「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」         (創世記2817

 父イサクが兄エサウに与えようとした祝福を、ヤコブは母リベカの計略に乗って騙し取った。その結果、エサウはヤコブを憎み、殺意を抱くに至る。ヤコブはエサウを避けて、伯父の住むハランに向けて、孤独な旅をしなければならなかった。およそ祝福とは反対の、辛い厳しい現実である。
 とある場所で日没となり、野宿しようと石を枕にして横たわると、夢を見た。それは、先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしている情景だ。これは、上昇志向のヤコブの深層心理を反映したものではない。この階段は天から地に向かって伸びており、その階段をヤコブが上っていくのではなく、天使たちが上り下りしていたのだ。これは、神の方からヤコブのもとへ下って来られる神の御心の反映である。そして主は、ヤコブの傍らに立って呼びかけ、アブラハム、イサクと同様、カナンの土地を与え、子孫を大地の砂粒のように多くするとの約束を与え、その上、「わたしはあなたと共にいる」「あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」と言われた。
 ここでヤコブは眠りから覚めて、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と、神の臨在を悟り、恐れおののきつつ、標記のように言った。神の祝福を強引な手段で奪い取ろうとした罪によって捨てられるべき者を、赦して下さる神に畏れを覚えざるを得なかったのだ。「神の家」とは、神との出会いの場、礼拝の場という意味であり、「天の門」とは、天まで這い上がっていく階段の入り口というより、神が下って来られて、引き上げて下さる場所という意味である。
 では、私たちにとっての「神の家」「天の門」とは何か。主イエスは、「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのをあなたがたは見ることになる」(ヨハネ1:51)と言われ、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(ヨハネ10:9)と宣言された。十字架の主イエスこそが天からの階段となり、天の門となって下さったので、私たちも父なる神と出会い、礼拝することが出来、救いの約束の御言葉をいただくことが出来るのである。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2010年9月26日  山本 清牧師 

 聖  書:創世記28:10−22
 説教題:「ここは、神の家」
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