序.祝福は誰のものか

旧約聖書の創世記を通して、神様の祝福の約束を受けたアブラハムの物語を聴いてまいりましたが、その神様の約束はイサクに受け継がれ、前回からは、その祝福の約束が更にヤコブへと受け継がれて行く「ヤコブ物語」に入っております。

先週聴いた25章では、イサクの双子の息子エサウとヤコブが登場しました。兄のエサウは巧みな狩人で父イサクのお気に入りの息子でありました。一方の弟ヤコブは穏やかな牧人で、母リベカの寵愛を受けていました。ある日、ヤコブが煮物をしているところへ、狩でお腹を空かせたエサウが帰って来て、煮物を食べさせろと言います。ヤコブはその機会を逃さず、煮物と引き換えに、長子の権利を譲るよう求めます。エサウは一時の空腹を我慢できず、長子の権利を譲ると誓ってしまったのでありました。いかにも浅はかなエサウとずる賢いヤコブの姿が描かれていたのでありますが、実は、既に二人がリベカの胎内で押し合っていた時に、神様からリベカに神様の御心が伝えられていたのでありました。それは、2523節にあります、「兄が弟に仕えるようになる」ということでありました。

さて、今日の27章には、そのような神様の御心があるのを知りつつも、父イサクは兄のエサウを祝福しようとするのに対して、母のリベカはヤコブに計略を授けて、イサクの祝福を騙し取ってしまった次第が書かれています。こうしてエサウは長子の権利だけでなく、神様の祝福さえ失ってしまうのであります。

今日は、カリキュラムでは27章の18節から29節が与えられているのでありますが、前後を含めて27章全体を通して、醜い人間の罪の姿を越えて、神様の祝福の約束が受け継がれて行く様を読み取ることによって、神様が私たちのために備えて下さっている祝福(救いの御業)に与りたいと思うのであります。33節を見ていただくと、騙されてヤコブを祝福してしまったことに気づいたイサクが、激しく体を震わせたということが記されています。これは神様の御心に接した激しい体験を表しております。神様は今日の箇所を通して、私たちに対する神様の御心をお示しになって、私たちの心をも激しく震わそうとしておられるのではないでしょうか。

1.わたし自身の祝福?――イサクの反抗

さて、271節を見ますと、イサクは年をとり、目がかすんで見えなくなってきた、とあります。イサクは60歳の時に双子の息子を与えられ、その息子たちがもう40歳になっていたようですから、イサクは既に100歳に達していたとみられます。そこでイサクは、上の息子のエサウを呼び寄せて2節以下にありますように、「こんなに年をとったので、わたしはいつ死ぬか分からない」と考えて、「今すぐに、弓と矢筒など、狩りの道具を持って野に行き、獲物を取って来て、わたしの好きなおいしい料理を作り、ここへ持って来てほしい。死ぬ前にそれを食べて、わたし自身の祝福をお前に与えたい」と言うのであります。

先ほども申しましたように、神様は既にリベカに「兄が弟に仕えるようになる」と御心を伝えておられました。イサクもそのことはリベカから聞いていた筈であります。また、先週の箇所では、エサウが浅はかにも長子の権利をヤコブに譲ることを誓ってしまいました。それは、イサクの財産をヤコブが多く譲り受けるだけの権利ではありません。神様の祝福を受け継ぐ権利でもあります。その長子の権利を譲ると誓ったこともイサクは聞いていた筈であります。しかるにイサクは、自分のお気に入りのエサウに祝福を与えたいとの一念から、死を前にしてこのような祝福の受け継ぎの儀式をしようとするのであります。神様の御心にもかかわらず、曲げてエサウに祝福を受け継がせようとするのであります。4節の終わりでは、「わたし自身の祝福をお前に与えたい」などと言っております。祝福とは元来、神様がお与えになるものであります。自分の好き嫌いで与えることが出来るものではありません。それをイサクは「わたし自身の祝福」と言っております。イサクは敢えて神様に逆らって自分の意志を押し通そうとするのであります。イサクはアブラハムのもとで信仰を養われてきた人です。しかし、歳をとって頑固になったためか、死を前にして本性が現れたのか、恐ろしいことですが神様の御心よりも自分の思いを優先してしまっているのです。

