「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」                    (創世記228       

 神から祝福の源となるとの約束を与えられていたアブラハムは、ようやく100歳になって息子イサクを与えられ、これまでで最も満ち足りた時期を迎えていた。そのようなアブラハムに神は、独り子イサクを献げるよう命じられた。これは愛する息子を自らの手で殺さねばならないという恐ろしい命令であるだけでなく、神の約束の御心が見えなくなる命令であった。なぜ、そのような命令を神がお与えになったのか。(第一の疑問)――聖書は、神がアブラハムを試されたと語る(1)。「試す」とはアブラハムの信仰の程度をテストするという意味合いよりも、信仰を鍛えて成長させる目的を持った試練という意味を持つ。
 このような命令を受けたアブラハムに苦悩や戦いがなかった筈はないが、聖書は彼の心の内を記すことなく、彼が神の言葉に従って淡々と事を進め、イサクが「献げ物にする小羊はどこにいるのですか」と問うたときも、標記のように答えたと記す。なぜ、アブラハムは神の命令に従うことが出来たのか。(第二の疑問)――それは、アブラハムが狂信的な信仰の持ち主だったからではなく、勇気ある立派な信仰を持っていたからでもない。これは神が起こして下さった奇跡である。神が試練を通してアブラハムとの関係を確かなものへと作り直されたのである。この神の御心は、2000年後のイエス・キリストによる救いの御業へとつながっている。
 ところで、この物語を通して神は、私たちに対しても、自分が最も大切にしているものを献げるようにと迫られる。そんなことが私たちに出来るのだろうか。私たちにはとても出来ないように思える(第三の疑問)――しかし、この物語は、完璧な信仰を献げることが出来なかったアブラハムをも、神が引き上げて下さったことを示している。愛の神は、犠牲の小羊となる独り子イエス・キリストを備えて下さることによって、私たちをも神の言葉に聴き従う者となる奇跡を起されるのである。正に「主の山に備えあり」である。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2010年9月5日  山本 清牧師 

 聖  書:創世記22:1−19
 説教題:「神が備えてくださる」
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