序.礼拝――ヤボクの渡しの格闘
 創世記のヤコブの物語を聞いて来ております。先週は28章で、ヤコブが石を枕にして夢を見た場面から御言葉を聴きました。ヤコブは父イサクが兄エサウに祝福を与えようとしていたのに、母リベカの計略によって祝福を奪い取ったために、兄エサウの憎しみを買うことになって、母の故郷ハランへの孤独な逃亡の旅をする中で、夢によって、神様の方からヤコブのところへ降りて来て下さって、神様の祝福の約束を受けたのでありました。ヤコブは恐れおののきつつ、「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」と言って、その場所をベテル(神の家)と名付けたのであります。それは、神を礼拝する場所という意味であります。
 先週は、このベテルでの出来事を通して、礼拝とは、罪ある者をも赦して祝福される神と出会って、畏れつつ神様を拝むことだ、ということを学びました。
 
今日の箇所は、それから20年後の物語であります。その間のハランでの生活のことは29章から31章にかけて、詳しく書かれているのですが、今日の箇所は、もうハランでの生活を終えて、ハランに滞在中に得た家族や家畜たちを引き連れて、約束の地カナンへ帰る途中で、ヤボク川の渡しを渡る場面であります。(地図参照)
 
ここには、ヤコブがヤボクの渡しで体験した不思議な格闘の物語が書かれていて、夢の中の出来事のような、現実離れした出来事のように思えるのでありますが、私たちが行なっている礼拝や祈りも、実は神様との格闘であります。先週は、礼拝は神様を恐れおののきつつ拝むことだと申しましたが、そこには、神様との激しい取っ組み合いが伴うことが多いのであります。ヤコブは先週の箇所で礼拝出来たから、もう礼拝が必要ではないとか、平常心で礼拝できるというものではありません。今、兄エサウとの再会を前にして、不安と恐れの中で神様と格闘することになるのであります。
 
今日はこの箇所を通して、私たちもまたそれぞれの過去を背負いながら、神様と格闘しつつ、畏れをもって礼拝する者とされたいと思うのであります。
1.不安と恐れの中で
 ヤコブはハランの伯父ラバンの家では、羊飼いとしての仕事をしながら、大変苦労もさせられましたが、ラバンの娘とも結婚もし、多くの子供や家畜を恵まれました。しかし、ヤボクの渡しを渡って故郷カナンに帰らなければ、懐かしい母に会うことも出来ませんし、カナンの土地を与えると約束された神様の祝福は実現しないのであります。しかし、そこでは兄エサウと再会せざるを得ません。兄エサウが今、自分のことをどう思っているのか、心配であります。
 
32章の22節までには、兄エサウと再会するに当たって、ヤコブがどのような準備をしたかが書かれています。まず、エサウのもとに使いの者を遣わして、これまでのことを報告し、挨拶させます。使いの者が帰って来て報告したことは、エサウが400人の供を連れて迎えに来るというのであります。これは何を意味するのだろう。自分たちを攻めて来て皆殺しにし、持ち帰った財産を奪おうとするのか、と非常に恐れ、思い悩みます。そこで、対策として、連れ帰った人々と家畜を二組に分けます。一方の組が攻撃を仕掛けられても、残りの組は助かると思ったからであります。そうしてヤコブは神様に祈ります。10節から13節に祈りの内容が書かれています。「『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と言われました」、また、「『あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と言われました」と言って、神様が約束されたことを確認しつつ、「わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です」と告白しながら、「どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです」と祈りました。
 
それでもヤコブは心配で、自分の持ち物の中からエサウへの贈り物として多数の動物たちを選んで、それを群れごとに分けて、それを召し使いたちが先にエサウのところに行って、群れごとに順番に届けるよう命じました。そうすれば、エサウをなだめることが出来て、自分を快く迎えてくれるのではないかと考えたのであります。このようにヤコブは万全の対策をとるのでありますが、不安は去りません。ヤコブが恐れているのは、実はエサウだけではありません。神様が罪深い自分から祝福を取り上げてしまわれるのではないか、という神様に対する恐れを拭い去ることが出来ないのであります。

