序.約束を受けながらも

先々週から、創世記に記されているアブラハムの物語から御言葉を聴いております。12章でアブラハムは、神様から、「祝福の源となるように」との召しを受けて、住み慣れたハランを出発しました。75歳の時でありました。その後、13章で、神様は「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」と言われ、先週聴いた15章では、アブラハムに満天の星空を仰がせて、「あなたの子孫はこのようになる」と言われ、アブラハムはそれを信じたということが書かれていました。このように、神様はアブラハムに、多くの子孫が与えられて祝福を受けるとの約束を繰返し述べられていたのですが、今日の18章の場面は、最初の約束以来、既に24年が経過しております。アブラハムは99歳になり、妻のサラは89歳であります。常識的には、もう子供の出来る可能性が消えた年代であります。先週も聴きましたように、アブラハムは既に子供が出来ない場合のことを考えて、僕のエリエゼルに家を継がせることを考えていました。その後、16章の初めには、妻のサラが子供を授からないので、サラの女奴隷であるハガルによって子供を産んでもらうことを申し出て、アブラハムに最初の子イシュマエルが産まれたことが書かれています。しかし、17章に入りますと、神様は、割礼というしるしをもってアブラハムと契約をされた上で、「わたしはサラを祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう」17:15)と約束されたのであります。1717節を見ますと、その時、アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」と書かれています。アブラハムには神様のおっしゃることを、まともに受け取ることが出来なかったのであります。それで、アブラハムは、「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように」(18)と申しましたが、神様は19節で、「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする」と述べられたのであります。イサクという名前は「彼は笑う」という意味があります。アブラハムは信じられずに、ひそかに笑いましたが、神様はそんなアブラハムの心の内を見透すように、こんな名前を付けるように命じられるのです。

さて、今日与えられております18章の1節から15節までの箇所で、神様がアブラハムに与えられた中心的なメッセージは14節にある「主に不可能なことがあろうか」という言葉であります。そしてこの言葉は、今日、私たちも神様から聴かされている問いであり、メッセージであります。私たちはアブラハムと共に、この言葉の前に立たされているのであります。アブラハムは神様を信頼しています。信頼しているからこそ、行く先も分からずハランを旅立ちました。しかし、今、サラとの間に子供が産まれるという具体的なことについては、信じられないでいます。そのアブラハムにこの言葉が語られます。私たちもまた、自分たちの具体的な問題を念頭に置きつつ、この言葉を聴かなければなりません。<神様は全知全能なお方であるから、不可能なことはない筈だ>、というような一般論ではなくて、私たちが現実に直面している問題について信仰が揺れ動く中で、この言葉をお語りになるのであります。今日は、18章の記事を通して、この言葉に向き合いたいと思います。

1.神の訪れ

18章の冒頭には、こう書かれています。主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。――神様はこれまでも、しばしばアブラハムに現れておられます。けれども今回の神様の現れ方は、いつもとは違っていました。2節にありますように、今回は三人の旅人の姿をとってアブラハムを訪問されました。神様の現れ方は時により様々です。夢や幻で現れる時があります。天使を通してメッセージを伝えられる時があります。この場合の三人も天使であったと理解することも出来ます(19章では三人のうちの二人を「御使い」と記している)。あるいは特定の人間を用いて現れる時があります。この場合もそうであったのかもしれません。いずれにしても、今回は、すぐに神様とは分からない姿でアブラハムを訪れられました。

暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていました。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていました。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏します(12)。そして、「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください」(3)と言って、水や食べ物も用意することを申し出て、三人の旅人を引き止めます。見ず知らずの旅人をこのようにして迎え入れるのは、自然環境の厳しいこの地域では大切な義務と考えられていました。ですから、彼は当然のこととして三人を引き止めたのです。その人たちは「では、お言葉どおりにしましょう」(5)と言います。そこでアブラハムはサラに命じて、十二分の量のパン菓子をこしらえさせ(6)、自分は子牛を選んで、召し使いに料理をさせ、彼らが食べる間は、そばに立って給仕の役までして、懇ろにもてなしました(78)。――ここまでのところ、アブラハムは神様が訪れて下さったとは気付いていないようです。ヘブライ人への手紙では、この出来を教訓として、こんな風に述べています。「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」(132)と。また、先日の講壇交換で松浦先生が説教で取り上げられた箇所(マタイ253146)では、主イエスが、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し・・・」とおっしゃった後、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言われたのでありました。

