序.そのままでよい?――私の回心へ
 先週の主日は、大会応援伝道の一環として、午後に「黙想ワークショップ」を行いましたが、その中で青木先生が、<聖書は2000年前にイエス様が肉体をとって生きておられた時のことを語っているのに重ねて、今ここに生きておられるイエス様のことを語っている>ということを話されました。これは福音書について言われたのでありますが、同様のことは今日与えられている使徒言行録についても言えることでありまして、今日の箇所は直接的にはサウロ(ギリシャ語名ではパウロ)の回心のことが書かれているのでありますが、筆者のルカは自分の回心のことを念頭に置きながら書いているのでありましょうし、これを読む私たちも、自分たちの回心のことと重ね合わせて読むのが、聖書に相応しい読み方なのであります。と言うのは、私たちは今、この箇所を読むときに、サウロがイエス様に出会ったように、私たちもイエス様に出会い、私たちに回心が起こるのであります。サウロは天からの光を受けて、目が見えなくなり、イエス様の声を聞きましたが、私たちもこれまで見えていると思っていた目が一旦見えなくされます。そして、アナニアという人がイエス様の指示を受けてサウロのところへ来て、イエス様の言葉を伝えると、サウロの目からうろこのようなものが落ちて、目が見えるようになったのですが、そのように私たちの目からも、うろこのようなものが落ちて、改めて目が開かれるのであります。
 青木先生はまた、前日の合同修養会において、こんな話をされました。最近、心理療法で言われる「ありのままの自分を受け入れる」という癒しのメッセージが、福音のメッセージと取り違えられることがあって、ある教会のキャンプで、初めから終わりまで、「そのままでいい」ということが語られたそうです。そのキャンプに悩みを抱えながら参加していた青年が、最終日になって、「自分はこのキャンプで変わりたいと思って来たのに、そのままでいいなら、このキャンプには来なかった」と言って噛み付いたそうです。福音のメッセージは、イエス様が私たちをありのまま受け入れて下さるということではありますが、そのまま何も変わらないということではなくて、イエス様は私たちを全く新しい人間へと造り変えてくださるのであります。回心とは、私たちが新しく生れ変わることであります。復活の命に生き返ることであります。そのことが、聖書の御言葉によってイエス様と出会うことによって起こるのであります。
 使徒言行録は以前に連続講解説教をいたしましたが、その時は今日の箇所を二回に分けて説教しました。今回は一回だけですが、新たな思いで向き合っていただいて、改めて「目からうろこ」が落ちる体験をしていただければと思っています。

1.突然の光とイエスの声――見えなくされる恵み
 さて、サウロという人は、小アジアのタルソスという町で生まれた生粋のユダヤ人で、若くしてエルサレムに出て、ガマリエルというファリサイ派の第一人者のもとで、ユダヤ教徒としての教育を受けた人物であります。サウロは熱心なユダヤ教徒であっただけに、キリスト者たちが、<十字架に架けられたイエスという男が救い主だ>などと言っていることには我慢がならなかったのでしょう。キリストを信じる人たちが影響力を持ち始めていることに危機感を募らせて、キリスト教徒を迫害する仲間に加わりました。1,2節にはこう書かれています。さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。
 「なおも」と書かれていますから、これまでにもキリスト者を迫害して来たのでしょうが、エルサレムにいるキリスト者を迫害するだけでは気が済まずに、迫害を逃れて他の町々へ散って行ったキリスト者も捕らえようと考えたのであります。サウロは彼らを連行する権限を大祭司から貰って、ダマスコへ乗り込もうとしておりました。
 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らして、サウロは地に倒されました。ここで聖書が「突然」と書いていることに注目しなければなりません。ここからサウロの回心が始まるのでありますが、それはサウロが思索を深めたり、内面の戦いをする中で到達した結果ではないということであります。サウロの側では、何の準備がなく、兆しや予感もない中で、全く思いがけず、正に天から起こった出来事であったということです。サウロは天からの光によって、地に倒されました。サウロはこれまで、与えられた優れた能力と、自分は正しいことをしているとの信念に立って、自信を持って行動して来ました。しかし、今、その自分が天からの強い光によって倒されて、自分の思いで進めてきた行動にストップがかけられたのであります。
