「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです。」                   (創世記2720

 ヤコブは腹を空かせた兄エサウから、煮物と引換えに長子の権利を譲り受けた。そこには「兄が弟に仕えるようになる」との神の御心があった。だが、年老いた父イサクは、自分のお気に入りのエサウに祝福を与えようと、獲物を獲って来て料理を用意するように命じた。それを立ち聞きした母リベカは、寵愛するヤコブのために一計を案じる。エサウが出かけている間に家畜の肉で料理を作って、イサクところへ持って行けば、目がかすんで見えないイサクは騙されて、ヤコブを祝福するだろうという計略だ。ヤコブは、もし父に気づかれたら反って呪いを受けるのではないかと心配するが、リベカは自分が呪いを引き受けるとまで言う。毛深いエサウと偽装するために、毛皮を腕や首に巻き付け、エサウの晴れ着を着せて父の前に出す。イサクは、「どうしてまた、こんなに早くしとめられたのか」と訝るが、ヤコブは標記のように答えた。神の名を用いて親を騙したのだ。ここに見るイサクやリベカやヤコブの思いと行為は、すべて神の御心を蔑ろにして、自分たちの思いを遂げようとする罪に満ちたものであった。
 こうして、イサクはヤコブに祝福を与える。標記の言葉は父を欺くものであったが、期せずして神の計らいを告白する言葉になっていたのだ。
 そこへエサウが帰って来て、父のところへ料理を持って行くと、父は騙されたと気づいて、激しく体を震わせた。この震えは、騙されたことに対する怒りや、エサウに祝福を与えられなかった悔しさや、御心に反することをしようとした過ちに対する神の怒りに対する恐れも含まれているが、根本にあるのは、御心に沿って祝福の業を進められる神の前に立つ畏れである。私たちも、神と出会う時に、震えざるを得ない。エサウは「祝福はたった一つしかないのですか」と悲痛な叫びを上げる。神が私たちに祝福をお与えになる道は、主イエス・キリストの十字架の道一つしかない。この救いの道は、人間の思いや計略を越えた神の御心である。私たちはこの救いの事実の前に、身を震わせてひれ伏すしかない。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2010年9月19日  山本 清牧師 

 聖  書:創世記27:18−29
 説教題:「祝福の奪い取り」
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