序.救いの歴史の幕開け

7月から創世記を取り上げて来ましたが、今日与えられた箇所からはアブラム(後にアブラハムと改める)が登場いたします。ここから旧約聖書に記された神と人とのドラマが大きく展開いたします。神様の救いの歴史の幕開けと言ってよいのであります。

創世記は神様が天地と人間を創造された物語から始まりました。その後すぐ、人間が誘惑に負けて罪を犯してしまったことが書かれ、続いて、説教では取り上げませんでしたがカインによる最初の殺人事件のことが書かれています。こうして、人類に悪が広がったことに神様が心を痛めて決意なさったのが洪水物語でありました。これは堕落した人間を洪水によって滅ぼすということでありましたが、その中でノアの一家だけを救うという物語で、私たちはこれを神様の救いの御意思の表われだと受け止めました。しかし人間はその後も罪を重ねることになるのでありまして、先週は講壇交換でしたので、創世記が取り上げられませんでしたが、カリキュラムではバベルの塔の物語が取り上げられることになっています。この物語については、5月に行われた大会応援伝道の合同修養会で講師の青木先生が詳しく取り上げて下さいましたので、参加された方は強く印象に残っていると思いますが、人々がバベルの塔を建てようとしたのは、死と滅びを自分たちが協力しあうことによって克服しようとすることであって、神様の救いとは全く逆のことをしようとしたもので、これに対して神様は言葉を混乱させることによって、互いに通じ合わなくされたのでありました。以上が創世記の11章までに書かれていた物語のあらすじで、これは神様の救いの歴史の序幕のようなものであります。12章からは「信仰の父」と呼ばれるアブラハムが登場して、神の民イスラエルの歴史が始まるのでありますが、それが神様の本格的な救いの歴史の始まりであるとも言えるのであります。

今日の121節から9節までの箇所は、小見出しに「アブラムの召命と移住」とありますように、アブラハムが人類への神様の祝福の源として召され、神様の言葉に従って生まれ故郷を離れて、旅立つ場面であります。なぜアブラハムが「信仰の父」と言われるのでしょうか。それは「信仰の民イスラエルの父」というだけの意味ではなくて、私たちの信仰の原点がここにあるということであります。ですから、アブラハムの召しは私たちの召しにつながっているし、アブラハムの旅立ちは私たちの旅立ちのモデルなのであります。ですから、今日はアブラハムの召命と移住の物語を聴くことによって、私たち自身が神様から新しい使命を与えられて旅立つ日でもあるのであります。アブラハムは、神様から2節にあるように、「祝福の源となるように」との使命と約束を与えられました。それは私たちに与えられる使命と約束でもあります。今日はその御言葉を神様から聴こうとしているのであります。

1.わたしが示す地に行きなさい――神の命令

さて、12章に入る直前に、「テラの系図」という小見出しがついた段落がありますが、そこにはアブラハムの生い立ちのことが記されています。テラというのはアブラハムの父の名前で、一家はカルデア(ユーフラテス川の下流域)のウルに住んでおりました。(巻末地図1「聖書の古代世界」参照)テラはアブラハムたちを連れて、ウルを出発してカナン地方に向かうのであります。なぜウルを出たのか、その理由は何も書いてありません。ウルは都市でありましたから、人口が集中して、住みにくくなったのかもしれません。古代においてこの地方で半遊牧民族がこのような移動を行うことはよくあったようであります。しかし聖書は、このテラの移動が、これに続くアブラハムの移住につながったという意味で、神様の御計画がここから始まっていたということを言いたいのではないでしょうか。テラたちはユーフラテス川の上流のハランまで来ると、そこに留まりました。テラはそこで二百五年の生涯を終えることになるのですが、その前に、アブラハムが七十五歳になった時、(アブラハムはテラが七十歳の時に生まれたので、計算ではテラが百四十五歳の時)にアブラハムに神様の召命が下るのであります。既にハランで相当長く生活していたと考えられますので、ハランはアブラハムにとっては第二の故郷とも言うべき住み慣れた場所であったと思われます。しかし、神様はそこで、121節にあるように、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と命じられたのであります。

