序.苦境の中で
 私たち個人の人生の歩みにおいても、あるいは教会の歩みにおいても、なかなか思い通りには行かないことが多いものであります。私たちの人生において、自分自身や家族が、病気や事故や災害に見舞われるとか、仕事で行き詰るとか、人間関係が破局を迎えるとかいうことで、人生の目算が狂わされることがあります。また、一生懸命に努力しているのに、一向に報われないで、苦境に立たされることがあります。教会の伝道においても、様々な手段を試みて呼びかけるのだけれども、一向に手応えがない、せっかく繋がっていた人も、色々な事情で来なくなってしまう、牧師不足の中で、無牧を経験しなければならないといった事態も起こりかねない。そうした苦境に陥った時に、神様は何故、すぐ手を差し伸べて下さらないのか、どうして道を開いて下さらないのか、ひょっとして神様は、この世やサタンの力を打ち負かすことが出来ないのではないか、神様など本当におられるのだろうか、人間が神様を勝手に造り出しているだけなのではないだろうか、・・・などといった疑いの思いが私たちの心を捕えることがあります。教会に期待を持って来られた求道者の方々が、来られなくなってしまうのも、教会に来ても確かな手応えを掴むことが出来なかったり、教会の人々の様子を見ても、必ずしも恵まれた状態ではないのを見て、神様なんて、当てに出来そうにない、と躓いてしまうのかもしれません。
 先週の礼拝では、パウロが、エルサレムで身柄を拘束されることや死ぬことさえも覚悟して、敢然とエルサレムに向かう旅を続けた場面を学んだのでありますが、エルサレムに着いてどうなったかと言うと、エルサレムの教会の人々には会うことが出来て、異邦人教会から集めた献金を、困っているユダヤ人たちに届けるという使命は一応達せられたのでありますが、イエス様を信じることに反対するユダヤ人たちからは、反発を受けて、誤解もあって、遂に捕えられて、殺されそうになるのですが、エルサレムの治安維持を行なっているローマの兵隊に保護されて、取調べを受けることになるのであります。ユダヤの最高法院が召集されて、パウロはそこに出て弁明をさせられたので、大祭司を前にして、堂々と弁明をしたのですが、死者の復活のことを語ったために、反って騒ぎが大きくなって、兵営で保護されます。ところがパウロに反発するユダヤ人たちはパウロ暗殺の陰謀をたくらみます。そのことが発覚したので、パウロはローマ兵の駐屯地であるカイサリアに護送されます。そこで、大祭司たちはローマ総督フェリクスに訴えて、裁判が行われることになるのであります。
 パウロは、イエス様が十字架の待っているエルサレムに入って行かれたのと同様に、苦難が予想されるエルサレムに入りました。それは、イエス様が十字架の死を乗り越えて復活されたように、パウロも、たとえ身柄の拘束や死が待っていたとしても、主イエスの復活を証しすることが出来ると信じていたのでありますが、果たしてどうなったのか。――今日の25章では、結局パウロがローマ皇帝に上訴することになるのでありますが、今日は、その前後の箇所を含めて見ながら、神様がパウロを通して教会の歩みをどのように導いて行かれたかを学ぶことによって、私たちが様々な困難や迷いの中にある時に、何を信じ、何を目指したらよいのかということを、聴き取りたいと思うのであります。

1.権力者たちに翻弄されつつも
総督フェリクスの前での裁判の様子は24章に書かれているのですが、大祭司たちの告発に対して、パウロは堂々と無実の弁明をするとともに、復活の希望について証しをいたします。パウロに何ら不正を見出すことは出来ないのでありますが、フェリクスは判決を下さず、裁判を延期するのであります。フェリクスはパウロから金をもらおうとする下心があったことが24章の終わりの方に書いてあります。もちろんパウロがそんなことに応じる筈はありません。そんなわけで、優柔不断のフェリクスは、自分の任期の二年の間、結論を出すことなく、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいたのであります。
 この二年間の監禁生活の中で、さすがのパウロも、<もはや、自分の伝道活動もここまでか>という挫折感を味わい、<なぜ、神様はこのような苦しみをお与えになるのか>、<なぜ、もっと力を振るって下さらないのか>という思いになったかもしれません。しかし、神様はパウロのことを忘れておられるのではありません。
 二年が経過して、総督がフェリクスからフェストゥスという人に交代しました。ここからが25章ですが、この人は有能な人であったようで、物事をテキパキと処理いたしました。着任して三日たつと行動を開始いたします。ローマ総督の駐在地であるカイサリアからエルサレムに上って、ユダヤのお歴々に就任の挨拶に行きます。すると、祭司長やユダヤ人の主だった人々は、早速パウロのことを持ち出して、エルサレムへ送り返すように訴えるのであります。これは、その途中で殺そうという陰謀でありました。しかし、フェストゥスは逆に、「一緒に(カイサリアに)下って行って、告発すればよいではないか」と言います。これは、ユダヤ人たちの陰謀に気付いたからではなくて、政治的な駆け引きの中で、自分の権威を立てようとしただけでありましょうが、そのことで、パウロは殺害を免れるのであります。神様はこのような世俗的な駆け引きをさえ用いて、パウロを守られるのであります。ここにも神様の不思議な御手を覚えることが出来ます。しかし、神様は、実はもっと先の、大きなことを考えておられます。

