序.二つの創造物語

先週は創世記の最初の部分から、「初めに、神は天地を創造された」という御言葉と、第1日目に神様が「光あれ」と言われて、光を創造されたことを聞きました。創世記第1章には、それから6日間にわたって、創造の御業をなさったことが書かれてあって、第2章に入ると、4節前半までの箇所に、第7日目に創造の業を離れて安息なさったことが書かれているのであります。

今日は24節から終わりまでの箇所がテキストとして与えられているのでありますが、ここにも創造の物語が書かれています。これは、1章に書かれていた創造物語の続きではありません。内容を注意深く見ると、矛盾しているようにさえ見えるのであります。例えば、第1章では、人間は第6日の最後に創られるのですが、第2章では、5節に、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった、と書かれたあとで、7節に至って人間が創られたことが書かれていて、19節に、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、とあって、人間と動植物の創られた順序が逆転しているようにも受け取れます。また、127節では、男と女に創造された、と人間の男女の創造がまとめて簡潔に記されていますが、2章では、男から女が造られた過程が詳しく述べられています。学者の研究によれば、もともと2種類の文書があって、1章の方は、先週にも言いましたように、紀元前6~5世紀に書かれたものですが、2章の方は、それよりも古く、紀元前10世紀頃(ダビデ、ソロモンの時代)から伝承されていたものではないかと言われていて、それが後世の編集段階で合体されたと考えられています。なぜ二つを合体したかというと、それぞれの視点が違うので、両方を読むことによって天地創造の意味を立体的に深く知ることが出来るからだと考えられます。1章の方は、神様の視点から述べられていて、天地万物が神様の栄光を現すために創造されたことを語ろうとしているのに対して、2章の方は、人間の視点から、人間と神様や他の被造物との関係、人間同士の関係について語ろうとしていると言えます。ですから2章の方は創造の順序を示す意図はないので、矛盾はないということです。

今日は2章を中心に、神様が人間をどのような目的と御意思をもって造られたのか、ということを聴いて行きたいと思います。

 1.人間が創造された意味
 1-1.神にかたどって

2章に入る前に、まず1章の26,27節に書かれている、人間の創造の部分を見ておきたいと思います。そこでは、「我々(神様)にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言われていて、人間が神様の似姿に創造されたことが書かれています。その意味は、目に見える形が神様に似ているということではなくて、神様と交わりを持てる者として造られたという意味です。具体的に言えば、神様の御言葉を聴いたり、祈ったりすることによって、神様の御心を聴いたり、教えられたり、叱られたり、誤ったり、お願いしたり、感謝することが出来る者として造られたということであります。もし私たちが、そういうことが出来ていなくて、神様との交わりが持てていないとするなら、それは神様が造って下さった意図からはずれた生き方をしている、ということになります。それが聖書で言う「罪」ということです。罪というのは、悪いことをしたり、神様に反抗することも、もちろん含まれますが、そうでなくても、神様と向き合わないで、神様との関係が薄れたり、途絶えたりしていることが、人間をお造りになった神様の意図と違うので、問題なのです。神様との生き生きとした関係を保たれていることが、造られた意図に相応しい人間らしいあり方だと言うことが出来ます。

1-2.土の塵で

さて、2章に入って7節から、人間の創造について述べられています。7節の前半には、主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、とあります。1章では人間は神にかたどって創造されたと書いてあって、神様と交わりを持てる存在として造られたことを知らされたのですが、ここでは、土の塵を材料にして、まるで粘土細工でもするようにして造られたと述べています。塵というのは、普通は掃いて棄てるようなものです。神様はそんな粗末な材料を使って、人間を造って下さったと言うのです。これは、人間は元々立派なものではなくて、土の塵のように価値のないものだけれど、ただ神様の恵みによって、神様と語り合い、交わることの出来る者とされた、ということを表しています。後に、アブラハムが神様にお願いをする場面で、「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます」(創世記1827)と言っております。このように、私たちは神様に注文をつけたりする資格のない者ですが、神様にかたどって造られたことによって、お祈りを出来る関係にしていただいていることを感謝しなければなりません。

土の塵から造られたということで、もう一つ知らなければならないことがあります。それは、人間は土と結びついた存在であるということであります。15節を見ますと、「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」とあります。地において生活し、地から恵みを受けて生きるようにされているのです。そして、319節を見ますと、こう書かれています。「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」と。土から恵みを受けて生きる人間は、最後に土の塵に返るのであります。