こういうことは残念ながら、キリスト者でもしばしば見られることでありますし、私たちもよくやってしまうことであります。普段は敬虔な信仰生活を続けていても、人生の重要なことを決断しなければならない時に、まるで神様の御心を伺おうとしないで、自分の好き嫌いによって動いたり、この世の習慣に従ったり、この世的な利害によって判断してしまったりすることが往々にしてあります。そういう自分のあり方を、このイサクの姿に重ね合わせながら、この箇所の御言葉を聞くのでなければ、私たちも気がつかないうちに神様に逆らう者になってしまうのであります。逆に、ここで、イサクの姿の中に自分を見出すことが出来たならば、自分はもとより、子孫に亘って、神様の祝福を受けることが出来るのであります。

2.呪いを引き受けます――リベカの計略

ところで、イサクがエサウにこのように言っているのを、リベカは立ち聞きしておりました。そしてヤコブに祝福を受けさせようと一計を案じます。それは、エサウが獲物を獲りに行っている間に、家畜の肉で料理を作って、イサクのところへ持って行ったら、イサクは目がよく見えないので、エサウと思って祝福を授けるだろうという計略です。そのことをヤコブに言いますと、ヤコブはイサクが肌を触ってみて、毛深くないのに気づいて、エサウでないことが発覚して、自分は反って呪いを受けることになるのではないかと心配しました。しかし、リベカはひるみません。13節でこう言っております。「わたしの子よ。そのときにはお母さんがその呪いを引き受けます。ただ、わたしの言うとおりに、行って取ってきなさい。」このリベカの強い意志に押されて、ヤコブは羊の肉を取って来て料理を作ります。リベカはエサウの晴れ着を出して来て、ヤコブに着せます。それに子山羊の毛皮をヤコブの腕や首に巻きつけて、偽装します。――このリベカの計略を皆さんはどうお感じになるでしょうか。リベカは神様から、エサウではなくてヤコブが祝福を受けるということを聞いておりました。それだからと言って、このリベカの行為を正当化することは出来ません。リベカは神様の御言葉に従ってこのようなことを考えたのではなくて、ただ、自分が好きなヤコブに祝福を受けさせたい一心で、夫を騙そうとしているのであります。それも目が見え難くなっているというイサクの弱みに付け込むやり方です。イスラエルの律法には、「耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である」(レビ1914)とあります。障害者をいじめたり、陥れたりすることは、神様の怒りを受けなければなりません。その上、神様の呪いを引き受けるなどという大それたことを言っております。神様の呪いを他の人に代わって引き受けることなど出来ません。これは神様に対する畏れを欠いた冒涜の言葉であります。神様の呪いを引き受けることが出来るのは、御子イエス・キリストだけであります。「日曜学校」誌の今日の箇所の教案を執筆された小野寺先生は、このリベカの言った言葉は主イエスの働きを指し示しているとおっしゃっています。確かにリベカの計略は結果的に神様がヤコブを祝福しようとなさった御心を実現させることになるのでありますが、そうだからと言ってリベカの行為が正しかったとは言えないのであります。あの主イエスを売ったイスカリオテのユダの行為が、結果的には主イエスの十字架の御業を進めることになったわけですけれども、ユダが正しいことをしたとは言えないのと同じであります。ですから、リベカとヤコブは、この後、神様の呪い(怒り)を受けて、大きな苦しみを担わなければならないことになるのであります。

