序.真夜中の牢で
 先週のペンテコステ礼拝では、使徒言行録9章に記されているサウロ(又の名はパウロ)の回心の物語から御言葉を聴いたのでありますが、そのパウロはやがて地中海沿岸の各地へ伝道旅行をすることになります。パウロは合せて三回の伝道旅行をいたしますが、今日の箇所は既に第二回目の伝道旅行の話になっておりまして、エーゲ海を渡って、ヨーッロッパ最初の伝道地フィリピの町での出来事が書かれています。
 フィリピではリディアという婦人との出会いがあり、その一家が洗礼を受けたという喜ばしい話が書かれたあと、占いの霊に取り付かれている女奴隷との出会いがあり、その女がパウロたちにひつこくつきまとうので、パウロがたまりかねて、その女の霊を追い出したところが、その女を使って金もうけをしていた主人がパウロと同行者のシラスを役人に引き渡したことが書かれています。二人は町を混乱させているという理由で、何度も鞭で打たれた上、牢に投げ込まれてしまいます。牢の看守は厳重に見張るようにとの命を受けて二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめました。全く理不尽な投獄でありましたが、こうして、二人は自由を奪われて、伝道も出来なくなったのであります。
 今日の箇所には、その日の真夜中に起こった奇跡的な出来事について書いてあるのですが、パウロの伝道旅行のハイライトの一つとも言える箇所であります。先ほど朗読しましたので、事の次第はお分かりになったと思いますが、結果的には看守の一家が救われるというハッピ-エンドになっています。しかし、なぜこんなにうまく行ったのか、疑問も感じられるのではないでしょうか。大地震は偶然の出来事と理解することも出来ますが、囚人たちの鎖が外れたのに、誰も逃げなかったとか、その日のうちに看守の一家が洗礼を受けるまでに至ったのは、常識では考えにくいことであります。しかし、筆者のルカは、この出来事を決して特別な奇跡として描いているのではありません。このような救いの出来事は、形を変えて、その後の教会の中でも起こり続けて来たし、今も起こるのであります。では、何がこのような出来事を起すのでしょうか。もし今、こうした出来事が起こらないとしたら、どこに問題があるのでしょうか。パウロとシラスが牢に投げ込まれたようなことは、現代の日本ではちょっと考えにくいことではありますが、伝道に対して様々な形で抵抗があるのは、今も全く同じであります。その中で、伝道が進み、救いが起こるとすれば、そのパワーはどこから来るのでしょうか。今日は、そのようなことを思い巡らしながら、この箇所を見て行きたいと思います。

1.賛美の歌と祈り
 25節を見ますと、真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた、と書かれています。時は真夜中であります。牢屋には灯りなどあるはずもありませんから、真っ暗闇です。ただ夜の闇が覆っているというだけではありません。ここに入れられている囚人たちは、人生の先が見えない暗闇の中にいたことでしょう。パウロたちも、これからの伝道がどうなるのか、先の見えない暗闇の中に放り込まれたのであります。なぜこんな目に遭わなければならないのかという不満と、明日からどうなるのかという不安があったことと思います。「真夜中」という言葉は、そんな希望の光が見えない、暗い状況を象徴しているように思います。
 私たちも人生の中で、自分の置かれた状況が、「真夜中の牢屋」にいるように感じられる時があるかもしれません。何かに失敗するとか、重い病気に罹るとかして、自由が奪われて、先の見えない真っ暗な状況に置かれることがあるかもしれません。
 ところが、パウロとシラスはそんな状況の中で、嘆きや怒りの声を発するのではなくて、賛美の歌をうたって神に祈っているのであります。驚くべきことです。二人は牢に閉じ込められ、厳重な見張りを置かれて、足枷まではめられて、身動きが出来ない状態にあります。しかし、二人は決して運命の虜にはなっていません。彼らの心は縛られていません。彼らは暗闇の中でも神様を見失ってはいません。彼らは神様を礼拝しているのであります。彼らは恐らく、イエス様の十字架のお苦しみのことを思いつつ、いよいよイエス様を身近に感じていたのではないでしょうか。
 二人の声を聞いた他の囚人たちは、初めはうるさがったり、あざ笑ったかもしれません。しかし、やがて心に浸み透る二人の声に我を忘れて聞き入るようになりました。その声はまるで、暗闇に一筋の光が差し込んだように、囚人たちの暗い心に光をもたらしたのではないでしょうか。
