序.誰にも忍び寄る誘惑

先週は、創世記2章によって、人間がどのようなものとして造られたのかということを聴きました。人間は「土の塵」という価値のないものから造られましたが、神にかたどって造られ、神の霊の息を吹き込まれて生きる者とされました。それは、神さまの御言葉を聴いたり、神様に祈ったりして、神さまと交わりを持ちながら生きる者とされたということでありました。そして、人間は必要なすべてのものを備えられた「エデンの園」に住むことを許され、互いに助け合うパートナーも与えられました。

ところが3章では、最初の人間アダムとエバが、蛇の誘惑によって、罪を犯してしまったことが書かれています。罪を犯すということは、神様によって造られたときの、神様との良い関係が崩れるということであります。これは、人間が造られたときの本来の姿を失うということですから、極めて重大な出来事であります。けれども、そこで起こったことは、太古の昔に一度だけ起こった特別な出来事ではありません。最初の人間アダムとエバ以来、同様の出来事は起こって来ましたし、私たちの生活の中でも、気がついているかどうかは別にして、しょっちゅう起こっている出来事であります。どのように立派に見える人でも、敬虔な信仰者でも犯してしまう過ちです。と言っても、私たちのところに蛇がやって来て誘惑するわけではありません。はっきりサタンの回し者だと分かる形で誘惑されるのではありません。色々な人や様々な機会が私たちを神様に背かせようとします。むしろ私たちを愛して下さっている人や親しい間柄の人たちが、悪気はなくても、私たちを神様から引き離す役割をしてしまうことがあります。教会の中にさえ、蛇の罠が仕掛けられることがあります。今日は、アダムとエバが受けた誘惑を通して、私たちに忍び寄る罪の誘惑の実態を教えられたいと思います。

1.自由と禁止の戒め

ところで、神様は、先週に学んだように、最初の人間アダムに一つの戒めを与えられました。2章の16,17節に、こう書かれていました。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」――エデンの園には、9節に書かれていたように、「見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木」が生えていて、それらの木の実を自由に取って食べることが許されていました。しかし、それに付随して、園の中央に命の木と共に生えていた「善悪の知識の木」からは取って食べることが禁じられていたのです。これは神様の意地悪ではありません。神様と人間との正しい関係は、人間が神様のおっしゃることを信用して、それを守ることによって保たれます。アダムは、「なぜ、その木を食べてはいけないのですか」などと、質問することもしませんでした。アダムは、神様がおっしゃる通りにしようと思っていました。これが神様と人間との正しい関係です。お造りになった方と造られた私たちの自然な関係です。私たちは神様の深いお考えを知ることは出来ませんし、知る必要もないのです。神様が与えて下さった環境の中で、神様を信頼し、神様のお言葉を守って生きておればよいのです。それが人間の幸せであります。

2.御言葉への疑い

さて、3章に入って、1節の初めにこう書かれています。主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。ここに蛇が登場して、女(エバ)に語りかけます。なぜここで蛇が登場するのでしょうか。蛇というのは大抵の人が気味悪く思う動物です。陰険な感じがします。それで、創世記の物語の中で、人間を誘惑するという悪い役目を担わされたのかもしれません。けれども、ここに書かれているように、蛇も神様が造られた生き物です。しかし、神様が悪いものを造られる筈がありません。「野の生き物のうちで、最も賢い」とも書かれています。神様がその賢い蛇を使って人間を誘惑されたということでしょうか。それもおかしいです。神様が人間に罪を犯させる筈がありません。では、悪魔が蛇の姿をとって人間を誘惑したということでしょうか。確かに、悪魔がイエス様を誘惑したことは新約聖書に書かれています。先ほど読んでいただいたヨハネの黙示録の129節の中に、「年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの」という言葉もあります。しかし、ここでは悪魔には一言も触れていませんし、悪魔は神様に造られた被造物ではありませんから、蛇のことを「神に造られた野の生き物」と書かれていることと矛盾します。また、蛇が人間と言葉を交わしたというのも理解しがたいことです。これは女の心の中での対話をこういう形で表現したものだと解釈することも出来ますが、このあと1415節で蛇に対して神様が呪いのことばを述べておられることと矛盾します。こうしたことについて神学者たちも明解な説明をしておりません。こういうわけで、蛇の正体について断定的なことは言えませんが、ここに記されたことだけから言えることは、神様に造られた何ものか(それがここでは蛇という形で表現されています)が、神様の御意思とは別に、人間に対して何らかの方法でコミュニケーションをとったということであります。その神様に造られた何ものかが、初めから人間を神様から引き離そうとしているものであると分かっていれば警戒をするでしょう。しかし、蛇のように気味の悪い姿をとっているとは限りません。この場合の女も、警戒せずに蛇の言葉を聞いているようです。このことは、私たちも気をつけねばならないということです。最初にも述べましたように、誘惑者はいつも、私たちの味方であるかのような姿や態度をとって、私たちに近づくのであります。私たちの親しい者や信頼をおいている人であることが多いのであります。誘惑者であることを見抜くのは、大変難しいのであります。だからと言って、私たちは誘惑された責任を、相手に押し付けることは出来ません。自分が誘惑の言葉に心を動かされたことを、蛇の所為にしたり、背後にいる悪魔の働きの所為にすることは出来ません。神様に背いて罪を犯したのは、自分自身であります。ですから、私たちはここの蛇の言葉を参考に、誘惑者の言葉に気を付けなければなりません。