 地に倒れたサウロに、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声が聞こえました。その声の主(ぬし)が誰であるのか、すぐには分からなかったのですが、圧倒的な力を感じたのでありましょう。サウロは「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねています。「主よ」というのは、敬意をもって相手を呼ぶ時に用いられる言葉です。相手が誰だか分からないままに、只者ではないことを感じて、「主よ」と言わざるを得ませんでした。
 サウロの問いに対する答えは、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」でありました。これまでサウロは、神を冒涜する怪しからぬ者たちを抹殺しようとしていました。しかし実は、神の子イエス・キリスト御自身を攻撃していたことが示されたのであります。ここでサウロは、主イエスと向き合わされました。相手は自分がこれまで敵意をもって攻撃してきた人たちをつき動かしている張本人であります。その相手から、敵意どころか、むしろ好意をもって呼びかけられ、またその方は、御自分を信じている者たちが苦しめられていることをご自分の痛みとして受け止めるという、深い愛を持っているお方でありました。そのような、とてつもなく大きい人格に出会って、サウロは今まで、神様のために正しいことをしていると思い込んでいたことが、全く見当はずれであったこと、そして、どれほど主イエスを苦しめ、神様の意思に逆らっていたことかを思い知らされました。この大きな出会いは、サウロの側から求めて得た出会いではなく、イエス様がサウロを目指して出会って下さったのであります。
 続いて6節でイエス様は、「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」とおっしゃいました。サウロは、これまでにしてきたことの間違いを知らされただけではありません。これからなすべきことも知らせようとしておられるのであります。イエス様は、御心に反することをして邪魔をして来たサウロを、殺すことだってお出来になった筈であります。けれども、そうはされませんでした。迫害を続けることを止めさせられただけではなくて、直ちに、神様のために働く新しい役割を与えようとしておられるのであります。ここに、主の赦しがあります。
 この後サウロは、8節によると、地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかったのであります。これまでサウロは、自分には正しいことが見えていると自信を持っていましたが、今、見えなくされたのであります。それは、本当のものが見えるようになるためであります。何も見えなくなったサウロは、人々に手を引かれてダマスコの町に連れて行ってもらわなければなりませんでした。自分で歩くのではなく、連れて行ってもらうようになることが、サイロには必要であったのであります。
 ところで、私たちは自分のことを、このサウロのように激しくイエス様に抵抗している人間ではないと思っています。けれども私たちは、自分で築いて来た生き方、生活の仕方、信仰生活のあり方を、神様の御心に従って改めることには、頑なに抵抗いたします。先ほど、「そのままでいい」という心理療法のメッセージに慰めを得てしまっている風潮があるという青木先生のお話を紹介しましたが、そうした心の底には、「自分で自分をしっかりと握り締めて変わろうとしない」という「自己へのこだわり」が潜んでいます。そういう点では、私たちにもサウロの頑なさと変わらない面があります。また、私たちはサウロのように、キリスト信者を迫害するようなことはしていません。むしろイエス様のシンパ(味方)のつもりでいます。しかし、私たちの言動が、周りの人や未信者の人たちに躓きを与えたり、信仰を持つことに抵抗を覚えさせたりすることになっているとすれば、それは、キリスト信者を迫害するのと同じことであり、ひいてはイエス・キリストご自身を迫害することになるのではないでしょうか。
しかし、サウロに出会い給うたイエス様は、私たちにも出会って下さいます。そして、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」とおっしゃいます。けれどもそれは、私たちを裁いて滅ぼすためではありません。それは、サウロがそうであったように、これまで見えていると思っていたことを見えなくし、自分で歩けると自信に満ちていた者を、地に倒れさせて、改めて私たちが、見るべきものを見、行くべき所に行くようになるためであります。イエス・キリストの真実のお姿を見ることが出来、イエス様に従って行く者となるためであります。

2.今、彼は祈っている――祈らざるを得ない恵み
