序.初めに、神は

今月から10月の終わりまでは、日曜学校のカリキュラムに従って、創世記の主な箇所を取り上げて参ります。今日は、先ほど読みました、旧約聖書の最初の箇所ですが、初めに、神は天地を創造された、という言葉で始まっております。

米村千鶴恵さんは、聖書を開いて出会った、この最初の言葉が信仰へ導かれるきっかけになったと話しておられます。若い時から聖書に親しんでいる方は、ここに書かれていることは当然のこととして、何の抵抗もなしに読み過ごしてしまうかもしれませんが、注意深く読むと、大変なことが書かれているように思えます。しかし、同時に、疑問も湧いて来る言葉であります。

聖書は神の言葉であると言われます。しかし、書いたのは人間であります。でも、創世記を誰が書いたのか分かりません。いくつかの文書が編集されたと考えられていますが、その元になったのは、イスラエル民族に語り伝えられていた伝承です。それが、こういう形で纏められたのは、紀元前6~5世紀の頃と考えられています。創世記に登場するアブラハムとかヤコブという人物が生きていたのは、紀元前2000頃と考えられていますから、書かれた時代より1000年以上も前のことです。まして、創世記の初めに書いてある天地創造の物語は、人間が誰も見たわけではありません。当たり前のことですが、ここに書かれているのは、目撃証言ではありません。信仰から出た証言です。一種の信仰の告白です。そうでありますから、科学の世界で探求されている宇宙生成論や進化論や考古学的な証拠と照らし合わせると、矛盾があるように見えます。しかし、聖書の創造物語は、宇宙の起源や生成の過程を科学的に説明しようとしているのではありませんから、矛盾があっても驚くことはありません。それでは、聖書に書かれていることは神話のようなもので、あまり意味がないかというと、そうではありません。科学的な探求では絶対に分からないことがあります。それは、宇宙と人間が造られ、生かされている意味と目的です。科学的な真理の探究によって色々なことが解明されて来ましたが、なぜそうなったのかということについては、偶然の結果としか答えられません。それに対して聖書は、はっきりと言います。「初めに、神は天地を創造された。」世界と人間は自然界の活動の中で偶然に誕生したのではなく、神様が御意思と責任をもって造られた、と言っているのであります。この言葉は、このあとに書かれている神様の創造の御業の全体を要約する重要な言葉です。創造の御業だけではありません。聖書全体・世界の歴史を貫いている言葉でもあります。主役は神様である、という宣言であります。自然の法則が世界を動かしているのではない。他の神々が働いているのでもない。聖書の神こそが世界を創造し、世界を支配しておられるのだ、と言っているのであります。

1.天地を創造された

1節の言葉を、一つずつ、丁寧に見て行きましょう。

「初めに」というのは、物事の開始の時という時間的な初めではなくて、そもそもの根源・基礎を指し示しています。ですから、「初めに」とは、<昔々に>とか、<何億年も昔に>ということではなくて、<根本的・根源的に言えば>というような意味です。

「神は」というところで使われている言葉は「ヤーウエ」という神様の名前ではなくて、「エロヒーム」という普通名詞の複数です。神が複数というのは奇妙な感じがしますが、ヘブル語で尊い者を表現する「尊厳の複数形」と呼ばれるもので、多神教の神々を意味するのではありません。この共同訳では、「神は」と訳されていますが、他の神々とは違うのですから、「神が」と訳した方がよかったのではないかという意見があります。

「天地を」という「天」というのは、天体だけを指すのではなくて、人間には知られない世界、人間の手や理解が及ばない世界のことです。神様がおられる場所も天です。「地」というのは、私たち人間が生活している領域です。ですから、「天地」と言えば、<私たちが知っているものも知らないものも含めた全てのもの>、という意味です。その中には人間も含まれています。私たち自身も含まれているということです。だから、「神様は私自身をも創ってくださった」と言っているのと同じであります。

