序.理解を超えた試練

信仰の父と呼ばれるアブラハムの物語を聞いて参りましたが、今日与えられています創世記22章に記された箇所は、そのクライマックスとも言うべき場面であります。アブラハムが自分の愛する大切な息子を殺そうとするこの場面は、初めて読んだ方も、何度も読んだことがある方も、恐らく戸惑いを禁じえないのではないかと思います。私もこの箇所の説教をしなければならない中で、改めて、疑問と取組まざるを得ませんでした。最近、親が子供に暴力を振るう家庭内暴力(DV)事件がしばしば報じられていますが、それとこれとは全く違います。アブラハムは息子イサクを疎ましく思っていたのではありません。百歳もの高齢になってから与えられた最愛の独り子であります。しかも、これまでに聞いてきたように、イサクは神様が与えて下さった約束の子であります。神様はアブラハムの子孫を大いなる民とし、アブラハムが祝福の源となるという約束を与えられました。アブラハムと妻のサラは高齢の故に、神様の約束をまともに受け取ることが出来ず、ひそかに笑ったりしましたが、神様は繰り返し約束を語って来られました。その挙句にやっと与えられたイサクを殺すということは、せっかくの神様の約束が無に帰すということであります。そんなことを神様がお命じになるとは、全く理解できないことであります。なぜ、そのような命令を神様がお与えになったのか。それが第一の疑問であります。しかも、アブラハムは神様のご命令に対して、何の疑問も感じないかのように、淡々と従ったように聖書は記しています。なぜ、アブラハムが神様の命令に従うことが出来たのか、ということが第二の疑問であります。ところが、聖書の世界では、このようなアブラハムを「信仰の父」と呼んでいるのであります。信仰のためならば、こんなむごいこと、理不尽とも思えることもしなければならないのか。そんなことが自分には出来るだろうか、というのが第三の疑問であります。

このような疑問がありながらも、聖書の物語を、大昔の神話として聞き流すとか、特別な信仰の偉人の物語として受け取っている限りは、さほど抵抗もなく読むことが出来るのかもしれませんが、そのような読み方では、そこに込められた神様の御心を聞き逃してしまうことになります。神様は今日、与えられた聖書の箇所を通して、私たちに御心を示そうとしておられます。そして、かつてアブラハムに迫られたように、今日は私たちに御言葉に聞き従うのかどうかを迫っておられるのであります。ここには大きな三つの疑問があります。それらの疑問について、与えられた箇所の御言葉と格闘するときに、そこに込められた神様の恵みを聴き取ることが出来るのであります。ご一緒に、与えられた御言葉と向き合いたいと思います。

1. 神の命じられるままに

さて、1節の初めに、これらのことの後で、神はアブラハムを試された、とあります。「これらのこと」というのは、21章に書かれていることと考えられます。色々なことが書いてありますが、中心はアブラハム夫妻にイサクが誕生したということです。それは単なる一人の子供の誕生ではありません。神様がアブラハムに約束された将来の大きな約束の実現に向けての証しでありました。こうしてアブラハムは、神様の約束が信じ切れなかった信仰の危機を脱して、これまでで最も満ち足りた時期を迎えたのであります。21章には、先に女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエルと正妻サラとの間に生まれたイサクの関係についても、神様がはっきりさせて下さったことが記されていますし、カナンに住む土地も与えられたことも書かれていて、もう何も案ずることがない状況にありました。

ところが、そのアブラハムを神様は再び試されるのであります。これまでにない大きな試練であります。それは、2節にあるように、「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」という恐ろしい命令でありました。「焼き尽くす献げ物」というのは、旧約時代に神様への献身と服従のしるしとして動物を祭壇に献げて焼き尽くしたことを指しています。病気か事故で我が子を失うというだけでも、大きな悲しみでありますのに、こともあろうに父親である自分が愛する息子を自分の手で殺さねばならないのであります。古代においては、何か大きな事業を行う時には、人身御供として子供が犠牲にされることがありましたが、聖書の世界では、そういうことはむしろ異教の習慣として否定されることであります。神様は犠牲を求められているのではありません。ではなぜ、愛する息子を殺さねばならないのでしょうか。その意味が、アブラハムには全く分からなかったでしょう。イサクは神様の約束の証しとして神様が与えて下さった息子であります。その息子を献げるということは、自分が息子を失うだけでなく、その子を通して与えられる子々孫々にわたる神様の祝福が危うくなるということでもあります。神様の気が変わったということでしょうか。耳を疑うようなことでありました。神様のこれまでの約束は何だったのかと疑いたくなるような命令であります。これまでアブラハムは、神様のご命令を受けて、迷いながらも神様の命じられるままに行動し、曲がりなりにも約束を信じて来ました。しかし、今回は、神様の御心が見えなくなるような命令であります。

