序.ここは、どんな場所か

今、私たちは米子伝道所で礼拝をしております。ここは、小さいながらも教会の一つであり、教会は礼拝する場所であります。教会では礼拝以外のことが行われることもありますが、教会で行われることの中心は、言うまでもなく礼拝であります。礼拝というのは何でしょうか。礼拝というと、讃美歌を歌うとか説教を聞くとかお祈りをするというような礼拝で行われる行為の要素が思い浮かびますが、以前に「共同の学び」読んだ本によれば、礼拝とは拝むことだと書かれていました。拝むというと、神社や寺で行うことのように思ってしまいますが、教会では神さまを拝むのであります。教会で拝むというのは、ただ手を合わせたり、跪いたり、お賽銭を捧げたりという外形的なことではなくて、神様という御人格の前に私という人間(人格)がひれ伏すということであります。そこで起こっていることは、私たちが神様と出会っているということであります。神様との人格的な交わりが起こっているということであります。
 ところで、皆さんにとって、ここはどんな場所でしょうか。この米子伝道所は皆さんにとってどんなことが起こる場所になっているでしょうか。今申しましたように、神さまと出会う場所になっているでしょうか。神様と出会って神様を拝む場所(ひれ伏す場所)になっているでしょうか。確かに、讃美歌を歌ったり、説教を聞いたり、主の祈りを唱えたりしているのですけれど、果たして拝んでいるだろうか、ということです。私たちは教会と呼ばれるところに行けば、必ず礼拝が出来るかというと、必ずしも出来るとは限りません。教会に来て、礼拝に参加していても、神様を拝んでいなければ、礼拝したことになりません。逆に言うと、教会と呼ばれる建物に来なくても、神様と向き合って神様を拝んでおれば、礼拝しているということです。家庭でも礼拝が出来ますし、何もない野原でも、山の中でも神様を拝むことは出来ます。教会と呼ばれる場所や建物が不要だということを言っているわけではありませんし、教会に来なくても自分で礼拝しておれば、それでよいということを言っているのでもありませんが、礼拝の本質は神様との出会いであり、神様の御人格の前でひれ伏して拝むということであって、そのことが私たちに出来ていないとすれば、いくら教会に来ても、礼拝をしていないことになるということであります。
 
なぜ、今日こんな話から始めたかと言いますと、先ほど読んでいただいた創世記2810節以下に、ヤコブが父イサクの家におれなくなって、伯父が住むハランへ向かう途中で、夢の中でではありますが、神様と出会って、礼拝したことが書いてあるからであります。礼拝したという記述はどこにもありませんが、17節を見ますと、そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」とあります。ヤコブは神様の言葉を聞き、主の御臨在を覚えて恐れおののいているのであります。正に礼拝しているのであります。そこは礼拝するように設(しつら)えられた特別な場所ではありませんでした。何もなくて、ただ石を枕にして一夜を過ごした場所であります。しかも、ヤコブは、神様の祝福を授けてくれた父イサクのところにはおれなくなって、逃亡しなければならなくなった罪深い人間であります。そのような者が、どうしてこのような何もない場所で礼拝を行うことが出来たのでしょうか。――今日は、そのことを与えられた箇所から聴き取ることによって、私たちもヤコブと同じように、神様と向き合い、畏れを持って神様を礼拝する者とならせていただきたいと思うのであります。