「創造された」というところに使われているヘブル語は、聖書では神様だけに使われる動詞です。人間が芸術作品を創作したり、新製品を開発するというのとは違うのです。既存の材料を使うのではなくて、無から創造なさるのです。ただ神様の意思と力によって創られたのです。また、神様は過去のある時点に万物を創造されたというだけではなくて、今も、これからも創造者であり続ける、ということであります。神様は最初に創造されて、あとは創造の舞台から退かれて、自然の法則に従って生まれていくようにされた、ということではないのです。神様は今も、新しいものを創り、新しい命を生み出し、新しい出来事を起しておられるのであります。神様は日々、創造の御業を続けておられるのであります。その神様が、今日も私たちに向き合ってくださって、新しいことを起こそうとしておられるのであります。

2.混沌と闇の中に

次に、2節にはこう書かれています。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

ここには天と地のうちの人間が住むことになる「地」が創造される前の状態が述べられています。「混沌」というのは、人や生物が生きられないような荒涼・茫漠とした状態を言っております。

「闇」とは、光の反対です。命が育たない死の世界、何も見えない希望のない状態です。「深淵」とは、底なしの深みです。救いのない絶望の世界です。しかし、そこに「神の霊」が動くのです。「神の霊」とは、「神の風」あるいは「神の息」とも訳される言葉です。神様の御臨在と、神様が与えられる命と力を表現していると考えてよいでしょう。暗闇の死の世界に、神様が働かれるのです。底なしの深淵の上を神様の霊が覆うのです。神様の創造の御業が始まる瞬間であります。神様がすべてを掌握されます。神様が闇も、死も、底なしの深淵も、支配下に置かれます。

ところで、2節に書かれているような「混沌」とか「闇」とか「深淵」というのは、創造の御業以前の状態を述べていると申しました。冒頭で、創世紀は紀元前6~5世紀頃に書かれたと言いましたが、その頃からすれば、創造の御業が行われたのは遥か大昔のことであって、2節で述べられているような状態は既に解消済みである筈であります。そのような大昔のことを何故今更わざわざ書かなければならないのでしょうか。――紀元前6~5世紀と言えば、イスラエルの民の歴史の中で、北王国イスラエルがアッシリアに滅ぼされたあと、南王国ユダもバビロニアによって滅ぼされて、多くの人がバビロンに連れて行かれるという捕囚の時代、または50年以上続いた捕囚から解放されたものの、まだ混沌とした状態の中にあった時代であります。創世記はそういう現実の中で書かれているのであります。ですから、2節に描かれているのは、決して遥か大昔の過ぎ去った状況ではなくて、目の前の現実でもありました。自分たちの状況が混沌であり、闇が覆って光が見えず、底なしの深淵に自分たちが呑み込まれそうになっているのであります。そのような現実は、私たちにとっても決して無関係のことではありません。現代の日本や世界の状況も混沌としています。先に光を見出せない闇の状態は解消されていません。サッカーのワールドカップが南アフリカで行われたということは、あの地域が暗黒の状況から脱け出した証しと言えるのでしょうか。治安状態などの報道を見ると、決してそうではないようであります。私たちの身の回りの状況を見ても、解決の出来ない人間関係や、癒されない病があります。将来に向かって光が見えない状況があります。いつ底なしの深みに落ち込むかもしれないという不安を拭い去ることが出来ません。

そういう現実の中で、聖書は神様が創造の御業を始められたことを語るのであります。「地は混沌であって、闇が深淵の面にある」という目の前の現実の中で、「神の霊が水の面を動いていた」と述べて、神様が働き始められたことを語るのであります。それは、決して太古の神話的な物語ではなくて、今、神様が起こそうとしておられることとして語るのであります。それは単なる願望や夢を語っているのではありません。聖書は長いイスラエルの歴史の中で、神様から聞いてきたこと、経験させられて来たことをもとに、信仰をもって語っているのであります。

3.「光あれ」

3節以下は、神様が6日間にわたってなさった創造の御業を順番に書いているのですが、今日はそのうちの第1日目の御業について聞きます。3節には、こう書かれています。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

神様は最初に、光を創造されました。この光は太陽のことではありません。太陽や月や星が創られるのは第4日目です。それに先立って、光そのものをお創りになられ、闇が覆っていた世界に光を導入されたのであります。光はモノを見えるようにします。光によって命が育ちます。本物とそうでないものを見分けることができるようにします。光によって正しい道を歩む事が出来ます。光は私たちの心を明るくし、私たちに元気を与えてくれます。そんな光を、生物や人間をお創りになる前に創られたのです。