2.浮かび上がる真実
 フェストゥスは八日ないし十日ほどエルサレムに滞在した後、カイサリアに戻りましたが、その翌日には、早速、裁判の席に着いて、パウロを引き出すように命令しました。パウロが出廷すると、エルサレムから下って来たユダヤ人たちが、前のフェリクスの時と同じように、重い罪状をあれこれ言い立てましたが、おそらく新しい材料は何もなかったのでしょう。結局、罪状を立証することはできなかったのであります。
 これに対してパウロは8節にあるように堂々と弁明をします。「私は、ユダヤ人の律法に対しても、神殿に対しても、皇帝に対しても何も罪を犯したことはありません」と言いました。「律法に対して」と言っているのは、パウロたちが公認されたユダヤ教とは異なる違法な宗教を宣べ伝えているという訴えに対して、律法に忠実に従っていて違反していない、ということであります。「神殿に対して」と言っているのは、神殿に異邦人を連れ込んで神殿を汚したというのが、実はユダヤ人たちの誤解に過ぎなかったということであります。「皇帝に対して」と言っているのは、各地で騒動を起こして治安を乱しているという言いがかりに対するものであります。このパウロの弁明に対して、告発者たちはパウロの罪を立証出来たでしょうか。13節以下に、ユダヤのアグリッパ王の前に引き出された時のことが記されていますが、その中の18節で、フェストゥスがアグリッパにこう言っております。「告発者たちは立ち上がりましたが、彼について、わたしが予想していたような罪状は何一つ指摘できませんでした」と。フェストゥスは客観的な立場で聞いていて、パウロに何の罪も認めなかったのであります。
 このような裁判の様子は、イエス様がポンティオ・ピラトのもとで行われた裁判のことを思い出させるのではないでしょうか。あの時イエス様を訴えた人々は、「この男はわが民衆を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」と言いました。「民衆を惑わし」というのは、イエス様が安息日に病気の人を癒したり、徴税人や罪人と共に食事をしたり、エルサレムの神殿の崩壊を予告したりしたことがユダヤの宗教的伝統に反することで、民衆を惑わしていると捉えただけですし、「皇帝に税を納めるべきかどうか」という問いに対しては、イエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」と言われて、税金を納めるなとは言われませんでしたし、イエス様は自分のことを王だとかメシアだとはおっしゃいませんでした。ピラトにはそのことが分かりましたから、「わたしはこの男に何の罪も見出せない」と言ったのでした(ルカ23章)。
 このように、パウロが総督フェリクスやフェストゥスのもとで受けた裁判と、イエス様が総督ピラトのもとで受けた裁判は似ているのであります。ということは、パウロが逮捕されたり、裁判を受けたりしている苦難の歩みは、イエス様の十字架への歩みと重なり合っているということであります。イエス様は弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。先週の21章では、パウロは「主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです」と言っておりました。今パウロは十字架の死までは行っておりませんが、主イエスと同じように、人々から誤解を受け、命を狙われ、裁判を受けているのであります。そして、イエス様の裁判でも、パウロの裁判でも、そこで明らかにされていることは、権力者をはじめ、すべての人間が持っている罪の醜い姿であり、一方、罪のない者が苦しめられなければならないという不条理であります。
 今日の説教は、<私たちが人生において、なぜ苦しい目に遭わなければならないのか、神様はそんな私たちを助けて下さらないのか>、と問うことから始めました。パウロは、身柄の拘束や、場合によっては死ぬことさえ覚悟しなければならないエルサレムへと向かいました。それは、自己陶酔でも、英雄主義でもありませんでした。それは、主イエスの十字架の先に復活があったように、パウロの苦難の先に、本当の命が開けることを信じていたからでありました。私たちが苦難を経験させられるのも、主イエスの苦難の十字架の先にあった復活の命に、私たちも与ることが出来るということを信じることが出来るようになるためであります。私たちは苦しみの試練の中で、<神様は何もしてくれないのではないか>、<神様なんておられないのではないか>、という不信仰な思いに囚われてしまいがちであります。しかし、神様は私たちの計り知ることの出来ない大きな救いの御計画を持っておられます。神様は私たちが苦難としか思えないことを通して、救いの御計画を実現して行かれるのであります。そのことは、主イエス・キリストの十字架と復活の御業においてこそ、最も鮮明に示されているのでありますけれども、私たちの小さな人生の歩みの中においても示され、実現して行くのであります。
 では、パウロの場合はどうでしょうか。パウロもまた、これまでの自分の人生の歩みの中、伝道の活動の中で、そのことを体験して来たのでありますが、実は、今回の裁判の場におけるやり取りが、その後のパウロの進路を大きく変えて、伝道者としてのパウロの働きに大きな頁を加えることになるのであります。