 この二人の姿は、この世にあるキリスト者の姿を象徴しています。この世は暗闇が支配し、光が失われているように見えます。世の行く末も、私たちの行く末も、暗雲が垂れ込めているように思えます。諸々の制約が私たちの自由を奪っております。運命が私たちを虜にしているように見えます。しかし、そんなこの世にあって、キリスト者は神様を仰いで賛美し、祈っています。礼拝しています。キリスト者は主イエスの光を受けています。どんな暗闇の中にも、主が共にいて下さることを信じています。だから、そこには平安があり、自由があります。そんなキリスト者の姿を見聞きするならば、人々は必ず心を動かされます。そこに何が働いているのかを問わざるを得なくされます。
 さて、このように神様を礼拝しているところには必ず神様がおられるのですから、神様の力が働かない筈がありません。

2.自害してはいけない
 その時、突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いたのであります。神様の力が働いたのであります。そして、たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまいました。自由になったのであります。これはパウロや囚人たちの体が解放されただけではありません。これは人々にもっと大きな解放をもたらすために、神様が起こされた奇跡でありました。囚人たちは、驚いたことに誰もそこから逃げ出さなかったのであります。彼らはパウロたちの賛美と祈りに心を動かされていました。そこへ地震が起こったので、パウロたちが信じている神様が生ける神様であって、その神様が起こしたのに違いないと思ったのかもしれません。そして彼らは、<このパウロと同じようにしよう、パウロと一緒にいて逃げ出さずに留まっていよう>と自然に考えたのであります。彼らは、パウロとシラスの賛美と祈りを聞いて、そこにある大きな自由に触れたことによって、逃げ出して得られる自由よりも、パウロたちのところに留まっていることによる自由の方が大きいと思えたのでしょう。このように、神様を信じる者が、たとえ牢の中にいるような不自由な状況の中でも、神様を信じて、その信仰生活が動かされないものであったら、それを見て周囲の人は、自分もその神様を信じたいと思うようになるということでしょう。これは大きな自由の証しであります。
 ところで、ここにはその後の囚人たちのことは書かれていなくて、牢の看守のことが書かれています。地震で目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとしました。看守は牢の中の囚人たちがどうなっているのか、全く知りません。常識で考えれば、牢の戸が開いておれば、逃げて行く筈です。これは看守としては人生を台無しにしてしまうほどの、恐ろしいことでありました。というのは、当時のローマの法律では、囚人が逃亡した場合、看守はその責任をとって、囚人の刑を身代わりに負わねばならないことになっていたからであります。自然災害で起こったことなのに、何故看守がそこまで思いつめなければならないのかと思いますが、看守はローマの規則に心が縛られていました。客観的な状況を把握しようともせず、死刑の辱めを受けるよりも自殺した方がましだと考えて剣を抜いたのであります。自殺することだけが、自分に残された最後の自由であると思ったのでありましょう。しかし、それは歪んだ自由の求め方であります。
 剣を抜く看守を見たパウロは、大声で「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」と叫びました。看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込みました。見るとそこには、囚人たちが皆逃げ出さずにいるではありませんか。大地震が起こったことも奇跡でありますが、それ以上に、誰も逃げ出さなかったことの方が大きな奇跡であります。その奇跡がパウロたちによって起されたことに看守は気付いたのでしょう。看守はパウロとシラスの前に震えながらひれ伏しました。

3.主イエスを信じなさい