これはアブラハムにとって辛い命令であったと思われます。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れ」と訳されているところは、やや曖昧になっていますが、口語訳では「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ」となっていました。国も親族も家も棄てることを命じられたのであります。これまでの自分を支えてきた、慣れ親しんだものから離れることを命じられたのであります。しかも、神様はどういうところへ行くかをお示しにならず、「わたしが示す地に行きなさい」と言われるだけであります。1131節にテラたちが「カナン地方に向かった」と書かれていましたし、125節にもカナン地方に向かって出発したとありますから、南の方向に向かうという指示はあったのかもしれませんが、具体的な行き先は述べられていませんし、アブラハムはカナンに着いてからも、ネゲブ地方やエジプトへも行くことになるのですから、最終的な行き先を知らされないままに、ただ「わたしが示す地に行きなさい」と言われ、神様を信頼して、これまでの生活を棄てて、旅立つことを命じられたのであります。

ただここで確認しておかなければならないのは、神様は多くの民俗や家族の中で、アブラハムという特定の人間をお選びになったということであります。神様はこれから、大きな救いの御計画を進めようとされています。その計画を進めるために、テラという家族の中のアブラハムという一人の人間を選んで、救いの歴史を始められるのであります。そのことは、私たちが神様に用いられる場合も同様だということであります。神様は御自分の御計画を進められるために、他ではなく「私」を選んで用い給うのであります。その時、「私」がどう用いられるのか、どこへ向かって進めて下さるのか、行く先は必ずしも明瞭に示されるわけではありません。しかし、アブラハムにおいて始められた救いの歴史の続きを、この「私」に受け継がせられるのであります。

2.祝福の源となる――神の約束

ところで神様は、行く先を示されませんでしたが、大きな祝福を約束されました。それが23節に述べられています。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」――ここでまず神様は「大いなる国民にする」ということと、「あなたの名を高める」という二つのことを約束されています。「大いなる国民」というのは、後日、アブラハムに「大地の砂粒のように数えきれない子孫を与える」(1316)とか、天の星を仰がせて、「あなたの子孫はこのようになる」(155)と言われたことに通じますし、更にイスラエル民族のダビデ、ソロモンの時代の繁栄を思わせる言葉でありますが、単にそうした特定の氏族や民俗のことではなくて、神に選ばれた信仰の民のことを指していると受け止めた方がよいと思います。「名を高める」というのも同様で、アブラハムの名を高めるというのは、アブラハムの氏族や民俗が有名になるとか、繁栄するということではなくて、アブラハムに続く信仰共同体の名が高められるということであり、今で言うならキリスト教会の名が高められるという約束であります。

そしてここには「祝福」という言葉が5回も出て来ますが、アブラハムがその「祝福の源となる」と言われています。原文には「源」という言葉はなくて、単純に「あなたは祝福となる」という文章ですが、その意味するところは、アブラハムに与えられる祝福が、他の人々や民俗にも及んで行くということであることは、3節を読むと分かります。アブラハムを祝福する人を神様は祝福され、アブラハムを呪う者は神様を呪うことになるのであります。アブラハムを祝福することによって自分も祝福を受けるのです。信仰の民を祝福するなら、神様の祝福がその人にあるのです。こうして、地上の氏族はすべて、アブラハムとそれを受け継ぐ信仰の共同体によって祝福に入るのです。ですから、アブラハムは祝福の源と言ってよいわけです。