しかし、聖書はこれを「神はアブラハムを試された」と記すのであります。神様が試すというのは、アブラハムのことがよくわからないので信仰の程度をテストしたということではありません。神様が与えられる試練であります。試練というのは、神様が信仰を鍛えるために経験させられるもので、神様は試練を通して私たち人間と神様との関係、神様への信頼をより強くしようとされるのであります。試練は信じる者だけに与えられる恵みであります。

神様のご命令はアブラハムにもその御意図がよく分からないものでありましたが、3節以下を見ますと、次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられたところに向かって行きました。聖書はここで、アブラハムの心の動きや感情について何も述べていません。だからと言って、アブラハムに人間的な苦悩や戦いがなかったということではないでしょう。愛する息子との満ち足りた生活を捨てたくなかったでしょう。出来るなら息子を献げることだけは差し控えさせて下さいとお願いしたかったに違いありません。けれどもアブラハムは神様の命じられた通りに淡々と準備を進めます。ある人はこの時のアブラハムの心境を、数少ないアブラハムの言葉で説明しようとします。それは1節で神様が「アブラハムよ」と呼びかけられた時に「はい」と答えた言葉と、7節でイサクが「わたしのお父さん」と呼びかけた時の「ここにいる」という言葉と、11節で主の使いが「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた時に、「はい」と答えた言葉が、原語では同じで、直訳すると「ここにいます」という答えなのですが、その言葉には神様から逃げ隠れしようとしないアブラハムの心の内が示されていると言うのです。神様の命令を聞いて、神様の御意図が分からなくなって、進むべき道を見失いかけている中で、「ここにいます」と言って、神様の前に立ち続けようとしているのだ、と言うのです。そうかもしれません。確かにアブラハムは、何の反論も不平も漏らすことなく、神様の言われるままに事を進めようとするのであります。自分の思いを捨てて、神様の言葉に従うのであります。これはアブラハムの功績というようなものではないし、アブラハムの信仰が立派だったということでもなくて、神様が起こして下さった奇跡であります。神様の言葉の権威が奇跡を惹き起こしたのであります。聖霊の働きと言ってもよいかもしれません。

2.小羊はどこに――神が備えてくださる

出発して3日目に、神様が命じられた場所が見える所に来ました。一緒に来た二人の若者をそこに残して、アブラハムが火と刃物を手に持ち、イサクには薪を背負わせて、二人で礼拝の場所へ向かいます。歩きながらイサクはアブラハムに「わたしのお父さん」と呼びかけます。アブラハムは「ここにいる。わたしの子よ」と答えます。ここから親密な親子の関係を読み取ることが出来ます。しかし、イサクがずっと不思議に思っていたけれども、言い出せないでいたことがあります。もう黙っていることが出来ません。イサクは堰を切ったように、尋ねます。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」緊迫した場面であります。この問いに対してアブラハムは静かに答えます。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」――このアブラハムの言葉をどう理解すべきでしょうか。アブラハムはこの出来事の結末を予想してこう言っているのではありません。アブラハムは本気でイサクを献げようとしています。ですから、「焼き尽くす献げ物の小羊」とはイサクのことであります。まさかイサクの前で、「お前が献げ物だ」とは言えないのでこう言ったのでしょう。しかし、同時にアブラハムは神様を信頼しています。神様がお命じになったのだから、必ず良い結果がもたらされるという信頼があります。神様の目的はよく分からないけれど、人身御供のようにやむを得ず義務的に子供を差し出すというのではありません。「備えてくださる」という言葉は、直訳すると、「彼がご覧になるであろう」となります。つまり、<神様が見ていて下さる>、<神様が最良の結果を見ておられる>という意味です。アブラハム自身は結果がどうなるのか、見えているわけではありません。しかし、<神様にはちゃんと見えている>、と信頼しているのであります。これまでのアブラハムは、子供を与えて下さるという神様の約束が信じられなくて、笑ってしまったり、自分で跡継ぎを用意したりしました。しかし、今回はそのような失敗をいたしません。試練の中でも神様に全てを委ねる信仰を神様が備えて下さったのでしょう。アブラハムはイサクの質問にも動じることなく、神様が命じられた場所へと歩を進めます。