そこで、蛇と女の対話を見て行きましょう。まず1節の後半で、蛇は女に言いました。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」――神様はそんなことを言っておられません。神様はまず、「園のすべての木から取って食べなさい」と言っておられます。その恵みの言葉を省いて、後半の「ただし」以下の禁止の部分にのみ心を向けさせて、神様の恵みに対する疑いを起こさせようとしています。蛇は女に同情するかのような言い方で、神様の言葉をあいまいにして、女の心を捉えようとしているのです。これは私たちもひっかかりやすい誘惑です。私たちは神様から多くの恵みを受けているのに、少し不満に思っている側面だけを拡大して、神様の恵みを忘れてしまったり、神様は自分をなぜこんな目に遭わせるのかと、神様の愛に対する疑いを抱いてしまうことがないでしょうか。私たちが他人に対して慰めや同情の言葉をかける時も注意しなくてはなりません。相手の状況に同情して「大変でしょう」とか「つらいでしょうね」と言って、苦しみを分かつことが慰めになることもあるかもしれませんが、それだけでは神様の恵みを見失わせることになるかもしれません。つらい状況の中にも神様の計らいや恵みがある筈です。そこを見失っては、私たちが蛇と同じ誘惑する者になってしまいます。

蛇の問いかけに対して、女はこう答えています。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」この答えは、ほぼ正しいことを言っているように聞こえますが、よく見ると微妙にずれています。「園のすべての木から取って食べなさい」という祝福に満ちたニュアンスは消されてしまっています。また、「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない」と言っているが、実際には、園の中央には、食べてもよい「命の木」も生えていたのに、それを落としてしまっています。「善悪の知識の木からは、食べてはいけない」と言われていた、と正確に言うべきでした。女の心の中では、園の中央に禁じられた木があることで、恵みの木である「命の木」のことが忘れられてしまっています。そして食べることを禁じられた木があることの不満が心を占めてしまっています。更に、女は「触れてもいけない」などと、神様が言ってもおられないことをつけ加えています。神様は厳しいお方だという思いが、触れることさえ禁じておられると、拡大解釈してしまっているのであります。私たちは神様のお言葉に勝手に付け加えることは許されていません。こういうことは神様がお嫌いになるだろうとか、こういうことは神様が喜ばれるに違いないと勝手に付け加えることは、かえって神様の御心から離れる結果をもたらすのです。最後に、「死んではいけないから」と言っておりますが、これも神様のおっしゃったことと違います。神様の言い方はそんな弱い表現ではなくて、「食べると必ず死ぬ」とおっしゃったのです。女は神様の言葉のうち、厳しい部分は割り引いて聞いてしまっているのであります。私たちも聖書の言葉を聞く時に、よくしてしまうことであります。

3.賢くなるように唆

続いて4節の蛇の言葉を見ましょう。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ。」――蛇は「決して死ぬことはない」と断言しています。女が神様の言葉を割り引いて聞きたがっている心の内を見逃さずに、蛇は神様が言われたことを否定しています。蛇の言ったことは全くの嘘ではありません。確かに、このあとで木の実を食べた二人は即死することはありませんでした。しかし、楽園を追われ、命の木からは遠ざけられ、結局、人は死を免れることの出来ない者となってしまうのであります。けれども蛇はそんなことを言いません。そして女が喜ぶ魅力的な言葉を語るのであります。「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」と言います。神のようになるということは、人間にとって魅力的なことです。人間の心にある本能的な願いであるといってもよいでしょう。善悪を知るということ自体は悪いことではありません。善悪を弁えない人間は困りものです。しかし、善悪についての決定的な判断をされるのは神様であって、私たちが勝手に判断すると間違いを犯します。私たちは一つ一つ神様に祈りつつ、なすべきことを教えられて生きるべきであります。神様のように自分で判断出来るようになりたいと思うことは、神様を神様とも思わない思い上がりです。「神はご存知なのだ」という蛇の言葉は、<神様は人間がそれを食べると善悪を知るものになることが分かっているので、それをさせないように出し惜しみして、いつまでも自分の下に縛りつけておこうとしておられるのだ>、と思わせようとしているのです。言い換えると、<あなたはいつまでも神様の支配のもとで神様に縛られて生きるのではなくて、神様から自由になって、自分の判断で生きるようにすればよいではないか>という誘惑であります。