2.神との格闘
 
その夜、ヤコブは家族を先に渡らせ、持ち物も渡してしまうと、独り後に残りました。そのとき、何者かが現れて、ヤコブに格闘を挑んで来ました。これは一体何者でしょうか。何か魔物のようなものが現れたのではありません。自分自身の弱い心や神様を信じきれない罪深い自分と戦ったのでもありません。この先の31節を読むと、ヤコブはこの相手が神様ご自身だったと理解したことが分かります。先週のベテルで見た夢と同様、不安と恐れの中にあるヤコブに、神様の方から近づいて下さり、格闘させられているのであります。これは、争いや戦いというよりも、神様の祝福に満ちた出来事だったのであります。
 
神様との格闘は夜明けまで続きました。もちろん神様は、ヤコブを一たまりもなく打ち負かせることも出来る筈であります。ヤコブから祝福の担い手としての役目を取り上げることもお出来になります。ヤコブには祝福を取り上げられても仕方のない理由もあります。だからかつての祝福の言葉を撤回なさることもお出来になります。しかし、神様は一晩中ヤコブの相手をされ、夜明けまで格闘が続きました。
 
26節を見ると、ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、腿の関節がはずれたとあります。神様がヤコブに勝てないとは、どういう意味でしょうか。先程、10節から13節に書かれているヤコブの祈りを見ました。ヤコブは神様が与えて下さっていた祝福の約束を必死になって繰り返していました。ヤコブは、いわば神様の言葉を武器にして闘ったのであります。彼は、大きな恐れと不安の中で、しかもその原因は自分自身の罪にあるという現実の中で、神様の約束の言葉を唯一の頼りにして、祝福をひたすら祈り求めたのであります。このように、御言葉のほか何も持たず、約束のほか何も持たないヤコブに勝てないとみた神様は、ヤコブの腿の関節をはずされて、これ以上闘えないようになさいます。そして神様は、「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とおっしゃいますが、ヤコブは「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」と、あくまでも祝福を求めます。ヤコブがこれほどに祝福を求める理由は何でしょうか。ハランで蓄えた財産を失うことを恐れたのでしょうか。エサウと再会すれば殺されることが恐ろしかったからでしょうか。そうではありません。神様の祝福を失うことを恐れたのです。アブラハム、イサクに約束された神様の祝福を受け継げなくなることを恐れたのであります。今や、神様の言葉だけが頼みの綱であります。こうしてヤコブは神様の祝福の言葉に食らいついて、ねばり勝つのであります。
 
私たちは日々の生活の中で、あるいは人生の曲がり角において、様々の課題や願いを持って、礼拝し、祈りをいたします。その時に私たちが頼りとすべき武器は何でしょうか。私たちは自分の願いを聞き入れてもらえるような功績を持ち合わせているでしょうか。むしろ、神様と人を欺き続けた罪深い者であることを思い知らされるだけであります。唯一つの武器は、神様が私たちに御言葉をもって語って下さる、祝福の約束であります。神様の恵みの言葉を手放さないこと、それが勝利の秘訣であります。ヤコブも、誇るべきものが何もない中で、神様が約束して下さっていた祝福の言葉に食らいついたのであります。

3.負かされて勝つ――イスラエルと呼ばれる
 
そこで神様は、「お前の名は何というのか」と尋ねられます。「ヤコブです」と答えます。「ヤコブ」という名は、生まれ出た時に、双子の兄のエサウのかかとをつかんでいたので、かかとを意味するアケブという言葉を文字ってつけられたのでした。それは兄の長子の権利をも奪い取ろうとする、ずる賢さを象徴する名前でありました。父親を騙してまでして祝福を奪い取るような男でした。それはあくまでも、この世的な利益を求めるために、人をも押しのける男であることを示す名前でありました。しかし、今は、自らの罪深さを知って、ただ神様の祝福の言葉にのみ頼るしかない者に変えられていました。そこで神様はおっしゃいます。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」-「イスラエル」という語には、「神と戦う」という意味が込められています。しかも神様は、「お前は神と人と闘って勝ったからだ」とおっしゃいます。ヤコブが神様に勝つとはどういう意味でしょうか。力が優っていたとか、諦めない根気強さや、ひつこく求めたしぶとさでねばり勝ったという意味でしょうか。そうではないでしょう。「つのぶえ文庫」という高校生のための聖書の講解シリーズがありますが、その中の『私たちの創世記』には、こう解説されています。「神との激しい組み打ちにおいて、最後は神が勝たれます。しかしほんとうに真剣な祈りの戦いの中に、自分の関節がはずされ、苦痛の中に自分の弱さを知らされる時にこそ、祝福は与えられます。信仰の勝利、祈りの勝利とは、自分が神を屈服させ、神を敗北させることではなくて、逆に、神に克服されることなのであります。神を相手とした時には<勝つ>とは<負ける>ことなのです。このように、神に肉迫し、神に敗れて、祝福を受けた時、人間は新しくされます」と。ヤコブは不安と恐怖の中で、神と闘わされることによって、新しくされたのです。