 ダマスコに連れて行かれたサウロは、それから三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかったのであります。「三日間」という期間は、あのヨナが大きな魚に呑み込まれて、魚の腹の暗闇の中で、三日三晩、悔い改めの祈りをしたことを思い起こさせますし、更には、十字架にお架かりになったイエス様が、新しい命に復活されるために三日間、墓の中におられたことを思い起こします。
 11節によれば、サウロはダマスコの町の「直線通り」と呼ばれる通りにあるユダの家で、祈っていました。サウロは、十字架に架けられたイエス様が復活して生きておられ、自分に語りかけられたという事実に、真正面から向き合わねばなりませんでした。そして、自分のこれまでの罪を知らされ、赦しを求めざるを得ませんでした。これまでの生き方の全てを問い直さなければなりませんでした。もはや、自分から次の歩みを考え出したり計画することは出来ません。ただ、神様の導きを求めて、祈るほかありませんでした。けれどもこれは、大きな恵みの時であります。
 私たちもまた、こうして礼拝において、聖書の御言葉を通して、イエス様に出会うとき、祈りへと導かれます。祈りは、私たちが神様を呼び出して、自分の望みを神様に押し付ける時ではありません。サウロがそうであったように、生きておられる主イエスに出会い、御言葉を賜い、自らの罪を知らされ、赦しを求めざるを得ないところから導かれるのが祈りであります。そこでは、私たちが考えた希望や計画を押し付けるのではなくて、神様の御計画が成ることを求め、私たちのこれからの歩みを御心によって導いて下さることを祈るのであります。もし、祈りの必要を感じていないとすれば、それはイエス様に出会っていないからであります。けれども、イエス様は私たちを放っておかれません。こうして礼拝において出会って下さり、祈りの恵みへと導いて下さいます。

3.もう一人の回心を通して――教会の働きの中で
 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいました。主イエスは、このアナニアに幻の中で、サウロを訪ねるように命じられます。一方、主イエスはサウロにも幻で、アナニアが自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれることを、告げられます。――このことを聞かされたアナニアは、サウロがどんなことをして来た人物であるか、また何をしようとしてダマスコに来たかについて情報を得ていましたので、躊躇いたします。ところが、主イエスは、アナニアにこう言われます(15,16節)。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしの選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」
 ここにサウロの新しい使命が告げられています。回心するということは、過去を反省して、これまでやってきたことをストップするということだけではありません。イエス様に敵対していた者がイエス様に従う者になるということは、今度は積極的にイエス様の名を伝える者になるということであります。イエス様の名を消し去ろうとしていた者から、イエス様の名を広め、高めるために仕える者になるのです。それが回心ということであります。ここに示されているサウロの役割は、自分で考え出したものではありませんし、周りの者たちが、サウロの生い立ちや能力を考慮して考えた使命でもありません。あくまでもイエス様が、その名を伝えるためにサウロを選ばれたのであります。
 アナニアには戸惑いがありましたが、17節によれば、このイエス様の言葉を聞いて、出かけて行くのであります。アナニアはイエス様の言葉を信頼して、イエス様に委ねたのであります。ここに、アナニアの回心があります。サウロの回心が完成するために、もう一人アナニアの回心が必要でありました。
 ユダの家に入ったアナニアは、サウロの上に手を置いて、こう言いました。(17節)「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」――アナニアは「兄弟サウル」と呼びかけています。つい三日前までは敵であった者を「兄弟」と呼んでおります。同じ教会の共同体に属する者と認めているということであります。イエス様がサウロを「選んだ器」とされたことを信じることが出来たので、「兄弟」と認めることが出来たのであります。サウロも自分も、イエス様によって同じように回心させられた仲間であることを覚えたのでありましょう。ここに教会の兄弟姉妹の関係が作られました。
 更に、「聖霊が満たされるようにと、わたしをお遣わしになった」と言っております。そして、この後、18節で、アナニアがサウロに洗礼を授けたことが記されています。先日の「黙想ワークショップ」の中で、青木先生は、聖霊は洗礼を受けた時に降るというのが聖書の見解であるということを強調されていましたが、確かにここでもそのことが記されています。
