「主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」                       (創世記1814
 神はアブラハムに満天の星空を仰がせて、「あなたの子孫はこのようになる」と言われたが、最初の約束から既に24年も経過するのに、子供が授からないため、妻のサラは女奴隷ハガルを夫の側女として、長男を得ていた(1634)。またアブラハムも「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」と言って笑った(1717)。
 そうした中で、ある日三人の旅人がアブラハムを訪れる。アブラハムははじめ彼らが神の使いだとは気づかず、当時の習慣に従って、懇ろにもてなしたが、彼らは、「あなたの妻のサラはどこにいますか」と言い出す。彼らはサラをも神の御計画に用いるために、信じる者にしようとされているのだ。三人の一人は、わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう」と断言する。しかし、この言葉を天幕の陰で聞いていたサラは、ひそかに笑った。二人は高齢に達しており、もはや子供を産むことなど不可能としか考えられなかったからである。
 なぜ神は、もっと早く子供を授けられなかったのか。それは、人間的な希望が失われた先でも、神の約束を信じて望みを託すことが出来るようになるためである。神は人間の常識や努力が果てるところまで、希望の実現を引き延ばすことによって、私たちの危うい信仰を、より強靭なものへと養い育てられるのである。神の言葉を信じられないで笑ったアブラハムとサラに対して、主は標記のように言われた。「主に不可能なことがあろうか」というのは、全能の神ならその筈だという一般論ではない。神は人の不信仰にも妨げられることなく、約束を果たされ、救いを実現なさる。
 私たちは、神が主イエスを世に遣わされて、人間の不信仰が極まる只中で、救いの御業を成し遂げられたことを知っている。神は、私たちの心の内にあるひそかな笑いを知った上で、私たちの不信仰を超えて、救いの喜びの笑いへと導き出そうとしておられるのである。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2010年8月29日  山本 清牧師 

 聖  書:創世記18:1−15
 説教題:「神に不可能はない」
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