3.独り子をすら惜しまず

9節に進みます。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せます。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとします。このときイサクはどのような思いであったのかと、私たちは心配になります。しかし不思議なことに、イサクは何の抵抗もせず、文句を言うこともなく、縛られるままになっています。アブラハムの心を理解していたのでしょうか。それともアブラハムの迫力に圧倒されて、何も出来なかったのでしょうか。この時のイサクの心中は分かりません。結果的に殺さずにすむことになるのですが、こんなことをして、心に傷が残ってしまうのではないかと思ってしまいます。しかし、アブラハムはそのことも含めて、神様に委ねていたのでしょうし、イサクも結果的には父の信仰を受け入れ、深く心に刻み込むことになったのではないでしょうか。

アブラハムがイサクを祭壇の薪の上に載せて、刃物を取って、振りかざした時、天から主の御使いが呼びかけました。「アブラハム、アブラハム」。彼が「はい」(直訳すると「ここにおります」)と答えると、御使いは言いました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」――「神を畏れる者」というのは、神様をただ怖がるということではありません。神様を神様として崇め、信じることです。しかし、ただ盲目的に信じるということではありません。聖なる神様の前に立つとき、罪人である者は、堂々と胸を張ることは出来ず、恐れを抱かざるを得ません。アブラハムにも、神様の約束を完全に信じることが出来なかった過去がありました。神様の御心との間に隙間がありました。ですから、神様の怒りを受けたとしても、文句を言えません。恐れざるを(怖がらざるを)得ません。しかし、神様はそのアブラハムが神様を完全に信じることが出来るようになる機会を備えて下さったのであります。それが息子を献げるということでありました。こうしてアブラハムは、神を怖がるのではなく、神を畏れる者(信じる者)となることが出来たのであります。

御使いは「今、分かったからだ」と言っております。これは、神様がアブラハムのことを今まで分からなかったという意味ではないでしょう。神様はアブラハムの信仰も不信仰もご存知でありました。しかし、その信仰が揺れ動いたアブラハムも、今は、神様のお言葉を信じて従う者に成長したことが分かったということであります。

御使いはまた、「自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」と言っております。「独り子」というのは、子供が一人だけであったというだけの意味ではありません。<神様の約束を受けた、かけがえのない子>という意味が込められています。その子を献げることは約束と矛盾することであります。しかし、神様の言葉に従って、命じられるままに献げようとしたのであります。そこにアブラハムの信仰があります。

13節をご覧下さい。アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。神様が献げ物を備えておられたのであります。そうであるなら、なぜ神様はアブラハムを苦しめるようなことをなさったのでしょうか。それは、アブラハムの信仰を成長させるためでした。

ところで私たちは、12節にあった「独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」という言葉を聞くと、主イエスのことを思い出さざるを得ません。先ほど併読いたしましたローマの信徒への手紙8章の32節をもう一度見て下さい。こう書かれています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜わらないはずがありましょうか。」――イサクが献げられたことは、後のイエス・キリストを指し示しています。神様ご自身が独り子を惜しまずに私たちのために献げて下さることになるのです。アブラハムがここで受けた試練を、神様ご自身が引き受けて下さるのです。しかも、アブラハムの場合は、神様が身代わりの羊が用意されたので、イサクは死なずにすんだのですが、主イエス・キリストには、誰も代わってくれる者はなく、十字架という最も大きな苦しみを負って死んで下さったのであります。主イエス御自身が犠牲の羊となって下さったのであります。それは、アブラハムをはじめ、私たち全ての罪ある者の身代わりとなられるためでありました。神様と私たちの間にある深い断層を埋めるためには、イエス・キリストの命の代償が必要であったのです。

