢饉からエジプトを救うことになって、王に大抜擢されてエジプトの大臣になるのであります。そうして、遂に最後は、飢饉のためにカナンの地からエジプトへ食糧を求めに来た兄たちと対面することになるのであります。その劇的な対面の場面も感動的で、そこで語られるヨセフの言葉が非常に大事なのですが、今日は更にその先の50章で、父ヤコブの死の後に、ヨセフが仕返しを恐れている兄たちに語った言葉を見ておきましょう。5019節からです。ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」人間の犯した悪が善に変えられたのであります。ここに、ヨセフも兄さんたちも、万事を益に変え給う神様を仰ぐことが出来たのであります。
 このことは、このヨセフの物語に止まるものではありません。このヨセフの物語の全体は、やがてヤコブの子孫に誕生されるイエス・キリストによる神の救いの御業を指し示しているのであります。イエス・キリストは父なる神様の最愛の子として、この世に遣わされましたが、ヤコブの子孫であるユダヤ人たちは主イエスを憎んで、遂に捕らえて殺そうと計りました。ヨセフを隊商に売ることを提案したユダと同じ名前のイスカリオテのユダが、主イエスを銀30枚で売ります。ヨセフは今日の37章の一連の経緯の中で、一言も語らずに沈黙していますが、主イエスも大祭司の訴えに対して黙り続けておられました。こうしてイエス・キリストはすべての人の罪を身に受けて、十字架の苦しみを負い、死へと追いやられました。けれども、人間が犯したその罪の結果は、神様によって救いの御業へと逆転されたのであります。いや、そこにこそ、神様の遠大な救いの御計画が隠されていたのであります。ヤコブは35節にあったように、陰府にいる自分とヨセフの姿しか思い浮かばなかったのですが、実はヨセフは死んではおらず、すでにイスラエルの民を救うエジプトへの道を辿っていたのであります。そのように、主イエスの弟子たちが空虚な墓しか見られなかったときに、主イエスは既に甦って、救いの御業を成就していて下さったのであります。

結.夢を心に留める
 最後に、先程ちょっと触れた11節の言葉に帰りたいと思います。ヨセフの見た夢の話を聞かされて、兄たちはヨセフをねたんだのでありますが、父ヤコブはこのことを心に留めた、と記すのであります。この言葉はどこかで聞いたことがありませんか。主イエスが誕生された夜、天使たちの知らせで、馬小屋で飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子の主イエスを探し当てた場面で、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ219)と書かれています。また、主イエスが12歳になられた過越祭のとき、両親とエルサレムの神殿に出かけた帰りに、両親が主イエスを見失ってしまい、探し回ったあげく、神殿で学者たちと話しているのが見つかった出来事について、「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(ルカ251)と記すのであります。マリヤはこれらのことを長く心に納めていて、後にイエス・キリストが十字架と復活の御業を成し遂げられた時に、やっと納得が出来たのでしょう。父ヤコブも、この時は、はっきりとは分からなかったのでありますが、後々までヨセフの夢のことを心に留めていて、ヨセフと再会した時に、全てが神様の御計画のうちにあったと気づかされるのであります。神様の御計画による救いの物語は、人間の弱さや醜さと無関係のところで進められるのではありません。
 私たちも日々、人間の弱さと罪深さの中で、苦悩せざるを得ない歩みを続けております。しかし、神様はそれらの全てのことをご存知であって、そこにも神様が働いておられるのであります。ヤコブの物語はそのことを示してくれています。ヤコブにそのことが見えなかったように、私たちにもそのことがよく見えておりません。しかし、ヤコブがヨセフの夢には何か神様の御意図があるのではないかと、心に留めたように、私たちも、こうして礼拝を通して神様と向き合う生活の中に、神様のお計らいがあることを信じて、心に留めたいと思うのであります。
 祈りましょう。

祈  り
 すべてを御心に従って計らい給う父なる神様!
 今日も、御心によって私たちを礼拝する者とさせて下さり、ヨセフの物語を通して、あなたへの信仰を養って下さいましたことを感謝いたします。
 私たちは人間の罪のゆえに、また自らの罪のゆえに、苦しまなければならない者たちでありますが、どうか、あなたがすべてを善に変えて下さるお方であることを、主イエス・キリストにあって信じさせて下さい。
 どうか、様々な苦しみ悩みのうちにある方々が、あなたとの出会いによって救われることが出来ますように。どうか、来週に行われる特別伝道礼拝が、この地におけるあなたの救いの御業の一環として用いられますように、お願いいたします。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年10月10日  山本 清牧師 

 聖  書:創世記37:1-11
 説教題:「ヨセフの見た夢」
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