序.私たちは誰のものか
 福音書を読みますと、イエスさまの3年ほどの短い公の生涯の間に、実に色々な人がイエスさまのところにやって来たことが記されています。病気を癒してもらいたい人々、永遠の命を得るには何をしたらよいかを尋ねに来た金持ちの青年、一度イエス様を見たいと思っていた徴税人のザアカイ、イエス様を何とか貶めたいと思っている敵対者など、すぐ思い出すだけでも色々な人が様々な期待や目的を持って、イエス様のところにやって来ました。このようなイエス様のところにやって来た色々の人のことが聖書に書かれているのは、そこに私たちの姿が映し出されているからであります。私たちも、どれだけ意識しているのかは別として、様々な期待や興味や願いや、あるいは疑問や反発を抱きながら、こうして神様の前に立っているのであります。私たちは聖書を通して、イエス様の前に立った人物のことを学びながら、神様の前にある私たちの姿を示されるのであります。
 今日与えられた聖書の箇所でイエス様の前に現れたのは、19節から20節によれば、祭司長や律法学者から遣わされた回し者で、イエス様の言葉じりをとらえて、ローマ総督の支配と権力にイエス様を渡そうとする人たちでありました。彼らと私たちとでは、時代も立場も全然違うように思えるのですが、この人たちの中にも、私たちの姿を見ることが出来るのであります。
 祭司長や律法学者というのは、当時のユダヤ社会の中での、政治的・宗教的指導者であります。自分たちの権威を誇っていた人たちであります。しかしながら、当時、ユダヤはローマ皇帝の支配下にありました。ユダヤ人は神様から選ばれた民だという誇りを持っていて、自分たちは神様のご支配を受けていると信じておりましたが、政治的には異教国であるローマの皇帝に支配されていたのであります。ですから、祭司長や律法学者の立場は微妙であります。ローマ皇帝に対しては、心ならずもその権威に服していながら、ユダヤの民衆に対しては、自分たちの権威ある立場を誇示しなければならなかったのであります。
 そのような祭司長や律法学者からの回し者がイエス様のところへやって来たのには、いきさつがありました。19章の終わりから20章の初めを見ますと、イエス様が神殿で商売をしていた者たちを追い出されたという出来事があって、神殿を司る祭司長や宗教指導者たちは、自分たちの権威が侵されたと感じて、イエス様に対して反発を覚えておりまして、彼らは20章2節にありますように、イエス様に対して「何の権威でこのようなことをしているのか」と詰め寄ったのであります。これに対してイエス様は逆に、当時の指導者たちを批判した洗礼者ヨハネのことを持ち出して、「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」と問われました。彼らは「天からのものだ」と答えれば「では、なぜヨハネを信じなかったか」と言われるし、「人からのものだ」と答えれば、ヨハネを預言者だと信じている民衆の反発を買うことになるので、答えに窮して、それ以上、イエス様の権威について追求することが出来なくなってしまいました。
 そのあと、9節からの段落に書いてありますように、イエス様はぶどう園の農夫の譬えをお話しになりました。あるぶどう園の主人が農夫たちにぶどう園を貸して旅に出ているのですが、収穫物を納めさせるために主人から遣わされた僕を、農夫が次々に追い返して、最後にやって来た主人の息子を殺してしまったという話であります。ぶどう園の主人とは神様のことで、農夫とは神様からぶどう園であるイスラエルの民を預かっている祭司長や律法学者のことで、主人の息子とはイエス様御自身のことなのであります。彼らはこの譬えを聞いて、19節にあるように、自分たちに当てつけて語られたということに気づいて、ますます反発を強めました。そこで、一計を案じて、回し者をイエス様のところへ遣わしたのであります。
 このような経緯を知りますと、祭司長や律法学者が恐れているのは、イエス様によって自分たちの権威が失墜させられることであります。彼らはローマの支配を跳ね返すことは出来ないけれども、ユダヤの中では権威を保っていたいのであります。しかし、イエス様にはなかなか太刀打ち出来ないので、ローマの権威を借りて、イエス様を潰してしまおうと考えたのであります。