3.アブラハムの旅立ち――召された者の応答

このような神様の祝福の約束を聞いたアブラハムは、4節にあるように、主の言葉に従って旅立った、のであります。聖書はこのことを事もなげに一言で述べておりますけれども、そこには何の不安も悩みもなかったということではないでしょう。色々な理由を挙げて、断ることも出来ました。神様は決して強制されるわけではありません。自由な決断を求められます。彼は既に七十五歳でありました。今と年齢の数え方が違うのかもしれませんし、現代人より壮健で寿命が長かったのかもしれませんが、将来に夢を託す若者の年齢でなかったことは間違いないでしょう。ですから、「もっと若ければ」という言い訳も出来たかもしれません。しかし、アブラハムはきっぱりと決断して、行動に移したのであります。これはアブラハムが無鉄砲で冒険好きな人間だったから出来たことなのでしょうか。あるいは、ハランでの生活に何か大きな不満があったから出来た決断だったのでしょうか。そうではないでしょう。アブラハムは神様の言葉を信頼したのであります。自分の考えや状況判断よりも神様のお言葉の方が確かであると思ったからであります。信仰による決断であります。

このようなアブラハムの行動は周囲の人から見れば、理解できないことであったかもしれません。親しい友人は彼を引き留めようと忠告をしたかもしれません。アブラハムの判断を批判して、陰口を囁く人がいたかもしれません。ノアが箱舟を造り出した時もそうであったと思われます。しかし、神様の言葉に従うということは、世間的な常識や損得勘定とは違います。神様の召しへの応答であります。その応答が、人間の知恵では計り知ることの出来ない神様の大きな御計画に組み込まれることにつながるのです。

新約聖書のヘブライ人への手紙には、アブラハムのことがこう記されています。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発した」(ヘブライ118)と。この無名であった一人の小さな人間の信仰による出発が、全人類の救いという大きな祝福に至る救いの歴史の始まりとなったのであります。ヘブライ人への手紙11章では、この後、イスラエルの歴史の中で繰り広げられた信仰による行動が列挙されていますが、その最も典型的なのが、モーセに率いられたイスラエルの民のエジプトからの出発であります。こう記しています。「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました」と。アブラハムの旅立ちは出エジプトの出来事の先駆けであったのです。

4.祭壇を築く――約束の地での礼拝

さて、5節以下ですが、アブラハムは妻のサライと甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携えて、ハランを出発し、カナン地方へ向かいます。カナンに入ると、シケムの聖所、モレの樫の木まで来ました。そこはカナン人の聖所であります。モレの樫の木はいわゆる神木で、そこで占いや託宣がなされた場所であります。カナン人の宗教は豊穣を祈願するバアル信仰であります。アブラハムの出身地であるウルも、アブラハムが出発したハランの地も異教の地でありましたが、今到着したカナンもまた異教の民が住んでいました。しかし、7節によれば、そこに主なる神が現れて、「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われたのであります。アブラハムはさっそくそこに祭壇を築いて礼拝をいたしました。ノアも箱舟を出るとまず祭壇を築いて礼拝を捧げましたが、アブラハムも、住む場所や宿舎を建設したり、家畜小屋を造る前に、まず祭壇を築いて礼拝したのであります。礼拝は生活の添え物ではありません。見知らぬ地での安心を得るための手段でもありません。御言葉に従って旅をして来たアブラハムは、ここでも御言葉に仕えるために礼拝したのであります。

しかし、そこは定住の地ではなかったようであります。8節以下には、そこからベテルの東の山へ移り、そこでも祭壇を築いて、主の御名を呼んだ、と書かれています。9節では、アブラハムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移ったと記されていまして、結局、カナンの地への定住が実現するのは、アブラハムが死んでずっと後のことであります。しかし、このカナンの地で、イスラエルの民の礼拝が行われるようになり、やがて救いの歴史の頂点となるイエス・キリストの御業が行われることになるのであります。アブラハムが捧げた礼拝は、その先駆けとなるものでありました。

5.祝福の成就――イエス・キリスト

3節に書かれていた、アブラハムによって地上のすべての氏族が祝福に入るという約束は、アブラハムの子孫であるイエス・キリストによって成就されることになります。主イエスが私たち人類のすべての罪を負って十字架にお架かりになることによって、罪が赦され、私たちは永遠の生命を受けることになります。これこそ神様が私たちのために用意して下さった最高の祝福であります。