1.逃亡中の「とある場所」

先週、創世記27章から聞きましたことは、年をとって目がかすんで見えなくなったイサクが、自分のお気に入りの長子のエサウに祝福を与えようとした時に、弟のヤコブの方を可愛がっていた母のリベカは計略を計って、ヤコブに偽装工作を施して、祝福を騙し取ったという出来事でありました。これは人間の歪んだ愛情から来る、まことに見苦しい行為でありますが、実は神様の御心は、アブラハム、イサクに約束されていた祝福を、兄のエサウにではなく、弟のヤコブに受け継がせようということだったのであります。人間の罪にまみれた行為が、神様の御心を進めることになるのであります。
 しかし、だからといって、リベカとヤコブがしたことが何の悪い結果ももたらさないということにはなりません。2741節以下にありますように、悔しがった兄エサウはこのことを根に持って、ヤコブを憎むようになって、父イサクが死んだら、殺してやろう、と考えるようになるのであります。そのことを知った母リベカは、エサウの怒りが収まるまでの間、故郷のハランにいる自分の兄ラバンのところにヤコブを預かってもらおうと考えます。ラバンのところには娘もおりますので、その娘の中から結婚相手を見つけて、子孫を増やせば、神様が約束なさった祝福を受けることが出来るのではないか、というのであります。こうして、ヤコブは親元を離れて、逃げるように伯父の住むハランに向けて旅立つのであります。これまで住んでいたカナンのベエル・シェバの地から約750キロ離れたハランのパダン・アラムまで、寂しい一人旅であります。ヤコブは野人のエサウと違って、家の周辺でしか活動していませんでしたから、野宿の仕方もよく知らなかったのではないでしょうか。イサクを通して神様の祝福を受けたとはいうものの、ヤコブの身に起こっていることは、犯罪者のように逃亡しなればならないという、およそ祝福とは反対の、辛い厳しい現実でありました。旅の環境が厳しいだけでなく、父を騙したという罪の思いや自分を可愛がってくれた母と別れなければならない悲しみ、将来への不安などが、胸を締め付けていたのではないでしょうか。
 2810節に入りますが、ヤコブがハランへ向かう旅を続けながら、とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにしました。「とある場所」というのは、19節によればルズと呼ばれていたようですが、旅なれないヤコブですから、宿泊に適した場所も見つけることが出来ず、固い石を一つ取って枕にして横たわりました。不安な中にも疲れていたからでしょうか、この場所で眠りに落ちると、夢を見たのであります。
 
ここで、「とある場所」とか「その場所」という言葉が繰り返されています。16節に行きますと、眠りから覚めたヤコブが、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と言っております。そして、17節では「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である」と言います。更に19節で、その場所をベテル(神の家)と名付けた、と書かれています。このように「場所」という言葉が繰り返されているのは、後にイスラエルの歴史で重要な役割を果たすようになるこの場所の名前の起源を語ろうとしているためなのですが、全く平凡な場所で、むしろヤコブにとっては辛い旅を象徴するような野宿の場所が、神様と出会う場所になったのであります。このことから分かることは、私たちが神様と出会い、礼拝する場所というのは、何の変哲もない場所、むしろ神様から見捨てられたのではないかと思われるような苦しい経験をする場所である、ということであります。この米子伝道所の場所も、八幡姉が集会所を建てられる前までは、まさか神様を礼拝する場所になるとは誰も思っていなかったに違いありません。そして伝道所となった今も、目立たない小さな存在であります。ここではその後、美しいことばかりが行われたわけではありません。見苦しい分裂騒ぎも起こりました。神様がおられないのではないかとさえ思われることも起こるのであります。人間の感情や人間的な思いが支配するかのような場面が演じられるのであります。しかし神様は、そのような場所をさえ、神様との出会いの場所、畏れ多い場所、救いの御業が行われる場所、神の家(ベテル)とされるのであります。

2.ヤコブの夢――神の御心の反映

さて、ヤコブが見た夢の内容は、一つは、12節にある映像でありまして、もう一つは13節から15節にあります神様の言葉であります。まず映像の方を見ますと、先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていたという情景であります。夢というと、昼間のまともな思考では考えられないようなことが出て来ることがあります。けれども、それを心理学的に分析すると、普段は心の奥底に隠れていたものが出て来たに過ぎないというように言えるのかもしれません。このヤコブの夢も彼の深層心理の反映だと言えるのでしょうか。ヤコブは兄の長子の特権を煮物と引換えに譲り受けたり、父がエサウに与えようとしていた祝福を奪い取ったりするような、言わば上昇志向の人間であります。ヤコブでなくても、人間は誰でも上へ昇ること、高みを目指すことを求めます。このヤコブの夢も、確かに先端が天にまで達する階段が見えているのであります。ところがよく読むと、この階段は天から地に向かって伸びており、しかも、ヤコブがその階段を上って行くのではなくて、神の使いたちが上り下りしているのであります。ですから、この夢はヤコブの胸の内の反映ではなくて、神様の方からヤコブのもとに下って来られるという神様の御心を反映しています。ヤコブは悪巧みを用いて神様の祝福を奪い取ろうとしました。しかし、そんなことをしなくても、神様が天から下って来てヤコブの傍らに立って、ヤコブに祝福を与えられるのであります。
 今日、この後で讃美歌320番を歌います。よくご存知の「主よ、みもとに近づかん」の讃美歌で、このヤコブの夢の記事の基づく讃美歌です。その歌詞によれば、こちらから天に向かって登って行って神様に近づこう、と歌われているように受け取れるのですが、聖書で語られているのは、そういうことではありません。神様の方から近づいて来られて、私たちと共にいて下さり、やがて終わりの時には、私たちを天国に引き上げて下さるのであります。そのことを信じて、「主よ、みもとに近づかん」と歌うのであります。そのことを間違えないように、歌いたいと思います。

