ヤコブは言った。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」                     (創世記2531
 アブラハムの子イサクは40歳でリベカと結婚したが、彼女に子供が出来なかったので主に祈ると、祈りが聞き入れられて、双子のエサウとヤコブが与えられた。二人は成長して、エサウは野山を駆け巡る巧みな狩人となり、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで家畜を養う牧人となった。父イサクは狩の獲物が好物だったこともあって、狩猟の得意なエサウが頼もしく見え、長子の権利を引き継ぐのに相応しいと考えていた。一方、母リベカは弱い立場のヤコブを愛した。このような親の偏愛の現実の中で、ヤコブは長子の権利を奪い取りたいと、機会を狙っていた。
 ある日、ヤコブが煮物をしていると、エサウが腹を空かせて野原から帰って来て、煮物を見ると、それを食べさせろと言った。ヤコブは絶好の機会だと思って、煮物と引き換えに長子の権利を譲るように求める。エサウは「長子の権利などどうでもよい」と言って、あっさりと譲ることを誓った。こうして、エサウは一時的な欲望を満たすために、神の祝福が込められた長子の権利をヤコブに譲ってしまった。
 この物語によって、聖書は何を語ろうとしているのであろうか。ヘブライ人への手紙121417が記すように、<この世の幸せを求めて、神の祝福を軽視してはならない>という勧めとして聴くのが一つのポイントである。しかしここには、もっと大切なメッセージが込められている。創世記2523によれば、リベカの胎内で押し合う双子について、神は、「兄が弟に仕えるようになる」と語られた。これが神の自由な選びによる御計画であったのだ。自由な選びとは神の気侭ではない。ローマの信徒への手紙91018では、それは神の憐れみによるのだと語る。ヤコブは、当時の習慣では長子の特権を受け継ぐことは出来ず、生活力も乏しいため、陰険な手段で特権を奪おうとする、欲深くてずる賢い、罪深い人間であった。神はそのような人間を憐れまれたのである。
 この神の憐れみによって、ヤコブの子孫にイエス・キリストを生まれさせ、その十字架の贖いを通して、罪ある者も救いの恵みを受けることができるようにして下さった。本年の米子伝道所の目標は「救いの恵みの継承」である。私たち一人一人も、米子伝道所の歩みも、この世的な考えや罪にまみれているが、神は憐れみに満ちた自由な選びによって、私たちも救いの恵みを継承する者たちとされているのである。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2010年9月12日  山本 清牧師 

 聖  書:創世記25:27−34
 説教題:「祝福の特権」
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