1-3.命の息を吹き入れられて

次に、7節後半で、その鼻に命の息を吹き入れられた、人はこうして生きる者となった、と記しています。人間は土の塵で造られた存在ではありますが、そこに神様によって命の息を吹き入れられたのであります。「息」という語は「霊」とも訳されます。神様の霊が吹き込まれて、生きる者とされたのであります。これは、人間は神様によってこそ生かされる、ということを表しています。人間は自分の中に命があって、その命で生きているのではないのです。神様から吹き入れられた命で生きているのです。その命は神様の霊の命ですから、ただ肉体的に生きているだけでは、人間として生きているとは言えないでしょう。絶えず神様と関わりを持って、神様の霊の命を吹き込んでいただくことによって、人間として真っ当な生き方が出来るということでありましょう。1章では人間は神にかたどって創造されたことが記されていましたが、表現は違いますが、ここでも、人間は神によって生かされ、神との関わりを持ちつつ生きるものであることが示されています。

1-4.エデンの園に

続いて聖書は8節で、主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた、と記します。

神様は人間をお造りになり、命を与えられただけでなく、人間が住む特別な場所を用意されました。それがエデンの園です。パラダイスまたは楽園とも言われます。そこには、9節に書かれているように、主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせておられました。生活するのに、足りないものは何もありません。日々、神様の恵みを感謝して、喜びに満たされながら、神様との交わりを続けることが出来る環境を備えられたのであります。

とは言っても、ただ何もしないで、遊んで暮らすのではありませんでした。15節から17節にかけて、エデンの園における人間の生活のあり方が語られています。

まず第一は15節に書かれています。主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。――エデンの園にはおいしい実をつけた色々な木が生えていて、足りないものは何もありませんでしたが、だからと言って、ただ怠けて遊んでおればよいのでなくて、エデンの園を耕し、守るという仕事が与えられました。「耕す」と訳されている言葉は「働く」とか「仕える」という意味もあります。人間にとって、働かずに遊んで暮らすというのは幸せなことではありません。神様が備えられた園を神様の役に立つ場所として活用するために、汗して働くところにこそ、喜びがあるのです。「耕す」という意味の英語は「カルティベート」と言いますが、それは「カルチャー」という「文化」を表す言葉につながっています。人間は働きながら、文化を創り出す役割を担わされているのです。そこに生き甲斐があります。これが人間の生活のあり方の第一の要点です。

第二は16節に書かれています。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。」――9節には、園には「食べるに良いものをもたらすあらゆる木」が生えていたと書かれていましたが、それらを自由に選んで、好きなだけ食べることが出来ました。人間にはそういう自由が与えられている、ということです。神様と関わりを持ちながら生きる生活というのは、あれはしてはいけない、これをしなさいと、神様によって何から何までがんじがらめに縛られる、自由のない生活ではなくて、人間が自由意思を持って、モノや道を選びとって行く、自由な生活をすることが許されているのです。これが人間の生活のあり方の第二の要点です。

第三は17節に書かれています。「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」――9節の後半には、「園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた」と書かれていましたが、そのうち、善悪の知識の木だけは食べてはならないという、禁止の命令であります。16節で学びましたように、人間には自由意志が与えられているのですが、ただ一つ禁じられているのは、善悪の知識の木の実を食べることでありました。善悪を弁えるということは、決して悪いことではありません。しかし、善悪の決定的な基準を持っているのは神様であって、人間が善悪の知識の木を食べて、自分で何でも判断出来ると思ってしまうと間違いを起こします。人間が神様を差し置いて勝手に判断すると、神様の御心とはずれてしまって、結局は自滅するしかないのです。人間は日々神様に祈りつつ、神様から道を示されて生きることによって、滅びから免れるのです。ですから、この禁止命令を与えられていることは、自由を制限されているというよりも、命を保つために神様から与えられた恵みであります。

1-5.男と女に

次に聖書は、18節以下で、人間が男と女に造られた意味について語っています。127節では、簡単に「男と女に創造された」と書かれていますが、この2章では、初めに男のアダムが造られた後、18節にあるように、神様が「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われて、21節以下にあるように、人()あばら骨の一部を抜き取って、そのあばら骨で女を造り上げられたと語っています。

人間の周りには色々な獣や鳥たちが造られていました。それらを遊び相手にしたり、それらを使って仕事をすることも出来ました。しかし、動物と相談したり、心を合わせて協力し合うということは出来ません。対等の相手にはなり得ません。神様の御心は、「人が独りでいるのは良くない」ということです。人間は、他者との出会いと交わりの中で生きるのが良い、と考えられたのです。そこで神様は対等の立場で助け合う相手を造ろうとされました。「彼に合う助ける者」と訳されていますが、その意味は「向かい合って助ける者」「差し向かいの助け手」ということです。だから、女は男の補助者という意味ではありません。互いに対等であります。人間と動物の間柄とは違って、本質的には同じものです。23節で「これこそ。わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と言っているように、男と女の関係は互いにかけがいのない、パートナーなのであります。このような男と女の関係は、結婚によって夫婦となることで最高の形で成就するものであります。24節で、こう言われています。こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。このように、聖書は結婚ということを神様の創造の御業の中に位置づけております。しかし、男女の関係というのは、家庭における夫婦関係だけではありません。社会の色々な領域で、また、教会においても、男女の協力ということが欠かせません。エデンの園で、神様の御心に沿って生きるためには、男と女が助け合って働くということが必要なのであります。男と女は本質的には同じ人間であって、差別はありませんが、性格や賜物の違いはあって、だからこそ、お互いの存在が必要なのであります。神様は初めからそのように男と女を造られたということに、計り知れない奥義があるように思います。