これらから教えられることは、神様は何時、どういう姿で私たちを訪問されるか分からないのだから、誰と接する時も、そこに神様が訪れておられるのかもしれない、あるいは主イエスが来ておられるとの思いで接しなければならないということであります。ところが私たちはどうでしょうか。礼拝は主イエスが訪れて下さることがはっきりしている場であります。主イエスが私たちに御言葉を語るために、わざわざ来て下さる場であります。私たちは主イエスをお迎えするに相応しく、おもてなししているのでしょうか。自分の都合で、「今日はお相手出来ません」というようなことを平気でしてしまっていることがないでしょうか。礼拝のことを英語で「サービス」と言います。その意味は、第一には神様が私たちのために恵みのサービス(奉仕)をして下さる場であるということでありますが、同時に、私たちの側が、訪れて下さる主のために最大のサービス(奉仕)をする場であるということであります。アブラハムは知らずして、神様にサービス(礼拝)を捧げていたのであります。

2.常識を超えた約束

この時、神様は目的なしにアブラハムを訪れられたのではありませんでした。冒頭にもお話ししましたように、アブラハムは神様の約束を信じつつも、神様が妻のサラに子供が出来ると言われたことが信じられなくて、笑って、心の中で「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」と言ってしまいました。このアブラハムを神様は放っておかれないでしょう。アブラハムだけではありません。サラも子供を授かることを既に諦めて、自分の女奴隷をアブラハムの側女(そばめ)として提供しました。しかし、神様はサラをも神様の御計画に用いようとされています。そうであれば、サラをも信じさせる必要があります。神様はこの二人を信じる者とするために、わざわざ訪れられたのであります。

9節を見ると、三人の旅人はアブラハムにこう尋ねています。「あなたの妻のサラはどこにいますか」と。かつて神様は、罪を犯して園の木の間に隠れていたアダムに「どこにいるのか」と呼びかけられました。また、弟を殺したカインにも、「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と問われました。そして今、アブラハムに「あなたの妻のサラはどこにいますか」とお尋ねになります。神様は不信仰な者を信じる者とするために、罪深い者を悔い改めさせるために、わざわざ訪れて、御言葉を与えようとされるのであります。

アブラハムが「はい、天幕の中におります」と答えると、三人の一人が言いました。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」――これまでは、ただ「サラに子供が生まれる」という約束でしたが、ここでは、はっきりと何時生まれるかが告げられています。25年も待って来ましたが、やっと神様の約束が実現するというのです。おそらくアブラハムは、この言葉を聞いて、三人が神様の使いであるか、あるいはその一人は神様ご自身であるか、いずれにしても神様の御意志が語られたことを知ったことでしょう。しかし、1年後に起こると言われていることは、人間の常識を遥かに超えたこと、あり得ないこと、不可能なことであります。それゆえに常識では信じられなくて当然のことです。二人がもっと若い時に「来年の今ごろ男の子が産まれる」と言われたのであれば、彼らは喜んで信じることができたでしょう。しかし、神様は、もう常識では信じられないような年代になるのを待っておられたかのように、この時になってから、このように言われたのであります。

ところがサラは、すぐ後ろの天幕の入り口で、この言葉を聞いていて、ひそかに笑ったのであります。常識からすれば、笑うのは当然です。11,12節に書いてあるように、アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていました。もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのであります。神様はアブラハムとサラに子供が出来る可能性が全くなくなる時を待っておられたのであります。なぜ、神様はもっと早く二人に子供をお授けにならなかったのでしょうか。それは、人間には不可能としか考えられなくて、希望を持てなくなった状況でも、神様を信じることが出来るためであります。

私たちも、神様が私たちの望みを叶えて下さることを期待します。その望みが御心に反する場合は、叶えられることはありません。しかし、神様の御心に適っていると思われるような望みであっても、すぐには叶えられないことがあります。例えば、神様はこの伝道所をここに建てて下さいました。これは、神様がここを宣教の拠点として用いられて、やがてここに独立の教会をお建てになることを計画しておられると、受け取ることが出来ます。私たちはその望みを与えられています。しかし、あと2年で伝道所開設から20年になろうとしていますが、独立への道のりはまだまだ遠いように見えます。神様はなぜもっとスピード感をもって、事を進めて下さらないのか。いや、この時代状況の中では、独立の教会へと発展するのは不可能と考えた方が常識的だとさえ思ってしまいます。しかし、このアブラハムとサラの息子の場合のように、神様がはっきりと約束されていたことすら、すぐには叶えられないのであります。それは、人間的な希望が失われた先でも、神様の約束を信じて望みを託すことが出来るためであります。幸いこの伝道所には、将来につながりそうな多くの希望の芽が与えられています。それが早く開花しないかと、私たちはあせってしまいがちであります。しかし、神様はむしろ、人間の目に希望が消えたかのように見える時まで、希望の実現を控えておられることがある、ということであります。それは、私たちが信仰をもって待ち望むことが出来るようになるためであります。