3.わたしはあなたと共にいる

では、13節以下の神様の言葉を聴きましょう。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である」と語りかけておられます。神様がアブラハムに語られた約束の言葉のこと、そしてその約束の実現に欠かせない息子が、年老いたアブラハムに誕生したことは、ヤコブも聞いていたでありましょう。また、父イサクが、かつて苦境に立たされた時、「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる」(2624)と約束された出来事を思い出したに違いありません。聖書の神様は、一人一人に呼びかけ働きかけて下さる、人格的な神様であります。アブラハム、イサクに語りかけ、約束し、それを守って下さった神様が、今は「ヤコブの神」として語りかけて下さるのであります。
 神様はここで三つのことを約束しておられます。第一は、「あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える」というものでした。この時ヤコブはまだカナンの地域内におりました。しかしヤコブはこれから、ハランにまで行かなければなりません。再び帰って来れるのかどうか、不安がありました。自分が犯した罪のために、もうカナンの地には帰ることは許されないのではないか、という心配がありました。しかし、神様はアブラハム、イサクに約束されたように、この土地をヤコブに継がせることを約束して下さったのであります。第二は、「あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る」というものでした。これはアブラハムが受けていた約束であり、イサクに受け継がれていたものですが、それをヤコブも受け継ぐことが出来るというのです。ヤコブはリベカの入れ知恵によって、強引にイサクの祝福を奪い取りました。まったく不信仰なことをしてしまいました。だから今、親元を離れなければならないのであります。しかし、神様はその罪を赦して、ご計画どおり約束を継がせて下さるというのです。そして、第三の約束をなさいます。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」――神様は天にいてヤコブを操ったり、指導したり、懲らしめたりしておられるのではありません。神様は天から下って来られて。ヤコブと共にいて下さって、一時は他国へ行かなければならないことがあっても、そこでもヤコブを守って下さり、最後は必ず連れ帰ると約束なさるのです。その約束が果たされるまでは、決して見捨てないとも念を押されます。

4.ここは、神の家

この神様の言葉を聞いたところで、ヤコブはハッとして目を覚ましました。そして、こうつぶやきました。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」――ヤコブはこの時この場所ではじめて、神様が自分と共にいて下さることに気がついたのです。神様と出会っていることに気づいたのであります。これはヤコブにとって一大発見でありました。ヤコブはこれまでも神様のことを知らなかったわけではありません。彼はアブラハム―イサクの信仰の家庭に育ちました。アブラハムが神様からいただいた約束が、アブラハムの人生の中でどのように実現し、それがどのようにしてイサクに受け継がれたのかということも聞いていたに違いありません。そしてその祝福を自分も受け継ぎたいとの思いから、少々強引な手段で兄のエサウから奪い取ろうとしたのであります。しかし、そのようなやり方では、神様と出会うことはなかったのであります。むしろ、神様の祝福からは遠く離れた場所に追いやられた思いであったにちがいありません。しかし今、逃亡者として、不安に満ちた、孤独な寂しい旅の途中で、疲れた体を休ませる安眠の場所もなく、石を枕にするしかない状況の中で、自分の罪深い本当の姿を知らされると同時に、そのような自分のところまで神様の方から下りて来て下さることを、夢を通して示され、更に、御言葉によって、神様が自分と共にいて下さることを知らされたのであります。
 ヤコブはそのことに気づいて、安心し、大喜びしたでのしょうか。17節を見ると、恐れおののいて、「ここは、なんと畏れ多い場所だろう」と言ったと書かれています。ヤコブは非常な恐れを覚えたのであります。神様が共にいて下さること、神様の御臨在に気づくということは恐れおののかざるを得ないようなことであります。先週の箇所で、イサクは騙されてヤコブに祝福を与えてしまったことに気づいて、激しく体を震わせたと書かれていました。恐れおののいたのであります。これも、神様の御臨在と働きを知ったことによるものでありました。今ヤコブも、神様が自分の所に来て下さり、生きて働いておられることを知って、恐れおののかざるを得ないのであります。そして、何の変哲もない、石の枕があるだけの惨めな場所が、畏れ多い場所に変わるのであります。私たちが神様と出会うということも、単純に安心が与えられ、喜びに満たされるということではありません。恐れおののかざるを得ないのであります。ある人は崖っぷちに立たされるようなことだと表現しました。もちろん、そこには深い意味での平安と喜びがあるのですけれど、神様の前にある畏れを覚えることなくしては、神様と出会ったとは言えないのであります。礼拝とはそのような畏れに満ちた神様との出会いの時であります。ですから、自分の都合で疎かにすることが出来ませんし、講演でも聞くような気楽な気持ちで来るものでもありません。生きるか死ぬかがかかっていると言ってよいのであります。
 ヤコブはそのような畏れを覚えつつ、「これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」と言っております。そして、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けました。「神の家」というのは、神が臨在され、神様と出会える場所、礼拝の場という意味でしょう。このルズの地がこの時からベテル(神の家)と呼ばれる聖地となった謂われを述べているのであります。「天の門」というのは、天に通じる入り口という意味でしょうが、先程も申しましたように、ヤコブがこれから努力して天まで這い上がって行く階段の入り口という意味ではありません。神様が天から下って来られて、ヤコブに出会って下さった場所であります。そこが正に「天の門」となるのであります。

