「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」                      (創世記155
 アブラハムは神から、「大いなる国民」にし、「祝福の源」となるとの約束を受けていたが、10年以上経っても子供が与えられず、信仰の危機にあった。その時に主の言葉が臨んで、「恐れるな、アブラハムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいだろう」と言って下さった。しかし、アブラハムは子供が出来ないので、当時の習慣に従って、家の僕が跡を継ぐことにしていた。神の約束を信じることが出来ず、自分で解決を図っていたのだ。
 これに対して神は、「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と明言され、アブラハムを外に連れ出して、標記のように言われた。アブラハムは満天の星空を見て、神の大きな創造の力に圧倒されて、神の可能性に向けて心が大きく開かれた(イザヤ4025,26参照)。こうして、アブラハムは再び主を信じた(原語は「アーメン」)。主はそれを彼の「義」(神との正しい関係)と認められた。パウロはこのことをもとに、信仰義認論を展開しているが(ロ−マ41325)、私たちは主イエス・キリストの十字架と復活を信じることによって「義」と認められるのである。神は、アブラハムに対して、満天の星空を仰がせることによって、信仰を取り戻させられたが、私たちには、主イエス・キリストの十字架を仰がせることによって(ガラテヤ31)信仰を甦らせて下さるのである。
 私たちも人生の中で、期待した結果が得られないと、神との関係を見失いがちになるが、神は礼拝において御言葉によって私たちに出会って下さり、イエス・キリストをお示し下さって、十字架の赦しと愛の力によって、関係を揺るぎないものへと回復して下さるのである。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2010年8月22日  山本 清牧師 

 聖  書:創世記15:1−7
 説教題:「義と認められた信仰」
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