そのとき、パウロは答えた。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」             (使徒言行録2113

 パウロの第三次伝道旅行では、出発地のアンティオキアに戻るのではなく、エルサレムに向かおうとしていた。それは、エルサレムの教会の人々がユダヤ人たちから迫害を受けて、経済的に困窮していたため、各地の異邦人教会で集めた献金を届けて助けることによって、教会全体が一つとなるためであった。
 ところが、立寄ったティルスの町の信者たちは、聖霊に動かされて、エルサレムに行かないように言い、カイサリアではアガポという者が聖霊のお告げとして、エルサレムでは身柄を拘束されると語ったので、パウロの同行者たちまでも、エルサレムに上らないように頼んだ。パウロは、彼らの気持ちが身に染みて、心がくじけそうになったが、標記のように言い放った。それは、パウロたちに与えられた使命を果たして、異邦人信者とユダヤ人信者の架け橋になりたいとの思いがあったからであろうが、先にミレトスでパウロが語っていたように、聖霊の促しがあって(使徒20:2223)、使命が達成できると確信していたからであり、更には、主イエスが十字架の待つエルサレムに向かい、そこでの死と復活によって、すべての人間のために復活の命を与えられた恵みを、身をもって証ししたいという思いがあったからである。パウロの決断を聞いた人たちは、「主の御心がなりますように」と言って、聖霊の導きを信じ、主の御心に委ねた。それは、主イエスのゲッセマネの祈りにも通じる。
 私たちが主イエスに従って行くのも、「主イエスの名のために」生きることであり、それは、この世的な楽しみや幸せを得ることではなく、苦難が伴うかもしれないが、そこには、新しい復活の命に生きるという、大きな喜びが伴うのである。私たちも、「御心が行われますように」と祈る者とされたい。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2010年6月13日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録21:1−16
 説教題:「主イエスの名のため」
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