ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」                    (創世記3227

 ヤコブは、年老いた父イサクが兄エサウに与えようとしていた祝福を騙し取った。その結果、エサウはヤコブを恨み、殺意さえ抱くようになる。このためヤコブは、エサウを避けて、遠くハランの地で20年を過ごさねばならなかった。ハランでは結婚もし、多くの子供や家畜を与えられたが、ヤボクの渡しを渡って故郷カナンに帰らなければ、その地を与えると約束された神の祝福は実現しない。だが、兄エサウがどのような思いで待ち受けているのか、ヤコブは不安と恐れの中にあった。エサウに対する対策として、連れ帰った人々と家畜を二組に分けて全滅を避けたり、エサウへの贈り物を何度も届けたりしたが、不安は去らない。それは、エサウへの恐れだけでなく、神が罪深い自分を赦されず、祝福を取り上げてしまわれるのではないかとの恐れである。
 その夜、家族や財産を先に渡したあと、ヤコブが独り残っていると、何者かが現れ、夜明けまで格闘した。それは神であった。激しい闘いの中で、ヤコブの腿の関節がはずされ、自分の弱さを知らされる。ヤコブにとっての唯一の頼みの綱は、神の約束の言葉だけである。去ろうとする神に、ヤコブは標記のように言って、すがりつく。すると神は、ヤコブという、彼のずる賢さを表す名前に変えて、イスラエル(神と闘う)という新しい名を与えられる。ヤコブは、不安と恐れの中で、神と闘わされることによって、新しく生れ変わらされたのである。こうしてヤコブは、自分の罪が赦されて、神の祝福の約束が変わらず与えられていることを確信することが出来て、もはや、エサウと会うことの恐れは消える。それは、大量の贈り物を届けることによっても得られなかった平安である。
 私たちも、日々の生活の中で、様々な心配事があるとき、神の御心に背くことが多かった自分を、神が守って下さるのか不安になることがある。礼拝や祈りは神との格闘の場となる。私たちは自分の願いを押し通すことは出来ないが、神の約束の御言葉を求め、信頼し続けるならば、神は私たちを捨てて祝福を絶やされるようなことはなさらない。なぜなら、主イエス・キリストが私たちのために神と格闘の上、御心に従って十字架にかかり、罪の赦しを実現して下さったからだ。私たちは、ヤコブに与えられた祝福を継ぐ者として、新しいイスラエルの民とされているのである。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2010年10月3日  山本 清牧師 

 聖  書:創世記32:23−33
 説教題:「神との格闘」
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