 ここには、当時のユダヤの指導者たちの浅ましい支配欲と自己保身を見ることが出来るのですが、これは彼らだけの問題ではなくて、私たちにもある問題点であります。私たちも自分の立場を何とか優位に持って行って、自分の思いを通して、他を支配したいのであります。自分が大将になりたいのであります。他の人との間で波風を立てるのは得策ではないので、自分の支配欲を前面に出すことは控えますが、人を批判したり、逆に人を手なずけようとする裏には、支配欲が隠れているのではないでしょうか。
 そこで今日、私たちがイエス様から問い直されなければならないのが、私たちの本当の支配者は誰なのか、一体私たちは誰のものなのか、ということであります。今日の箇所は、単にイエス様が回し者らを巧くやり込められたというだけのお話しではありませんし、最後の「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」という言葉から、政治と宗教の分離(政教分離)の原則を教えている箇所だと受け取るだけでは、イエス様の御言葉を聴いたことにはならないのではないかと思います。ここには、私たちは誰のものなのか、誰の支配のもとにあるのか、という信仰の本質が語られているのであります。

1.真理に基づいて神の道を教える人
 少し前置きが長くなりましたが、今日の箇所の問答に入って行きたいと思います。
 イエス様のところへやって来た回し者らは、21節でこう言っております。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。」
 彼らは心にもないことを言っております。彼らは初めからイエス様を罠にかけようとしてやって来ています。彼らがこんな言い方をしたのは、自分たちの質問がはぐらかされないためです。これから質問しようとしているローマ帝国へ納税すべきか否かという問題は、後で述べますように、当時の社会では極めて微妙な問題で、誰も自分の立場を鮮明にしづらい問題でありました。だけど、<先生は正しいことを教えられるし、えこひいきもなさらず、真理を語る方なのだから、イエスかノーをはっきり答えていただきたい>と釘を刺しているつもりなのであります。
 このように彼らの言葉の裏には悪意が満ちているのですが、ここで彼らが言っていること自体は、イエス様のことを見事に言い表していると言えます。確かに、イエス様の言葉も教えも正しいし、えこひいきがありません。自分の好みや都合で真理を曲げることなく、権力者に対しても臆することなく、弱い立場の人々にも強圧的でなく、真理に基づいて神の道を教えられます。今回の回し者らに対しても、彼らのたくらみを見抜かれるのですが、うまくすり抜けようとなさるのではなくて、真実を語られます。イエス様に敵対する人たちだけでなく、私たちも、イエス様の言葉に対して、内心では、この世の現実に対して本当に力を持っているのだろうか、という疑いの気持ちがあります。心底から信頼していないところがあります。イエス様の言葉を裁こうとします。いつの間にか自分が支配者になっているのであります。イエス様をすら、自分に仕えさせようとしてしまうのであります。しかし、イエス様は私たちがどう受け取ろうと、真実を語られます。そして、私たちのために、神様の真実の道を、十字架に至るまで歩き通されるのであります。

2.謀られた問い
 さて、回し者たちがたくらんだ質問はこうでありました(22節)。「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
 当時のユダヤはローマ皇帝の支配下にあって、ユダヤ人は皆、1年に1デナリオンの人頭税をローマ帝国に払わなければなりませんでした。1デナリオンというのは、労働者の1日の賃金ですから、額としてはそれほど大きくはないのですが、ユダヤ人としては屈辱的なものであります。この納税については、ユダヤの律法に書いてあるわけではないので、立場によって考え方が微妙に違っていたようで、祭司長や律法学者といったユダヤの宗教指導層の人たちは、胸のうちではローマ皇帝への納税に抵抗がありますが、自分たちの立場を守るために、表立って反対することはせず、容認しておりました。しかし、ユダヤ人の中の愛国的な立場の熱心党と呼ばれる人たちは、納税を拒否しておりました。一方、ローマの保護を受けていたヘロデ王をかつぐヘロデ党の人たちは、納税に賛成していました。そうした中で、ユダヤの民衆は、自分たちをローマの支配から解放してくれる指導者が現れることを待ち望んでいて、イエス様こそ自分たちを救ってくれる人ではないかと期待していたのであります。