 このようにして、サウロはアナニアという人の信仰と働きを受けて、回心の完成へと導かれ、聖霊で満たされることが出来たのであります。ここで、こんな疑問が出るかもしれません。なぜ、ここにアナニアが登場しなければならなかったのか。イエス様が直接サウロに働きかけられればすむことではなかったのか、という疑問です。しかし、一人の人の回心と救いは、教会の働きを通して行われるということであります。救いの御業は神様が行なわれることであり、人間の業ではありませんが、アナニアが用いられたように、教会の働きを通して行われるのであります。聖霊に満たされることも、教会の働きの中で起こることなのであります。

結.目からうろこ――主イエスの真実の姿が見える
 最後に、18節を見ると、すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった、とあります。本日の説教の題を「目からうろこ」といたしました。「目からうろこが落ちる」という言い方は、「故事ことわざ辞典」によれば、聖書のこの箇所に由来することが明記されていて、その意味は、「あることがきっかけで、それまで分からなかった真相や本質が急に理解できるようになること」と解説されています。18節の字面だけを読むと、視力の障害となっていた「うろこのようなもの」が落ちて、元どおりの視力が回復したということを言っているだけのようなのですが、「故事ことわざ辞典」が述べているように、ここを読む人は誰でも、単に視力の回復のことを述べているのではなくて、心の目が開かれたと理解したのであります。更に、聖書に即して言うならば、17節で「聖霊に満たされるように」と言われていることから、霊的な目が開かれたこと、言い換えれば回心のこと、救われたことを表していると理解できるのであります。
 では、霊的な目を塞いでいた「うろこ」とは何でしょうか。そして、それが落ちて、何が見えるようになったのでしょうか。これまでに見て来ましたように、サウロは自分が正しいことをしていると思い上がっていました。そのことが、イエス様を見えなくしていたのでしょう。今、そのうろこが落とされて、イエス様の真実の姿を見ることが出来るようにされたのです。今までは、イエス様が神様を冒涜する人物だとしか見ることが出来ませんでした。十字架は神様の当然の罰だとしか見えませんでした。しかし、今は、十字架の主イエスこそ、サウロを含めた敵をも赦す愛のお方であり、救い主であるということが見えて来たのであります。そして、神様の敵対者にしか見えなかったキリスト者たちが、自分の兄弟であることが見えて来たのであります。更に、15節でアナニアに示されたサウロの新しい使命についても、アナニアから伝えられた筈ですから、サウロには、これから進むべき自分の道も見えて来たことでありましょう。こうして、サウロの霊的な目が開かれ、回心が完成するのであります。
 目からうろこが落ちたような思いは、一人サウロだけのものではなかったのではないでしょうか。アナニアも、サイロに関して見えていなかったものが、見えて来ました。これまでは、キリスト者の働きを邪魔する者としか見えませんでしたが、今や、サウロは自分たちの新しい仲間であり、共に福音を担っていく同労者であることが見えて来ました。このように、サウロの回心と重なるようにして、アナニアの回心もあったのであります。そして、この二人の回心の出来事を通して、私たちもまた、霊的な目が開かれて、イエス様の真実が見えるようになり、更には頑なであった自分の姿が見えて来るし、自分に与えられた新しい使命も見えてくるのであります。それは全て、ペンテコステの礼拝に相応しい聖霊のお働きであります。
 祈りましょう。

祈  り
父、子、聖霊なる神様!
 この日のペンテコステ礼拝において、聖書の御言葉を通し、聖霊の働きによって、私たちの心の目を開いて下さり、回心へと招いて下さっていますことを覚えて感謝いたします。
 傲慢で罪深い私たちですが、どうか、絶えず聖霊の導きを受けて、福音宣教の一端を担う使命に生きる者とならせて下さい。どうか、私たちの小さな回心を大きく用いて下さって、更に多くの人の目を開いて下さり、回心する者たちを次々と起こして下さい。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年5月23日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録 9:1-16a
 説教題:「目からうろこ」
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