序.アブラハムからヤコブへ――祝福の継承

4回にわたって、「信仰の父」と呼ばれるアブラハムの物語を聴いて参りました。アブラハムは神様から「祝福の源」となるとの約束を与えられて、行く先を知らずして故郷ハランを出発しました。75歳の時でありました。しかし、妻サラとの間に子供が出来ず、神様の約束の言葉への信頼が揺らぐことが度々でありました。そんなアブラハムに対して神様は、「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」と言われ、満天の星空を仰がせて、「あなたの子孫はこのようになる」と約束されました。それでも信じきれないアブラハムとサラのところに、神様は三人の旅人の姿で現れて、「来年の今ごろ、男の子が生まれる」と告げられました。こうして、アブラハムは100歳にして息子イサクを与えられたのでありました。神様は、人間には不可能と思われるところまでイサクの誕生を遅らせることによって、神の約束はどんなことがあっても、人間の不信仰によっても妨げられることなく果たされることが示されたのでありました。更に先週は、その祝福の印であるイサクを献げるように神様が命じられた出来事について聴きました。それは神様の意図が理解できないような命令で、アブラハムにとって最大の試練でありましたが、神様の御言葉に従ってイサクを献げようとしたとき、神様は代わりに小羊を備えて下さったのでありました。こうしてアアブラハムは信仰を更に成長させられたのでありました。

さて、今日の25章には、アブラハムへの神様の祝福がどのように子孫に継承されて行くのかということの一場面が記されています。アブラハムは175歳の長寿を全うして死に、息子イサクも40歳でリベカという女性と結婚していました。しかし、このリベカにも子供がなかなか出来ませんでした。またしても、神様の祝福はどうなるのか、という問題に突き当たらざるを得ませんでした。そのためイサクは熱心に神様に祈ったことが21節に記されています。イサクは既に60歳になっていましたが、この祈りは主に聞き入れられて、リベカは身ごもって、めでたく双子の息子エサウとヤコブが与えられるのであります。

ところが、今日与えられた27節以下には、先ほどの朗読でお分かりのように、エサウが長子の権利を、空腹を満たすという一時的な満足のためにヤコブに譲ってしまうという出来事が記されています。ここにはエサウの浅はかさとヤコブのずるさが描かれています。そこには醜い人間の姿があります。神様の祝福を軽んじる一方で、ずる賢い手段で神様の祝福を奪うという、罪深い人間の姿を見ることが出来ます。神様の祝福の継承ということが、こんな醜い形で行われてよいものであろうか、と考えてしまいます。

今年、米子伝道所の年間の目標として、「救いの恵みの継承」ということを掲げています。神様の救いが、親から子や孫へ、また教会の中の世代から世代へと受け継がれて行くことを願っているわけですが、そのような「救いの恵みの継承」ということは、どのようにして行われるのでしょうか。アブラハムから次の世代への継承は、子供がなかなか生まれなかったために、人間の考えで、家の僕に跡を継がせようとしたり、妻サラの女奴隷に産ませようとしましたが、結局、不可能と思われた妻のサラにイサクが与えられて、神様の当初の約束が実現したのでありました。人間の不信仰や常識を超えて、神様のお言葉どおり、祝福の継承が行なわれたのであります。ところが今日の箇所のエサウとヤコブのやり取りの結果行われた長子の特権の譲渡は、私たちがイメージする祝福の継承の姿との間に、相当の開きがあるように思われるのでありますが、聖書はこの物語を通して私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。――実は、この醜い物語の中に私たちが聴かなければならない大切なことが秘められているのであります。

1.不思議な主の御心――兄が弟に仕える

それにはまず、今日の箇所に入る前の22節以下のところから見て行く必要があります。22節にはこう書かれています。ところが、胎内で子供たちが押し合うので、リベカは、「これでは、わたしたちはどうなるのでしょう」と言って、主の御心を尋ねるために出かけた」とあります。結婚して20年目に双子の子を身ごもったのは喜ばしいことでしたが、お腹の中で争い合うように押し合っていて、あまりにひどいので、リベカはたまらず、神様に御心を尋ねるのであります。すると驚いたことに、神様はこう言われたのであります。「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民よりも強くなり、兄が弟に仕えるようになる。」――ここには、これから起こるやっかいな問題が示されています。一つは民族対立の問題であります。アブラハムにも正妻サラのほかに、サラの女奴隷ハガルの子イシュマエルがおり、18節によればエジプトに近い方面に移されます。これは後にアラブ民族になったとされます。また、サラの後妻または側女とみられるケトラという妻がいて、6節によるとケデム地方へ遠ざけられます。しかし、今度のイサクの子は双子であります。それが後の民族対立の種になるというのであります。しかも、やっかいなことに、「兄が弟に仕えるようになる」と神様はおっしゃったのであります。アブラハムの場合は、はっきりとサラに生まれる長男のイサクが祝福を受け継ぐと神様はおっしゃったのでありますが、今度は双子の弟の方が強くなると言われるのであります。しかし、これが神様の御心であり、御計画なのであります。