4.なお生きている――祝福のしるし
 名前が変わるということは、生れ変わるということです。ヤコブはここで生れ変わったのです。「イスラエル」という名は、ヤコブの子孫のイスラエルの民の名となります。イスラエルの民は、神様の約束を受け継いでいく民となります。神様の約束を受け継いでいくには、数限りない苦しみと戦いの歴史を経験することになります。しかし、その苦しみと戦い、神様との格闘の連続の中でこそ、祝福は受け継がれていくのであります。
 30節を見ると、ヤコブの方から、「どうか、あなたのお名前を教えてください」と尋ねています。名前というのは、古代人にとっては、その人の全存在を代表するものであります。相手に名前を教えるということは、相手に自分をさらけ出すということです。神様がヤコブに名前を尋ねられたのは、神様がヤコブの名前をご存じなかったわけではなくて、ヤコブの全てを神様にさらけ出して、神様に委ねることを求められたのであります。今度は逆にヤコブが神様の名を尋ねました。これは神様を自分のものにしたいという欲求を表しています。しかし、神様は「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言われて、ご自分の名前を明かされません。神様はヤコブに祝福を約束なさいましたが、ヤコブに支配されたり、ヤコブに利用されたりされることはありません。神様は何者にも支配されずに、ご自身の御心に従ってヤコブの子孫イスラエルの民を祝福されることになるのであります。こうして神様はヤコブをその場で祝福されたのでありました。
 
するとヤコブは、感謝に満ちた驚きをもって、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言います。旧約聖書の中では、人間は神様を見ると死ぬと信じられていました。それなのに、神様と格闘までした後も、なお生きているのを驚いているのであります。死ぬべき者が生かされたことに気づいた、あるいは、一旦は死んだ者が新しく生かされたことを知ったと言ってよいでしょう。そしてヤコブは、この記念すべき出会いの場所を、「神の顔」を意味する「ペヌエル」と名付けたのでありました。
 
こうしてヤコブは、自分の犯した罪が神様によって赦され、神様の祝福が約束どおり変わらず与えられていることを確信することが出来ました。もう、兄エサウに会うことに何の不安も恐れもありません。それは大量の贈り物を届けることによっても得られなかった平安であります。32節には、ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。こういうわけで、イスラエルの人々は腿の関節の上にある腰の肉は食べない、と書かれていて、後々まで、この出来事がイスラエルの人々に覚えられるようになった由来が述べられています。つまり、ヤコブにとっては、そしてイスラエルの人々にとって、足を引きずって歩かなければならなかったことも、神様の祝福のしるしとして忘れられないことになったのであります。
 
私たちも日々の生活の中で、また人生の歩みの中で、色々な心配ごとがあるとき、神様は本当に自分を守って下さるのかどうか、不安になることがあります。自分は神様の御心に背くことが多かったので、見捨てられるのではないかと心配になります。そんな不安を抱きながら、こうして礼拝に来て神様の御言葉を聴いたり、祈ったりすることは、神様と格闘することであります。私たちは神様と闘って勝つことは出来ません。私たちの勝手な願いを通すことは出来ません。しかし、神様の御言葉を求め続け、御言葉に信頼し続けるならば、神様は私たちを捨てて祝福を絶やされるようなことはされないのであります。

結.新しいイスラエル
 
イスラエルという新しい名前を与えられたヤコブの子孫は、その後、イスラエルの民として神様の祝福の約束を担い、その約束が実現する希望を受け継いで来たのでありますが、その約束はヤコブの子孫であるイエス・キリストによって実現されることになるのであります。
 
