初めに、神は天地を創造された。・・・
 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。                  (創世記11,3
 科学的な宇宙生成論の探求が進んでも、世界と人間が造られた意味や目的を解明することはできず、偶然によって誕生したとしか言えない。それに対して聖書は、天地(すべてのもの)の創造の主役は神であると語る。
 神が創造の業を始められる前は、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」(2)、そこに「神の霊」が働いた。第一日目の「光」をはじめとして、すべてのものを言葉によって創造された。それは、神の御意思・人格・愛を込めて創られたことを意味する。そして、創られたものを見て「良しとされた」。神の創造の業に失敗や不都合はなく、満足されたのである。
 では、神が創造された世界に、「混沌」や「闇」や「深淵」はないのだろうか。聖書が書かれた頃(紀元前6〜5世紀)のイスラエルは捕囚中あるいは捕囚後の混迷の中にあって、正に「混沌」や「闇」や「深淵」は目の前の現実であった。それらは、現代の世界においても、私たちの日々の生活の中でも無縁ではない。それは、神の創造の業が失敗であったからではなくて、神の言葉に聞かない人間の罪による。その闇の現実の中で、聖書の記者は、神がかつての創造の時だけでなく、今も御言葉によって、創造の業を行い続けておられることを確信している。私たちは幸い、イエス・キリストを知っている。神は神の言(ことば)であるイエス・キリスト(ヨハネ11)をこの世に遣わすことによって、十字架と復活の御業によって、人間の罪という最も深い闇を克服し、復活の命の光を輝かという、新しい創造の業を行われた。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に働いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」(Uコリント46)私たちが礼拝において、神の言葉を聴くとき、創造の御業は、イエス・キリストにあって、今も、私たちの間で、私たちの中で行われているのである。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2010年7月4日  山本 清牧師 

 聖  書:創世記1:1−5
 説教題:「初めに、神は」
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