このあと、27節以下のエサウとヤコブの物語を見て行くのでありますが、アブラハム、イサクに与えられた祝福の特権を、なぜエサウではなくてヤコブが受け継ぐのかという疑問を解く鍵は、ここに示される神様の御心に端を発しているということなのであります。

2.エサウとヤコブ――罪の中にある二人

さて、24節以下には双子の誕生のことが記されています。先に出て来た子は赤くて、全身が毛皮のようであったので、エサウと名付けた、とあります。血色が良くて、毛深い赤ちゃんだったようです。「エサウ」という名前は、ここで説明されている「赤い」とか「毛皮のようであった」ということとは結びつかないのですが、30節でエサウが「その赤いもの(アドム)を食べさせてほしい」と言ったことと関係があります。30節の終わりに、彼が名をエドムとも呼ばれた、とありますように、アドムとエドムはヘブル語で子音が同じで、このエドムというのは、後にイスラエルの民と長く争う民族の名前です。エサウはそのエドム人の祖先とされているのであります。一方、26節を見ますと、その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた、と書かれています。ヤコブという名前は「かかと」に関係するわけですが、「だます」という意味も持っています。そのことは来週取り上げる場面で明らかになります。このヤコブが後に神様からイスラエルという名前を与えられて、イスラエル民族の祖先になるわけです。つまり聖書は、エドム人とイスラエルの民との対立の起源がここにあるということを説明しているのであります。

27節に進みますと、二人の子供が成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした、とあります。兄エサウは狩猟が得意で、恐らく体格も頑丈で性格も男らしかったのだと思われます。一方、ヤコブの方は性格が穏やかで、今で言うなら「草食系」だったようで、天幕の周りで働いていたということですから、牧畜を営んでいたと考えられます。このようなことが記される背景には、狩猟民族と牧畜民族の対立があったということも言われますが、聖書はここで、狩猟民族より牧畜民族の方が優れているとか、神様の御心に適っているということを言おうとしているのではありません。人間には得意・不得意があり、強い人や弱い人、賢い人や愚かな人がいます。神様は人間的に見て、強い人や賢い人をお用いになるとは限りません。

ところが人間は、人を差別したり、好き嫌いの感情を抱きます。28節を見ると、こう書かれています。イサクはエサウを愛した。狩の獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した。父のイサクは、狩の獲物が好物だったということもあり、狩猟の得意なエサウが頼もしく見え、長子の権利を引き継ぐのに相応しいと考えていたのでしょう。一方、母のリベカは、父がエサウを愛するので可哀相だと思ったのか、神様から「兄が弟に仕えるようになる」と言われたことが心に残っていたからか、ヤコブの方を愛しました。いずれにしろ、親が息子の一方を他よりも愛するという偏愛の現実があったのであります。それは子供にも歪んだ感情を起こさせることにもなったと思われます。ヤコブは兄の長子の権利を何とか手に入れられないものかと密かに企みます。長子の権利というのは、家長となる栄誉を担うと共に、遺産の分配では他の兄弟の2倍を受けるとされていたようでありますから、その特権を何とか奪い取りたいと虎視眈々とその機会を狙っていました。――このように、夫婦、親子、兄弟の間で、見苦しい関係が出来てしまっておりました。罪深い人間の間には、とかくこういうことが有り勝ちであります。

3. 長子の権利を奪う

ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰って来ました。お腹も空いていたようです。ヤコブはレンズ豆の煮物を作っていました。エサウはそれを見ると、「お願いだ、その赤いもの、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ」と言います。ヤコブは絶好の機会だと思ったのでしょう。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください」と言います。するとエサウは、思いのほかあっさりと答えます。「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」。そこでヤコブはすかさず言います。「では、今すぐ誓ってください。」こうしてエサウは、長子の権利をヤコブに譲ることを誓ってしまいます。エサウは軽い気持ちで口をすべらせたのかもしれませんが、取り返しのつかないことをしてしまいました。エサウは目先の空腹を満たすために大切な長子の特権を逃がしてしまいました。この権利は、ただ財産を受け継ぐということだけでなく、神様の祝福の約束を受け継ぐということであります。ですから、34節の最後に書かれているように、エサウは、長子の権利を軽んじた、即ち、神様の祝福を軽んじたということでもあります。一時の肉体的、物質的な利益のために、霊的なもの、神様の恵みを捨て去るという愚かなことをしてしまったのであります。聖書朗読で併読していただいたヘブライ人への手紙1214節以下は、このことをもとにした大切な勧告がなされています。(p417

すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。 神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです。 (ヘブライ121417

一方、ヤコブはどうかと言いますと、ただ穏やかなだけの人ではありませんでした。賢明というよりも、ずる賢い、陰険な人間であります。ヤコブが求めたのは、神様の祝福というよりも、長子の権利であります。そういう意味では、ヤコブも決して信仰的、霊的ではなくて、やっぱり物質的なもの、俗悪なものを求めたのであります。エサウが目先の満足を求めたのに対して、ヤコブは将来の利益を求めたという違いはありますが、結局、この世的な利益を求めたに過ぎないのであります。