先程、新約聖書の朗読では、イエス・キリストが十字架を前にしてゲッセマネの園で苦しみ悶えつつ祈られた箇所を読んでいただきました。主イエスは、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました。神様と格闘しておられるのであります。主イエスの格闘はもちろんヤコブの格闘とは比べものにはなりません。ヤコブの格闘は、エサウとの再会を前にして、自分が父の祝福を騙し取ったことに対する報復として、命を奪われるのではないか、神様の祝福を受け継ぐことが出来なくなるのではないか、という不安と恐れの中での格闘でした。それは自分自身のための格闘でありました。それに対して、主イエスの格闘はご自分は何の罪も犯されていないのに、多くの人々の罪のために十字架に架かって死ぬことが、神様の御心かどうかを問う格闘でありました。自分のためではなくて、人々のため、そして神様のご栄光を現すための格闘でありました。そこには大きな違いがあります。質的な違いと言ってよいかもしれません。しかし、だからと言って、ヤコブの格闘に意味がないのではありません。ヤコブの格闘の背後にも、イスラエルの民に祝福を受け継がせるという、神様の揺るぎない壮大な救いの御計画と、ヤコブの罪に対する憐れみ深い赦しの恵みがありました。また、ヤコブが神様から与えられた祝福の約束の御言葉のほか、頼るべき何の武器も持たずに戦って、勝利を得るという見本を示すことが出来ました。そして何よりも、主イエスの格闘を先取りして、十字架の上の主イエスの戦いと勝利を指し示すという役割がありました。
 
それだけではありません。ヤコブは旧約聖書の時代のイスラエルの民の先頭に立つ人でありますが、同時に、主イエス・キリストによって建てられる新しいイスラエルの民、即ち、神の御言葉であるイエス・キリストを信じる信仰によって格闘する私たちの先頭に立つ人物でもあります。私たちもまた、ヤコブに続いて神様と格闘するのです。
 
イエス・キリストが十字架の御業によって神様と究極の格闘をして勝利して下さったので、私たちはただ手を拱いていてよいということにはなりません。イエス・キリストの勝利を信じる信仰によって、私たちも新しいイスラエルの民として、神様との格闘に召されているのであります。私たちもまた、壮大な神様の救いの御計画の一端を担うものとして、神様の祝福を信じ受け継いで行くものとして、召されているのであります。私たちはヤコブのように、自分のことしか考えない人間であります。神様の約束の御言葉を拠り所として闘ったヤコブにも劣る信仰の持ち主かもしれません。しかし、ヤコブを赦し、祝福の担い手として用い給うた神様は、イエス・キリストの故に、私たちをも赦して、更に多くの人々が神様の祝福に与るために祝福を受け継ぎ、受け渡す者として、用いて下さるのであります。
 
1017日には、秋の特別伝道礼拝が持たれます。伝道は神様を信じない大きな勢力との戦いであります。ヤコブがエサウを恐れたように、私たちの力ではどうにもならないような相手との戦いであります。しかし、ヤコブがそこで神様と格闘したように、私たちもこの機会を通して神様と格闘させられるのであります。神様の救いの約束の御言葉を信じて格闘するのであります。「祝福してくださるまでは離しません」と言って、神様に食らいつくのです。そうすれば神様は、私たちをも「お前の名はイスラエル」と言って下さるのではないでしょうか。そして、神様と顔と顔とを合わせる恵みに与ることが出来るのではないでしょうか。
 
32節を見ると、ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた、とあります。ヤコブは神様との格闘の中で、足に傷を負わされました。私たちも神様との格闘によって、打ち砕かれるのかもしれません。しかし、足を引きずるヤコブの上に太陽が昇ったように、打ち砕かれた私たちの上にも神様は太陽を昇らせて下さるのではないでしょうか。 祈りましょう。

祈  り
 
壮大な救いの御計画をもって歴史を支配し、私たちをもその一コマに加えていて下さる父なる神様! 御名を賛美いたします。
 
私たちはあなたの祝福の約束を見失いがちになるものでありますが、今日また、ヤコブの物語を通してあなたの約束の御言葉に与り、イエス・キリストの十字架における勝利の格闘を信じることへと召されましたことを感謝いたします。
 
どうか、一人でも多くの人が、主イエスによって戦い取られた救いに与ることが出来ますように。どうか、私たちのような者をも、この地における新しいイスラエルの一員として、救いの御業の一端を担う者とならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年10月3日  山本 清牧師 

 聖  書:創世記32:23-33
 説教題:「神との格闘」
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