こうして人間は、神様が備えて下さったエデンの園において、神様の恵みを感謝しつつ、互いに助け合いながら、園を耕し管理する務めを果たしつつ、神様とのよい関係を続ける筈でありました。

2.エデンの園を追われて

ところが、今の現実の人間社会を見るとどうでしょうか。私たちの身の回りの現状はどうでしょうか。ここに描かれているようなエデンの園は夢の世界のように思われるのではないでしょうか。ここには単なる理想の姿が描かれているにすぎなくて、現実は、もはや取り戻すことが出来ないところまで来てしまっているように見えます。人間は欲望のおもむくままに、動物や植物を獲って食べたり、使ったりして、神様がお造りになった自然を破壊しています。人間は思い上がって、自分たちの知恵と力で世界を好きなように改造し、支配できると考えているようであります。人間の間では、助け合うどころか、自分のことだけを考えて、奪い合い争っていて、力の弱い人たちが苦しい目に遭わされています。そのような現状は、決して私たちとは無関係ではありません。私たちもそうなった責任の一端を担っていることを認めなければなりません。

どうしてそのようになってしまったのか、その経緯については、次週の礼拝で3章の蛇の誘惑の箇所から学ぶことになりますが、蛇の誘惑に負けて、神様の言いつけに背いて、園の中央にある「善悪の知識の木」の実をとって食べた結果、3章の終わりでは、最初の男と女であるアダムとエバはエデンの園を追い出されることになります。それ以来、神様が備えられたエデンの園での恵まれた生活が出来なくなってしまいました。神様との良好な関係が崩れてしまいました。そうして、人間は、神様が初めに人間をどのような者として造られたのか、どんな役目を与えられたのか、ということを忘れて、神様の御心に反する、罪に満ちた歩みを続けることになってしまうのであります。――そのようになってしまった人間を、神様は放っておかれるのでしょうか。

結.最後のアダム

神様はそのような人間を、決してそのままにはしておかれません。神様は人間をお造りになった時の最初の御計画を完成するために、人間が犯した過ちを清算しようとなさいます。そこで人間の世界にお送りになったのが、イエス・キリストであります。主イエスは、神様が最初に人間をお造りになった時にお考えになっていた通り、完全に神様の御心に従われました。そして、神様の御心に背いている全ての人間の罪を背負って、十字架にお架かりになりました。そのようにして、罪深い人間が、その昔エデンの園で喜んで働けたように、神様の恵みを受けて、感謝のうちに喜んで生きることが出来るようにして下さったのです。

このことについて、パウロはローマの信徒への手紙の中で、アダムとイエス・キリストを対照しながら述べている箇所があります。ローマの信徒への手紙51219(新p280)をお開き下さい。

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。

しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。

このように、イエス・キリストは新しいアダムとして、私たちをエデンの園に戻す役割を果たして下さったのであります。

もう一個所、今日の聖書朗読で読まれたコリントの信徒への手紙一の15章のうち、45節以下を読みます。ここでも最初の人アダムと最後のアダムとしてのキリストが対照的に語られています。

「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。49まで)

この最後のアダムであるイエス・キリストを信じるならば、私たちも、神様との良い関係を取り戻すことが出来ますし、神様のために良い働きをすることも出来ますし、人間同士が争いあうこともなく、互いに助け合って平和に暮らすことも出来るのです。

神様はその昔、命の息を吹き込んで、人間を生きる者になさいました。今はどうでしょうか。神様は、礼拝において、私たちに御言葉を吹き込んで、本当の命に生きることが出来る者にして下さいます。神様は今も、こうして人間を新しく造り続けておられるのであります。教会は、現代におけるエデンの園であります。ここでは、神様と人間との本来の関係が取り戻されて、感謝と喜びに満ちた新しい生き方が始まるのであります。

祈ります。

祈  り

世界と人間を創造された父なる神様!御名を賛美いたします。

すばらしいエデンの園を用意して下さったのに、御心に背いて、喜ばしい生活から離れることの多いものですが、今日また、私たちを呼び集めて下さって、御言葉によって新しい命を吹き込んで下さったことを感謝いたします。

どうか、備えられたエデンの園において、そこを耕す働きをする者として、私たちを用いて下さい。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年7月11日  山本 清牧師 

 聖  書:創世記2:4-25
 説教題:「命を吹き入れられる」
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