この光を神様はどのようにしてお創りになったのでしょうか。神様は何か光のもとになるものを使って光を造られたのでしょうか。そうではありません。神様が「光あれ」と言われると、光があったのです。言葉によって命令されると、光があったのです。それまで混沌があり、闇が底なしの深淵を覆っていましたが、それは沈黙の世界でした。そこに神の霊が動き始めて、沈黙が破られます。神様が語り始められます。神様が語られるということは、神様が御自分の意思をもって、具体的な行動を起こされるということであります。神様は物言わぬお方ではありません。神様は人間が頭の中で考え出した理念や象徴や理想ではありません。人間が手で造った物言わぬ像でもありません。人格をもってお語りになることによって、事柄を起こされる方であります。このあと6日間にわたって行われる全ての創造の御業は、言葉を持って行われます。言葉には神様の御心・御人格・愛が込められています。私たちは神様の言葉によって、神様を知ることが出来ます。

イスラエルの民は、創造の時の神様の言葉を聞いたわけではありません。しかし、イスラエルの長い歴史の中で、預言者たちによって神様の言葉を与えられつつ、様々な出来事を通して、神様の言葉に信頼することを学んで来ました。そのような御言葉への信頼の中で、旧約聖書が記され、創造の御業も御言葉によって行われたと記すのであります。私たちはイスラエルの民よりももっとはっきりした形で神様の御言葉に触れることが出来ます。それは、私たちがイエス・キリストを知っているからであります。私たちは地上におけるイエス・キリストの数々の御業と御言葉によって、特に十字架と復活の御業によって、神様の御心・愛を知ることが出来ます。ですから、イエス・キリストは神の言葉と言われます。今日の聖書朗読では、創世記と共に、ヨハネによる福音書の最初の部分を合わせて読みました。その冒頭にはこう書かれていました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」この「言」とは、イエス・キリストであります。イエス・キリストが創造の業の時から神と共にあって、創造の御業に参加されたと言っているのです。私たちは神の言葉であるイエス・キリストの十字架と復活の御業を知っておりますから、神の言葉が、闇の中に光をもたらせ、死の世界に命を生み出すことを信じることが出来ます。ヨハネ福音書が14,5節で、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。」と言っているのは、創世記で、神様が「光あれ」と言われた言葉によって、「光があった」と言っているのと同じことであります。

4.良しとされた

4節を見ますと、神は光を見て、良しとされた、とあります。神様がなさった光の創造の業をご覧になって、満足されたのであります。このあと6日間で行われる全ての創造の業を見て、良しとされます。すべて問題なく創造されたということであります。創られた世界に失敗や不具合がないということであります。

それなのになぜ、今なお、混沌があり、闇があるのでしょうか。なぜ、今なお、悪が存在し、病気や事故や災害があり、戦争があり、不幸があるのでしょうか。それは神様の失敗なのではないでしょうか。――そうではありません。創世記は創造の御業を記した後、すぐさま、人間の堕落について語ります。そこは後日取り上げることになりますが、聖書によれば、問題は神様の御業にあるのではなくて、人間の側にあるのです。人間が罪を犯すのです。人間は神様の御業を感謝して受け取らず、神様の御言葉に聞き従うのでなく、自分が与えられた知恵と判断力によって、必要なものを得たり、造り出せると思い上がって、神様の御心に背いてしまうのであります。だからこそ、神様はその後も何度もイスラエルの民に御言葉をお語りにならなければなりませんでしたし、遂には神の言葉である独り子イエス・キリストをお遣わしになって、神様の愛と赦しをお示しにならなければなりませんでした。また、イエス・キリストが天に帰られたあとでも、聖霊を送って、教会を建て、礼拝を通して、神様の御言葉をお伝えになっているのであります。