3.主がわたしのために計らってくださった――ヤコブの嘘

さて、18節以下の今日の箇所に入ります。ヤコブはリベカの言った通りに準備を整えて、父のもとへ行きます。そして、「わたしのお父さん」と呼びかけます。「誰だ、お前は」と尋ねる父に、ヤコブは「長男のエサウです」と嘘をつきます。そして用意した料理を差し出すと、父は不思議そうに、「わたしの子よ、どうしてまた、こんなに早くしとめられたのか」と尋ねます。するとヤコブはこう答えるのです。「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです。」――神様の御名を持ち出して、父親を騙すのに利用しているのであります。これは「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト207)という十戒の第三戒に違犯する言葉であります。このため、後にヤコブは20年間に亘って親元を離れなければならないことになります。しかし、イサクはこの言葉を信じて、ヤコブを近づけ、彼の偽装した腕を触ると、確かに毛深くなっていたので見破ることが出来ません。最後に、イサクは口づけを求めて着物の匂いをかいで、エサウであることを確かめようとしますが、ここでもリベカが用意したエサウの着物を着ていたので、すっかりエサウと思い込んで、祝福を与えることにするのであります。

ここまでの物語に現れた人間の思いや行為は、すべて神様の御心を蔑ろにして、自分たちの思いを遂げようとする罪に満ちたものであります。イサクは神様の御心を知りながら、自分の気に入っているエサウを祝福しようとしました。リベカは自分の可愛がっているヤコブに祝福を受けさせようと計略を企みました。ヤコブは父親に嘘をついたり騙したりしただけでなく、神様の御名をみだりに唱えるという冒涜の罪まで犯してしまいました。人間の罪が何重にも積み重ねられています。

4.罪に満ちた祝福が神の祝福に

しかし、その罪深い人間の思いと行為の結果、神様の祝福は神様の御計画どおり、イサクからヤコブに受け継がれることになるのであります。28節以下にはイサクが語った祝福の言葉が記されています。28節の「どうか、神が、天の露と地の産み出す豊かなもの、穀物とぶどう酒を、お前に与えてくださるように」というのは、農耕生活に対する祝福であって、後にイスラエルの民が定着生活をするようになる時代までの祝福を含んでいます。29節の前半の「多くの民がお前に仕え、多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり、母の子らもお前にひれ伏す」というのは、以前に2523節でリベカが胎内で押し合う双子に関して神様から聞いた言葉と同じであります。また29節後半の「お前を呪う者は呪われ、お前を祝福する者は、祝福されるように」というのは、12章でアブラハムが召命を受けた時に語られた最初の祝福の言葉と同じであります。つまり、アブラハムに語られイサクに受け継がれた祝福が、今ヤコブに引き渡されたということであります。この祝福の裏には、神様の御心を無視しようとするイサクの思いや、何とか祝福を奪い取りたいと思って仕組んだ嘘で固められた計略がありましたけれども、そのような人間の罪にまみれた思いと行為から出た祝福の言葉が、神様の祝福の言葉になるのであります。20節でヤコブが言った、「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです」という言葉は、父イサクを欺く言葉でありましたが、それは期せずして、神様のお計らいを告白する信仰の言葉になっているのであります。