先ほど使徒言行録3章の11節以下を朗読いたしました。そこにはペトロが神殿で説教した内容が記録されています。ペトロはイエス・キリストの十字架と復活の御業について述べたあと、2526節でこう言っております。「あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」―この「僕」とは正にイエス・キリストであります。人間が協力してバベルの塔を建設することによって滅びを免れるのではなくて、主イエスにおいて神がなさった偉大な業を信じることによって、私たちは命の祝福に与るのであります。

また、パウロもガラテヤの信徒への手紙37節以下(p345)で、こう言っております。「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。」――アブラハムはただ神様の言葉を信じる信仰によって行動したために、祝福の源となることが出来たのでした。

結.私たちの旅立ち――小さなアブラハムとして

さて、皆さん!アブラハムが祝福の約束を受けて旅立った今日の記事は、私たちへの神様の祝福の約束と旅立ちの命令でもあります。神様は私たち一人一人をも、アブラハムに続く「小さなアブラハム」として召しておられるのであります。イエス・キリストの十字架と復活のあと、ペンテコステに聖霊が降って教会が出来ました。しかし、神様がイエス・キリストにおいて成就された救いの御業を知らない人、信じていない人はまだ大勢残っています。そのために神様は、こうして教会の礼拝を通して新しい神の民を召しておられるのであります。今、アブラハムから始まった救いの歴史を聞かされて祝福を受けた者たちが、更にその祝福を他の人たちに分け与えなければ、祝福の連鎖は途切れてしまうのであります。神様は今、私たちを召して、祝福を広める大切な役目をお与えになっているのであります。私たちもまた、アブラハムの子として、小さな祝福の源となるように召されているのであります。

それには、アブラハムがしたように、私たちの旅立ちが必要であります。私たちの旅立ちとは、まだ信仰を告白していない人であれば、様々なしがらみを振り切って、信仰告白に踏み切ることでありましょう。これまで通りの生活を続けていて何の支障もないように思われるかもしれません。しかし、それでは、神様の永遠の祝福から漏れてしまうのであります。旅立つことによって、自ら祝福を受けるとともに、その周りの人や子孫が神様の祝福に入れられるのであります。すでに信仰を告白して教会員になっておられる方々も、日ごとに新たな旅立ちが必要であります。私たちは誰も、ハランの生活に安住してしまいがちであります。カナンに移り住んだつもりでいても、そこにも異教の民がいっぱいおります。神様を礼拝することよりも、この世の住まいを造ることや、この世の仕事に精を出すことや、自分の楽しみに耽ることが優先されてしまい勝ちであります。しかし、アブラハムがカナンに着いてまず礼拝したように、私たちも礼拝することによって、神様の祝福を受けると共に、小さな祝福の源となるために、新しい旅立ちを始めなければなりません。それは、自分の普段の生活を祝福の連鎖に役立つように変えるということでありましょう。まずは、生活の中で祈りの時間を持つということかもしれません。聖書を開いて御言葉に向き合う時を持つということかもしれません。家族や身の回りの者を教会の礼拝に誘うということかもしれません。神様は私たちを小さなアブラハムとして祝福の小さな源になるように、小さな旅立ちを求めておられます。しかしそれは決して小さなことではありません。神様が必ず大きく用いて下さって、大きな祝福をもたらせて下さるに違いありません。
 お祈りしましょう。

祈  り

アブラハムの神、イエス・キリストの父なる神様!

今日も私たちをアブラハムの祝福を受け継ぐ者として、ここに召し出して下さり、御言葉によって、新しい旅立ちを促して下さいましたことを感謝いたします。

私たちの信仰は揺れ勝ちで、この世のことに引きずられ勝ちでございますが、どうか罪からの救いと永遠の命への道を歩み出すことが出来ますように、そして、私たちの周りや子孫にあなたの祝福を繋ぐことが出来ますように、絶えず御言葉によって導いて下さい。どうか、旅立ちを迷っている方々、あなたの招きから遠退いている方々にあなたが聖霊において働いて下さいますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年8月15日  山本 清牧師 

 聖  書:創世記12:1-9
 説教題:「祝福の源となる」
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