4節の後半から5節にかけて、こう書かれています。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。

神様が光を創造されたのですが、それでもって闇を一掃されたのではありませんでした。神様は闇を創造されたのではありませんが、闇をも存続されたのであります。闇の存在を認められたのであります。闇自体が悪いものではないのでしょう。しかし、闇は人間の活動を妨げますし、正しいことと悪との区別を見えなくします。なぜ神様は闇を残されたのか、私たちには分かりませんが、私たちは光と闇との両方が存在する世界に生かされることになるのであります。私たちが間違いを犯すのを、闇の所為にすることは出来ません。光も闇も、どちらも私たちに必要なものとして存在させられたのでしょう。

光と闇とは相反するものです。その間には戦いがあります。人間の目には時には闇の方が勢力があるように見えます。光と闇の境が見えにくいことがあります。しかし、神様は光と闇をはっきりと分けられるのであります。「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた」とあります。名前をつけるということは聖書では支配の下に置くということを意味します。神様は光をも闇をも支配されます。けれども光と闇とは対等ではありません。「夕べがあり、朝があった」と語られています。この言葉は1章の創造の記事の中で6回繰り返されます。夕べの後に朝があるという順序に注目しなければなりません。闇のあとに必ず光があるのです。闇の領域は限定されるのであります。光が闇よりも優位に置かれます。闇が光を凌駕することはありません。闇で終わることがないのであります。光が闇に勝つのであります。

結.キリストによって今も

最後に、もう一度、私たちが今、神様の創造の御業を聴く意味について考えてみたいと思います。聖書はただ、私たちの知らない太古に起こったことを、神話のように語っているのではありません。イスラエルの民が捕囚ないしは捕囚後の混沌の中で、深い闇に覆われているような現実の中で、これらの言葉を与えられたように、私たちもまた、現代の混沌の中で、光が見えにくい闇のような現実の中で、これらの言葉を聴くのであります。

人間は、何時の時代も、自分たちの考えと知恵によって必要なものを造り出したし、造り出せると思っています。自分の力で人生を築き上げ、世の中を豊かで明るくして行けると、思い上がっています。しかし、現実は、その思い上がりが悪を生み、争いを起こし、世の中を暗くしています。

その中で聖書は、「初めに、神は天地を創造された」と語って、世界を創造し、それを動かしているのは神様であり、神様の御心が全てを支配していることを語ります。従って、混沌は克服され、闇に光が射し込むのであります。人間の悪は滅ぼされて、神様の御心が進められると告げるのであります。

このことを、私たちは幸いなことに、イスラエルの民よりも一層明瞭に聴くことが出来ます。それは、神の言葉であるイエス・キリストが来て下さったからであります。そのことを先ほど、ヨハネによる福音書の冒頭の言葉によって聴きました。ヨハネ福音書は14節でこう告げていました。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、人間の罪という最も深い闇が、神様の側から克服されて、朝の光、復活の命の光が輝き始めた、と告げているのであります。

光を創造された神様は、闇に覆われた世界に光をもたらされると共に、私たちの心の闇にも光を投じて、神様の栄光を仰ぐことが出来るようにして下さいました。コリントの信徒への手紙二46節(新p329)では、こう言われています。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に働いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」――光を創造された神様は、今も私たちの心の闇に福音の光を注ぎ込み、神様の栄光の御業を見ることが出来るようにして下さっているのであります。

更に、エフェソの信徒への手紙58節(新p357)では、こう述べられています。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」――驚くべきことに、神様は私たちを闇の中から救い出して下さるばかりではなく、闇の子であるはずの私たちが、光の子となる、いや、光となる、と言われているのであります。

こうして、礼拝において神の言葉が語られるとき、創造の御業は、イエス・キリストにあって、今も私たちの間で、また私たち中で行われているのであります。
祈りましょう。

祈  り

初めに天地を創造し、闇の中に光を輝かし給うた、父なる神様!御名を賛美いたします。

今日もまた、この礼拝において、御言葉によって、私たちに光を注ぎ、私たちを御心にかなう者へと創り変える、新しい創造の御業を行って下さったことを感謝いたします。

どうか、私たちをあなたの御計画に従って用いて下さい。私たちの日々の生活も、新しく創り変えて下さい。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年7月4日  山本 清牧師 

 聖  書:創世記1:1-5
 説教題:「初めに、神は」
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