結.天の門=イエス・キリスト

では、私たちにとって「神の家」とはどこでしょうか。私たちにとって「天の門」とはどこでしょうか。「神の家」というのが、礼拝する場所を表しているのであれば、私たちにとっては、この米子伝道所が「神の家」であります。しかし、ここに礼拝する場所が整えられ、ここで礼拝という儀式が行われていたら、それでここが「神の家」になるわけではありません。ヤコブにとっての「神の家」は、親・兄弟を騙したことによって始めなければならなかった辛い寂しい逃亡の旅の途中で、石を枕にして野宿した場所であります。そこで、神様がヤコブを見捨てずに出会って下さり、祝福の約束を聞かされて、恐れおののいたから、「神の家」になったのであります。この米子伝道所が私たちにとっての「神の家」になるのも、私たちが、様々の問題を抱えつつ、人を傷つけたり、神様に背いたりしながら歩んでいる人生の旅路の只中へ、神様が下って来て、私たちに出会って下さって、「わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを決して見捨てない」と言って下さる御言葉をいただいて、恐れおののく時なのであります。
 そのような神様との出会いは、私たちにとってどのようにして起こるのでしょうか。神様はどのような階段を下って来て、私たちの傍らに立って下さるのでしょうか。ヨハネによる福音書151節を見ていただきますと、主イエスがこう言っておられます。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」――これは明らかにヤコブの夢を念頭に置いた発言であります。「人の子」とは主イエス御自身のことであります。主イエスが階段になるとおっしゃっているのであります。主イエスが地上に来られ、十字架にお架かりになることによって、神様が私たちに出会って下さるための階段となられたのであります。また、主イエスは、先程朗読していただいたヨハネによる福音書10章で、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(9節)とおっしゃっています。主イエスがここで言う「天の門」となって下さったのであります。主イエスが天からの階段となり、天の門となって下さったことによって、私たちは神様と出会うことが出来、神様の約束の御言葉をいただくことが出来るのであります。その神様との出会いの場所が、私たちにとっての「神の家」であり、「天の門」であります。神様は今日も、主イエス・キリストの十字架の故に、罪深い私たちに出会って下さり、この場所を聖なる「神の家」「天の門」として下さっているのであります。 祈りましょう。

祈  り

天に在しつつ、主イエス・キリストの故に私たちに出会って下さる父なる神様! 畏れつつ御名を賛美申し上げます。
 あなたが共にいて下さり、私たちの旅路を守って下さるとの御言葉を賜わり感謝いたします。どうか、いつもこの「神の家」「天の門」に立ち帰って、あなたの祝福に与る者とならせて下さい。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年9月26日  山本 清牧師 

 聖  書:創世記28:10-22
 説教題:「ここは、神の家」
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