4.主の山に備えあり

14節を見ると、アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている、とあります。

アブラハムがイサクを献げた山は2節によれば、モリヤの地にある山です。アブラハムはそこをヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けました。これはアブラハムの信仰告白と言ってよいと思います。アブラハムは神様から与えられた試練を通して、神様がすべてを備えて下さるお方であるとの信仰を獲得できたのです。

このモリヤの山が何処に当たるのかは不明なのですが、ユダヤ人はエルサレムの神殿が置かれた丘をモリヤの山だと信じていたようであります。主イエスはそこで十字架に架かられたのであります。そして、主イエスこそ神が備えて下さった救いとなられました。正に「主の山に備えあり」であります。

結.主の声に聞き従う奇跡

ここまでアブラハムがイサクを献げた物語を読み解いて来て、皆さんは私が最初に挙げた三つの疑問が解けたでしょうか。一つは、なぜ神様がアブラハムに独り子を献げるようなむごい命令を与えられたのかということです。――これは神様がアブラハムに与えられた試練でありました。試練というのは、テストするという意味合いよりも、信仰を鍛えて成長させる目的があるということを、この物語から知ることが出来たのではないでしょうか。試練は神様の恵みの賜物であります。二つ目は、アブラハムがどうして神様の厳しいご命令に従うことが出来たのか、という点であります。――アブラハムには、神様の御意図が見えていません。神様のご命令に従うならどうなるのか、ということも分かりません。以前のアブラハムであれば、そんな馬鹿なことが出来るか、と思ったかもしれません。そんなアブラハムがどうして、黙々と神様のご命令に従ったのでしょうか。それは、アブラハムが狂信的な信仰の持ち主だったからではありませんし、勇気ある立派な信仰の持ち主だったからでもありません。これは神様が起こして下さった奇跡であります。この物語は神様が起こされた試練の物語であり、試練を通してアブラハムとの関係を作り直された物語であります。そしてその御心は、イエス・キリストの救いの御業へとつながっているのであります。そして、三つ目の疑問は、私たちにはアブラハムのようなことが出来るのだろうか、という点であります。神様は私たちをも救いへと導こうとしておられます。神様との関係をより堅くしようとされています。だからアブラハムのように、試練を与えられるのであります。試練といっても色々なケースがあります。病気や経済的なことや人間関係のことなどで苦難に遭遇するというのも試練であります。苦難ばかりが試練ではありません。アブラハムの場合も神様の恵みを受けて満ち足りた状態の中で、息子を献げるという命令を与えられました。神様は私たちが最も大切だと考えているものを献げるという形で試練を与えられることがあるということです。この世的にはさして不自由のない状態の中で、<あなたが大切にしているものを献げなさい>と命じられるのであります。私たちは自分がこれまでに造り上げてきた生活や生き方を手放したくありません。私たちの生活を確保した上で、プラスアルファとして信仰も得たい、教会生活からも何物かを得たいと考えがちであります。しかし、神様はそれをお許しになりません。一番大事にしている物を神様に献げることを求められます。すべてのこの世の生活や喜びに先立って、神様を礼拝することを求められます。アブラハムの物語で知らされることはそのような神様のご意志であります。そんなことは、私たちにはとても出来ないように思えます。しかし、アブラハムの物語で知らされたもう一つのことは、その困難と思えることを神様はさせて下さるということであります。完璧な信仰など献げることが出来ないような者をも、神様が引き上げて下さるということであります。神様は私たちの罪深さを知っておられます。だからこそイエス・キリストをお遣わし下さったのであります。その神様の愛と導きはアブラハムにも注がれましたし、私たちにも注いで下さっているのであります。神様は、今日もアブラハムの物語を通して、私たちに御言葉を賜わり、救いの奇跡を起そうとしておられるのです。そして、私たちを永遠の平安と喜びへと導きいれて下さるのであります。

祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!

アブラハムの物語を通して、私たちをあなたの厳しい問いかけと御命令の前に立たせて下さいました。私たちの中には、それに応えることのできる勇気も素直な信仰も乏しいことを告白せざるを得ません。どうか、主イエス・キリストにあって私たちのような者をも受け入れて下さい。どうか、あなたの強い招きの御手によって、御言葉に聴き従う者へと変えられ、全てをあなたに委ねる者とならせて下さい。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年9月5日  山本 清牧師 

 聖  書:創世記22:1-19
 説教題:「神が備えてくださる」
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