これまでの看守は、ローマの権威に服し、その法律に従うことによって、自らの自由と幸福が保たれると思って来ました。しかし今は、パウロたちのところに、本当の自由があることを直感いたしました。そこで二人を外へ連れ出しました。看守は囚人を繋ぎとめておくのが務めです。しかし今や、その古い束縛から解放されて、パウロたちを自由な外へ連れ出しました。そして二人に尋ねました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」―ここで看守が、何を救いと考えたかははっきりしておりません。しかしパウロたちのところは、今の自分を救い出す大きな力があることを感じたのでありましょう。
 これに対して二人は言いました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」――この問いと答えには、言葉の上での意味深い対応があります。看守は「先生方」と呼びかけました。その言葉は答えの「主イエスを信じなさい」と言っている「主」と同じ言葉が使われているのです。ですから、この答えにはこういう意味が込められているのです。<あなたは、私たちのことを「主よ」と呼んだけれども、あなたに救いを与える本当の主は、私たちではなくて、主イエスなのだよ。この方を信じるならば、本当の救いが与えられます>という答えなのです。
 看守はこれまで、ローマの権威を「主」として、それに服するところに自由と幸福があり、救いがあると思って来ました。しかし今、救いはイエス・キリストを「主」とあがめ、この主を信じ、この主に身を委ねるところにあることを示されました。救いとは、本当の「主」であるイエス・キリストを見出すことであります。そこに本当の自由と平安があります。
 教会が与える救いは、ここでパウロたちが答えたように、「主イエスを信じなさい」という一言に尽きます。もしこれ以外の答えを用意したら、その答えを受けた人がどれほど喜んだとしても、それは正しい答えではありません。間違ってはならないのは、教会は人間の幸福のための知恵や手段を提供するところではありません。教会は<主イエスを信頼しなさい>と言って主イエスを差し示すところであります。主イエスを信じることには、もしかすると、この世的に見れば幸福とは相反するようなことが待ち受けているかもしれません。パウロたちが牢に閉じ込められたように、この世的な自由が奪われるようなことがあるかもしれません。しかし、そこにおいても、主イエスを信じる平安と喜びがあり、賛美と祈りがあるのであります。
 パウロたちは「主イエスを信じなさい」と言ったあとで、更に、「そうすれば、あなたも家族も救われます」とつけ加えています。一家の父親であるこの看守が救われたことで、その妻も子も、家族全体が救われるというのは、父親が家庭の中で力をもっていた家父長制の時代だからこそ言えることで、今ではこれは当らないということになるのでしょうか。確かに、妻も夫と同じ信仰をもたなければならないということはありませんし、子も親の言いなりにならなければならないということはありません。一人一人の信仰の自由は守られなければなりません。しかし、一家のうちの一人が救われるということは、その家庭全体を神さまが祝福しようとしておられると考えてよいのであります。もちろん、一人が救われたからと言って、自動的に一家が救われるということにはなりません。むしろ、長い間の祈りにもかかわらず、家族を一人も信仰に導けないというケースの方が多いのかもしれません。しかし、自分にとって大切な家族を、神さまに委ねるということは出来ます。そして、地上にいる間に家族が救われるのを見ることが出来なくても、家族ともども天にある姿を信じることは出来るのではないでしょうか。
 この場合は、32節に、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った、とありますから、おそらく、看守はすぐに家族を呼び寄せて、パウロたちから主の言葉を一緒に聞いたのではないでしょうか。私たちも、信仰は個人の自由だからと、遠慮することは要りません。こと救いについては、他のこととは違って、天国に入るかどうか、本当の命を生きるか死ぬかに関わることですから、愛する者を救うためには、強引さも必要であります。「主の言葉」とは、主イエスが語られた言葉ということでありますが、そこには当然主イエスのなさった救いの御業のことも含まれていたでしょう。罪の赦しの十字架の福音が語られた筈であります。