このことは、伝道のことに限らず、私たちの日常生活の中の問題の解決や希望の実現についても言えることであります。神様は人間の常識や努力が果てるところまで、希望の実現を引き延ばされることによって、私たちの危うい信仰を、より強靭なものへと養い育てようとされることがあるということであります。

3.主に不可能なことがあろうか

さて、サラは天幕の中でひそかに笑ったのでありますが、神様はそれを見逃されません。そして1314節にあるように、主はアブラハムに言われます。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」――ここでは主なる神様が主語になっています。三人の旅人のうちの一人が神様であったということなのか、あるいは天使として主なる神様の言葉を伝えたことをこういう表現で記しているのか、いずれにしても、神様はサラのひそかな笑いを表に出されます。15節を見ると、サラは恐ろしくなり、打ち消して、「わたしは笑いませんでした」と言って誤魔化そうとします。しかし、神様に嘘は通じません。主はすぐに、「いや、あなたは確かに笑った」と言われます。こうして隠れていたサラは神様の前に引き出されました。けれどもこれは、神様がサラを責め立てて、審くためではありません。サラが神様の約束を信じることが出来なかったことをはっきりとさせ、それを認めさせた上で、後になって、サラに子供が生まれた時に、自分の不信仰の罪にも拘わらず、神様は自分を救って下さるお方であることが分かるためでした。

神様はアブラハムに「主に不可能なことがあろうか」と問いかけられました。この問いは陰で聞いていたサラにも投げかけられた問いであります。そしてこの問いは今日、私たちにも向けられています。これは、ただ一般的に「主に不可能なことはない」、「神様は全能である」ということではありません。サラは神様の約束を信じることが出来なかったのであります。けれども神様はその不信仰にも妨げられることなく、約束を果たされ、救いを実現なさるということであります。神様は、たとえ私たちが信じられなかったとしても、私たちをお救いになるという御計画は成し遂げて下さるということであります。

主イエスの母マリアは、最初天使からイエス様の誕生を知らされた時、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(ルカ134)と言いました。常識では考えられないことだったからです。けれども天使は言いました。「神にできないことは何一つない。」(ルカ137)これを聞いてマリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えました。マリアも自分の不信仰を知らされて、神様の御計画に自分を委ねる信仰を与えられました。サラもここで、自分の不信仰をも見抜いておられる神様の前に、自分を委ねることが出来るようにされて、やがて子供が生まれて、神様の大きな永遠の救いを確信出来る者とされたのではないでしょうか。こうして、サラは疑いの笑いではなくて、喜びの笑いへと導かれことになるのであります。

結.キリストによる笑い

私たちは、神様の救いの御計画の確かさを、アブラハムやサラよりもはっきりと知らされています。それは、主イエス・キリストが人々の罪のために十字架に架けられて殺されましたが、罪に勝利して復活なさって、救いを成し遂げて下さったことを知らされているからであります。神様の救いの御計画は、人間の不信仰の罪によって挫折したり、救いの届かない人間が残るということはありません。私たちは自分の未熟さや不信仰を嘆く必要はないし、自分は罪人だからと言って、神様の前に出ることを躊躇したり、神様の救いを拒否することは出来ないのであります。私たちに必要なことは、神様が自分のひそかな笑いを知っておられて、それにも拘わらず私たちを喜びの笑いへと導き出そうとしておられることを、主イエス・キリストの御業のゆえに受け入れることだけであります。神様は今日も、この礼拝の場である天幕を訪れて下さって、私たちを、ひそかに笑う不信仰で頑固な者から、主イエス・キリストにある永遠の救いを信じて笑う者へと造り変えて下さるのであります。主に不可能なことはありません。

お祈りいたします。

祈  り

天にいましながら、主イエス・キリストにあって私たちを訪れて下さる神様!

罪深い私たちを憐れんで下さって、今日も御言葉によって私たちを救いへと導いて下さいますことを、感謝いたします。

どうか、「来年の今ごろ」と言わず、主の日ごとに私たちを訪れて下さい。私たちもまた、あなたの御前に出ることを喜び、あなたの与えて下さる笑いに与るものとならせて下さい。

どうか、天幕の陰に隠れている者たちを、ひそかな笑いから解放して、御前に引き出して下さい。どのように頑なな者であっても、またどのような妨げがあっても、あなたにとっては、救い出すことは不可能ではないことを信じます。どうか、あなたの御計画に従って、すべての者を救い出して下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年8月29日  山本 清牧師 

 聖  書:創世記18:1-15
 説教題:「神に不可能はない」
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