3.皇帝に上訴――ローマでも証しを
 9節を見ますと、フェストゥスはユダヤ人に気に入られようとして、パウロに、「お前は、エルサレムに上って、そこでこれらのことについて、わたしの前で裁判を受けたいと思うか」と問います。フェストゥスは、先に、祭司長たちから、パウロをエルサレムに送り返すように求められた時には、自分の権威を示そうとして、自分が駐在しているカイサリアに来るように言いましたが、パウロをよく調べてみると、何の罪も見当たらない。さりとて、パウロを無罪放免することは、ユダヤの指導者たちの反感を買うことになる。だから、エルサレムで裁判をすれば、パウロを罪に定める材料が出て来て、彼らの意に適う結論を出すことが出来るかもしれない、と思ったのでありましょう。ここに、またしても権力者のご都合主義と自己保身の姿が表われています。
 これに対してパウロは、10節にありますように、「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です」と言います。エルサレムでは中立的な裁判が行われない恐れがあったのと、エルサレムへ行く途中で陰謀によって殺される危険があることを察知していたからでしょう。パウロは更に言います。「よくご存知のとおり、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。」こう言って、パウロは堂々とローマ法による裁判に服することを述べます。しかし、このままフェストゥスの裁判を受けると、彼の政治的な道具に使われる恐れがありました。そこでパウロは最後に言います。「私は皇帝に上訴します。」――パウロは生まれながらにローマの市民権を持っておりました。ローマ市民には、皇帝に上訴する権利が認められていました。ただ、ローマではユダヤの宗教事情などがよく分かっていなかったでしょうから、不利になる可能性もありましたし、更に身柄の拘束が続くことになって、しばらく伝道が出来ないことになりますが、パウロは上訴の権利を行使することにしました。というのは、パウロはかねてから当時の世界の中心ともいうべきローマにおいて伝道したいという希望を持っていましたし、そのことは、ローマの信徒への手紙の中でも、はっきり述べています。「何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」(ローマ1:10)と。しかしそれだけであるならば、人間的な思いかもしれませんが、23章11節には、こう書かれています。その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」――パウロは主イエスから、ローマ行きを命じられていたのであります。こうして、パウロは皇帝のいるローマまで護送されて、ローマで裁判を受けることになったのであります。
 これは、特殊な政治情勢の中で生まれた偶然のいきさつのようでありますが、ここに神様の御計画の進展を見ることが出来るのではないでしょうか。神様はユダヤ人の頑なさや、フェストゥスの自己保身の罪が渦巻く中で、パウロが福音を当時の世界の中心であるローマで語ることが出来るように計画を進めておられるのであります。これが、後にキリスト教がローマの国教となり、やがてヨーロッパ中に、」世界中に広まる基礎となるのであります。

結.救いの計画の進展に向けて
 私たちの人生においても、教会の歩みにおいても、挫折や行き詰まりを味あわなければならない時、将来に対して展望が開けない時があるかもしれません。そのような時に、ともすると私たちは主イエスが生きて働いておられること、神様のおられることを忘れてしまい勝ちであります。祈ることや礼拝することも滞ったり、出来なくなってしまうことがあるかもしれません。しかし、イエス・キリストは今も生きて働いておられ、神様は大きな救いの御計画のもとで、私たちの人生計画や、教会の伝道計画を進めておられるのであります。神様は私たちの思いを越えた答を用意なさっているに違いありません。そのことを信じて、神様に全てを委ねたいと思います。 お祈りします。

祈  り
 教会の頭なるイエス・キリストの父なる神様!
 2000年の教会の歴史を導き、今も私たちの中で救いの御業を進めておられることを覚えて、御名を賛美いたします。
 私たちには目先のことしか見えず、自分たちの現状を嘆いたり、つぶやいたりすることの多い、信仰の薄い者であります。
今日は、パウロの受けた裁判などを通して、あなたの隠れた御計画の進展を信じることを許されてありがとうございました。
 どうか、私たちの小さな群れも、この地において、宣教の御業の一環に加えられていることを信じさせて下さい。どうか、弱さと欠けの多い私たち一人一人をも、あなたの弟子の一人としてお用いになることを信じさせて下さい。
 どうか、礼拝から遠ざかっている方々に、あなたが直接出会って下さって、御言葉の養いを受けられるように計らって下さい。特に、人生の苦難の只中にある人たちが、あなたの前に導き出されて、慰めと励ましを受けることが出来るようにさせて下さい。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年6月20日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録25:1-12
 説教題:「ローマでも証しを」
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