 主の言葉を聞いた看守は、33節によると、まだ真夜中であったが、二人を連れて行って打ち傷を洗ってやりました。看守は、パウロたちの話を聞くだけでなく、二人の打ち傷を洗ってやりました。少し前までは、自分の命がどうなるのかしか考えることが出来ず、パウロとシラスが鞭で打たれた痛みのことなど、全く頭になかった看守ですが、今は二人のことを考える余裕が出て来ています。そこには、看守と囚人という関係を超えた、人間としての交わりが結ばれたことを見ることが出来ます。
 こうして、結果的には、その夜のうちに、看守自身も家族も皆すぐに洗礼を受けました。看守一家に救いが訪れたのであります。そして、この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだのであります。ここに新しい兄弟姉妹の交わりが誕生しました。更に、35節以下には、翌朝になって、パウロたちを釈放せよとの命令がローマの高官から下されたことが記されています。

結.鎖につながれない福音の自由
 最後に、この夜、牢屋で起こった不思議な出来事の原動力は何であったのかということを考えてみたいと思います。パウロが理不尽にも牢につながれた夜に、突然の大地震が起こったことは、単なる偶然ではなく、神様が起こされた奇跡としか思えません。また、牢の戸がみな開き、すべての囚人たちの鎖が外れたにもかかわらず、囚人たちは誰も逃げなかったのも不思議なことであります。更に、その夜のうちに看守の一家が主イエスを信じて救われたのも、普通では考えられないことであります。しかし、この夜の経過をよく考えてみると、最初にパウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていたことが、すべての不思議な出来事の発端であります。もし、二人の賛美と祈りの声に囚人たちが聞き入るということがなければ、たとえ奇跡的な大地震が起こったとしても、囚人たちは逃げてしまったでしょうし、看守はその責任を取らされて殺されたでしょうから、この一家に救いは訪れなかったでしょうし、パウロたちも牢から解放されることはなかったかもしれません。この夜のすべての不思議な出来事は、パウロとシラスが、牢に投げ込まれて、足枷まではめられるという、全く自由を奪われる中にもかかわらず、賛美の歌をうたって祈ったという驚くべき行為から起こったのであります。パウロたちはどうして賛美と祈りを献げることが出来たのでしょうか。彼らに信仰があった、と言えばそれまでですが、人の信仰は大きな困難に遭遇する中で、消え入りがちであります。困難のために自由を奪われると、心の自由も奪われてしまいがちであります。しかし、パウロとシラスは心の自由を奪われていませんでした。なぜでしょう。パウロはテモテへの手紙の中で、こう言っております。「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」(Ⅱテモテ2:9)。たとえ人の自由が奪われ、心が萎えそうになっても、神の言葉、即ち、十字架の福音はつながれていません。自由を全く奪われたかに見えた主イエスの十字架こそが、罪からの解放の出来事でありました。その福音は何ものにも遮られることはありません。パウロたちは、自分たちの不自由な状況を超えて、決してつながれることのない福音を見つめていたのであります。そこには当然、聖霊の支えがあった筈であります。
私たちも今日、こうして礼拝をし、賛美の歌をうたって祈りをしています。福音を見つめつつ、そのことが行われているなら、たとえどのような困難に遭遇しても、どのような圧力が私たちの自由を奪おうとしても、福音による救いの奇跡は起こり続けるのであります。賛美の歌が消えることはありません。祈りましょう。

祈  り
 救い主イエス・キリストの父なる神様!
 パウロたちの受けた苦難と、その中でなお、救いの御業を進め給う聖霊の働きと福音の力を覚えて御名を賛美いたします。
 私たちに襲い掛かる様々な困難、自由を奪われる出来事に遭遇することがあっても、どうか、何ものにも妨げられることのない主イエス・キリストの福音の力を信じさせて下さい。どうか、どのような時にも、賛美の歌をうたい、祈ることが出来る自由をお与えください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年5月30日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録 16:25-34
 説教題:「真夜中の牢で」
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