4.神の自由な選び

では、今日のエサウとヤコブの俗悪な物語を通して、聖書は私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。先ほど読みましたヘブライ人への手紙にありましたように、<この世の幸せを求めて、神様の祝福を軽視してはならない>という勧めを聴くことは一つのポイントであります。しかしここには、もっと大切なメッセージが込められているように思います。それは、今日最初に23節で見ましたように、神様が「兄が弟に仕えるようになる」と言われていたことであります。つまり、神様がヤコブを祝福の跡継ぎとして選んでおられたという事実であります。神様の祝福というのは、エサウやヤコブの能力や性格や賢さによって与えられたり与えられなかったりするのではなくて、神様の自由な選びによるのだ、ということであります。この世では長子が親の権利を受け継ぐというのが、家族や社会の中で争いを起こさないためのルールであります。イサクの時代からそういうルールがありました。しかし、神様はそのようなこの世のルールに縛られません。それでは、神様は息子の能力や賢明さによって祝福の対象を決められるのかというと、そうでもありません。エサウとヤコブの場合は、どちらかというと、エサウの方が生活力があり、力強さを感じますし、少々浅はかではありますが、あっさりとした性格には、むしろ好感さえ覚えます。それに対してヤコブはひ弱くて、ずる賢く、性格は陰湿でさえあります。どちらが人間社会の中で成功するかと言えば、必ずしもヤコブだとは言えないように思えます。しかし、神様の選びはエサウでなくて、ヤコブでありました。それは、神様の目から見てヤコブの中に何か優れたところがあったとか、神様の気に入る性格があったからではありませんし、信仰的に立派だったということでもありません。神様の自由な選びによるのであります。ローマの信徒への手紙9章はイスラエルの選びについてパウロが語っている箇所でありますが、910節以下をご覧ください。(p286

それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。「わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。神はモーセに、/「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。(ローマ91016

神様の自由な選びということは、神様の気侭によって選ばれるということではありません。今読んだ最後に書かれていましたように、「神の憐れみによる」のであります。15節に神様がモーセにおっしゃった言葉が引用されていましたが、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」のであります。この世の習慣では長子の権利を受け継ぐことが出来ず、生活力も乏しい、弱いヤコブを憐れんで選ばれたのであります。ヤコブには人の権利を奪い取ろうとする罪深いずる賢さがありました。決して優等生ではありませんし、信仰深かったからでもありません。しかし、神様は、そんなヤコブのずる賢ささえ用いて、御自分の救いの御計画を進められたのであります。

結.祝福の約束を受けて――私たちの選び

では、私たちは神様の祝福を受けられるのでしょうか。私たちの伝道所は、神様の救いの恵みを継承できるのでしょうか。

私たちはもともと、神様の祝福を継承する権利を持っている者ではありません。多くの者はキリスト教の世界に生まれ育ったのではなく、異教の世界に住んでいた者たちであります。また、罪深さという点では、エサウのように、軽薄で気まぐれで、先の読めない者であったり、一方ではヤコブのように、人のものをさえ奪い取るようなずる賢さをもって世渡りをしています。もし神様が、そういう私たちの評価をもとに、祝福するかどうか、救いを与えるかどうかを決められるとすれば、とっくに捨てられている筈であります。

私たちの伝道所にしても、過去の歴史を振り返れば、神様の大きな導きや、一部の方の献身的な働きがあったものの、一方ではあまりにも人間的な振る舞いや、御都合主義的な礼拝生活から脱け出したとは言えない状況があります。

しかし、今日のエサウとヤコブの長子の権利の継承の物語が告げていることは、そのような私たちの弱さや罪にまみれた過去を越えて、神様の憐れみに満ちた自由な選びによって、私たちも私たちの伝道所も、救いの恵みを継承することが出来るようにして下さるということであります。なぜなら、神様はヤコブの子孫にイエス・キリストを生まれさせ、その十字架の死と復活を通して、罪ある者をもすべて救いに入れようとしていて下さるお方であるからであります。神様の自由な選びとは、決して気まぐれでも、神様の独断専制でもありません。罪深い者をも救い出して、祝福に導き入れようとの、憐れみに満ちた選びの御意志であります。神様はその救いの御意志をもって、今日も私たちに御言葉をもって臨んで下さったし、この伝道所を用いて、この地域における救いの御業を続けて下さるのであります。  お祈り致します。

祈  り

憐れみに富み給う父なる神様!

アブラハム、イサク、ヤコブの時代から、救いの御計画を進めて来られ、ヤコブの末に御子イエス・キリストを賜わり、私たちをも救いの御計画に組み入れて下さり、実際に今日もこうして、御言葉に与ることを許して下さいましたことを感謝いたします。

罪深い者ですが、どうか、私たちをもあなたの祝福を受け継ぐ者とならせて下さい。どうかまた、この地域の多くの方々を、私たちの働きを用いて、この伝道所を通して、救いへと導いて下さいますように。様々の悩みや苦しみをもっておられる方々が、あなたの御言葉に出会って、救いに入れられますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年9月12日  山本 清牧師 

 聖  書:創世記25:27-34
 説教題:「祝福の特権」
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