この言葉を聞いて、女が「善悪の知識の木」見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していたのです。私たちは目から多くの情報を受け取ることが出来ますが、それだけに私たちは目から得る感覚的な情報によって心を惑わされがちであります。女はこれまでにもその木を見ていたでしょうが、神様の言葉に従って見ている間は、食べたいとも思わなかったのでしょうが、蛇の言葉を聞いてから改めて見直すと、魅力的に見えてしまいました。神様の言葉に背くことが平気になってしまいました。そして遂に、女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べました。男の方も、「そんなことをして良いの?」と問い質すことはしませんでした。二人は互いに助け合って神様の御言葉に立ち帰るべきでありました。しかし、魅力的な蛇の言葉に心を奪われて、神様に背いてしまったのであります。この世には、私たちの目を惹きつけ、心を奪うものがいっぱいあって、私たちを神様の言葉に聞き従うことから引き離そうとします。しかし神様の言葉に従わないことは、「必ず死ぬ」と言われたように、命を失うことにつながっているということを割引なしに聞くべきなのであります。

4.目が開けて

二人はその木の実を食べると、確かに二人の目は開けました。これまで知らなかったことに気づきました。しかしそれは、期待していたようなこととは全然違うことでした。彼らが知ったことは、自分たちが裸であることでした。そして二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとしました。それまで裸であったということは、神様に対しても人間同士の間でも、何も隠すことがなかったということです。そこには信頼し合う真実な交わりがありました。しかし今、自分たちに隠すべきことがあることを知りました。自分たちが有りのままを見られるのが恥ずかしい者であることに気づいたのです。こうして神様との間の関係にも、人間同士の関係にも、亀裂が入りました。このすぐあとには、神様が近づかれると、木の間に身を隠さなければならなかったことが書かれています。神様との良い関係が壊れてしまったのです。これが罪というものであります。こうして、アダム以来、すべての人間が神様に背いて罪を犯すものになってしまったのです。

5.神にそむかなかったアダム

いや、すべての人間ではありません。ただ独りだけ、神様に背かなかった人がいます。神様は、人間との間の壊れた関係を修復するために、独り子のイエス・キリストを人間の世に遣わされました。そして、人間が犯したすべての罪をこのイエス・キリストに背負わせて十字架に架けることにされました。この神様の御心に対して、主イエスは背くことなく、ただ神様の御言葉に従って、十字架への道を歩まれました。主イエスは荒野でサタンの誘惑を受けられました。それは三つの誘惑でした。一つは神の子であるなら、石をパンに変えるという力を振るってみよ、というものであり、一つは神殿の屋根から飛び降りて、神様が助けて下さるかどうか試してみよ、というものであり、一つはサタンを拝むなら全世界を支配させる、というものでありました。主イエスはすべての誘惑に対して、聖書に書かれている神様の言葉でもって拒否されました。また、十字架にお架かりになる前には、エデンの園で神様に祈られて、十字架に架かることが神様の御心であるかどうかを確かめられて、御心に従う決心をなさいました。こうしてアダムもエバも誰も出来なかった、神様の言葉に従うということを、主イエスはただ独りなさいました。こうして、私たちの背きの罪が赦される道が開かれたのです。

先週も読みましたが、ローマの信徒への手紙512節以下(新p280)をもう一度読みたいと思います。ここには、アダムによって罪が入り込んで、すべての人が死の支配を受けることになったけれども、新しいアダムであるイエス・キリストによってすべての人に無罪の判決が下されることになり、命を得ることとされたことが語られています。

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。

しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。

                (ローマ51219

結.罪より救い出し給え

私たちは神様に背くばかりで、自分で神様との関係を修復することが出来ません。しかし、主イエスは私たちに主の祈りを教えて下さいました。その中で、「われらを試みにあわせず、罪より救いだしたまえ」と祈るよう教えて下さっています。この祈りを絶やさず祈っている限り、神様は、様々な誘惑の中にあっても、それに惑わされないように、そして、罪ある私たちをも、イエス・キリストの十字架の故に、正しい者と認めて、神様との良い関係を取り戻すようにして下さるのであります。
感謝して、祈りましょう。

祈  り

恵み深い父なる神様!

アダムとエバの姿をもって、私たちの罪深い姿をお示し下さってありがとうございます。あなたの御言葉に信頼して従わず、自分の知恵を求める愚かな者であることを知らされ、懺悔いたします。

そのような者のために、イエス・キリストをお遣わし下さり、あなたとの関係を取り戻す道を備えて下さったことを、感謝いたします。

どうか、日々の歩みの中で、御言葉に聴き、あなたの御心を仰ぐ時を多く備えて下さい。どうか、あなたとの関係が絶たれることなく、命を失うことがないように、様々な誘惑から私たちを守って下さい。「われらを試みにあわせず、罪より救いだし給え」。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年7月18日  山本 清牧師 

 聖  書:創世記3:1-7
 説教題:「神にそむく人間」
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