5.激しく体を震わせて――神との出会い

30節以下には、狩りから帰ってきたエサウが獲物を料理して、父イサクのところへ持って来る場面が記されています。イサクが「お前は誰なのか」と聞くと、「わたしです。あなたの息子、長男のエサウです」という答が返って来ます。騙されたと知ったイサクは愕然として、激しく体を震わせて言いました。「では、あれは、一体誰だったのだ。さっき獲物を取ってわたしのところに持って来たのは。実は、お前が来る前にわたしはみんな食べて、彼を祝福してしまった。だから、彼が祝福されたものになっている。」ここに、「イサクは激しく体を震わせた」と書かれています。このイサクの震えは何だったのでしょうか。リベカとヤコブに騙されたことに対する怒りから来た震えでしょうか。あるいは、お気に入りのエサウに祝福を与えられなかったことを悔やむ思いから来る震えでしょうか。あるいは、自分が神様の御心に反して、自分のお気に入りのエサウに祝福を与えようとした過ちに気づいて、神様の怒りを恐れる震えでしょうか。色々なことが混じっていると思いますが、その震えの根本にあるのは、神様の御前にある畏れであります。神様がはっきりと御心を示され、神様の祝福の現実がそこに行われていることを知った畏れであります。神様がなさった祝福の御業の前に立たされたのであります。イサクはリベカを通して神様の御心を聞いていました。しかし、その御心に反して、自分の思いを押し通そうとしました。しかし、神様はそれを許されなかったのです。神様はイサクの勝手な思いを越えて、御計画を進められるお方であることを悟らされました。そのような神様に出会う時に、私たちは震えざるを得ないのであります。私たちの礼拝の場も、そのような神様と出会う場であります。御言葉において私たちは、自分の思いを越えた神様の御業を知らされ、震えつつ御前にひれ伏さざるを得ないのであります。

結.祝福はたった一つしかない――イエス・キリストによる救い

34節以下には、事の顛末を知ったエサウの悲痛な叫びが述べられています。「わたしのお父さん。わたしも、このわたしも祝福してください」と泣きながら叫びますが、イサクは「お前の弟が来て策略を使い、お前の祝福を奪ってしまった」と言います。エサウは諦め切れずに、「お父さんは、わたしのために祝福を残しておいてくれなかったのですか」と言い、更に38節では、「わたしのお父さん。祝福は一つしかないのですか。わたしも、このわたしも祝福してください」と泣いて迫りますが、イサクの答えは、39,40節にあるように、その後のエサウの厳しい運命を告げるものでありました。しかし、エサウが人類の歴史から消え去るのではありません。エサウの子孫、即ちエドム人は、後々までもヤコブの子孫、即ちイスラエルの民と関わり続けて、イスラエルの過ちを正す役割を果たすことになるのであります。

しかし、「祝福は一つしかない」というのは、余りにも狭い考え方ではないか、エサウにも祝福の一部を分けるということが出来なかったのだろうか、という思いがします。しかし、神様の祝福は大安売りのように誰にでもばら撒かれるものではありません。神様が人々に祝福を与えられる道は限られています。主イエスは、「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか」(マタイ714)と言われました。私たちが救いに与る道は、主イエスの十字架の道しかありません。その細い道を通して、神様の祝福はすべての人に及ぶのであります。

聖書朗読で併読していただいた新約聖書のガラテヤの信徒への手紙3章(p345)の7節以下を、もう一度見ていただきますと、このように書かれています。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であることをわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。(ガラテヤ379

今日の物語は、このただ一つの救いの道である、主イエス・キリストの十字架の道を指し示しています。イエス・キリストの十字架の救いは、人間の思いや計略を越えて、神様の御心が実現したのでありました。神様は今も、私たちの浅はかな思いや罪深さを越えて、救いの御計画を進めておられるのであります。そして、御言葉をもって、聖書に記された出来事を通して、この厳然たる救いの事実の前に立たされるのであります。私たちはイサクと共に、身を震わせつつ御前にひれ伏すほかないのであります。
 祈りましょう。

祈  り

アブラハム、イサク、ヤコブの神、イエス・キリストの父なる神様!

人間の罪に満ちた思いや計略を越えて、あなたの救いの祝福を、今に至るまで受け継がせて下さり、私たちのような者にも及ぼしてくださっていますことを、感謝いたします。どうか、あなたのかけがえのない祝福に堅く立つ者とされ、あなたの御心に逆らうことなく、従う者とならせて下さい。どうか、主の日ごとの礼拝において、あなたに出会い、身を震わせつつ、跪くものとならせてください。また、どうか、この地に住む多くの方々が、あなたの祝福に与り、救いに入れられますよう、お計らいください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年9月19日  山本 清牧師 

 聖  書:創世記27:18-29
 説教題:「祝福の奪い取り」
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