 こういう状況の中で、イエス様がこの質問に対して、まともにイエスあるいはノーとお答えになるならば、どちらにしてもイエス様の権威を失墜させることが出来ると、考えたのであります。というのは、イエス様がこの質問に対して、「皇帝に税金を納めるのは、神様の律法の精神に反している」と否定的に答えれば、明らかに皇帝の命令に背くことになりますから、イエス様を反逆罪で訴えて、死刑にしてもらうことができます。反対に「皇帝に税金を納めなさい」と肯定的に答えれば、ローマの支配に対して内心では反感を持っているユダヤの民衆の人気を失うことになるし、神の権威を疎かにするのかとの非難を受けるでしょう。19節には、「律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた」と書かれていますから、民衆がイエス様に味方しなくなれば、イエス様を亡き者にすることは簡単であります。ですから、どちらに答えてもイエス様を窮地に追い込むことが出来ると考えたのであります。その場にいた人々は皆、固唾を飲む思いで、イエス様のお答えを待っていたと思われます。

3.皇帝のものは皇帝に
 しかし、イエス様は彼らのたくらみを見抜いておられました。そして、おもむろに口を開いて、こう言われました。「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」――彼らはデナリオン銀貨を持っていましたから、すぐ取り出しました。これはローマ帝国の貨幣ですから、そこにはローマ皇帝の肖像と名前が刻まれていました。彼らは「皇帝のものです」と答えます。当時のユダヤ人は、ローマ帝国の支配に反感を持っていましたけれども、ローマの貨幣を使わざるを得なかったので、持ち歩いていたのです。このことに象徴されるように、ローマ帝国が治めているお陰で、ユダヤ人も平和に暮らすことができ、生活が成り立っていたのであります。ローマ帝国はユダヤ人から税金を取るだけでなく、色々な苦しい目に遭わせるようなこともしました。しかし、ローマの支配がなければ、安心して生活が出来ないという面もあったのです。祭司長や律法学者たちが、いくら偉そうなことを言っても、彼らだけでは、ユダヤの人々を安心して暮らさせることは出来なかったのです。イエス様はそのことを分からせるために、デナリオン銀貨にローマ皇帝の肖像と名が刻まれていることを示されたのであります。
 その上で、イエス様は「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とおっしゃいました。ローマ皇帝の支配の下で、平穏に暮らせるならば、皇帝に税金を納めるのは当然であります。神様は、たとえ問題がある支配者であっても、この世を治めるために、この世の権力者をお用いになるのであります。私たちも、政治家やこの世の権力者の批判をしているだけでは、責任をもった国民や市民とは言えません。払うべき税金は払い、守るべきルールには従わなくてはなりません。最初に申しましたように、祭司長や律法学者たちは、自分たちの権威が損なわれることを恐れているのであります。私たちも、自分が他の人を支配して、自分の思い通りに気侭に過ごしたいために、権利を主張したり、他の人を抑えつけようとするのであります。イエス様は、そういう私たちの気侭な支配欲を、「皇帝のものは皇帝に」という言葉で戒めておられるのであります。パウロもローマの信徒への手紙の中で、こう言っております。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう」(ローマ13:1-2)。耳を傾けるべき言葉であります。私たちは、この世の権力を尊ぶ必要があります。

4.神のものは神に
 それでは、イエス様はこの世の権力者と妥協して生きることを勧めておられるのでしょうか。<長いものには巻かれろ>ということをおっしゃっているのでしょうか。――そうではありません。
 イエス様は「皇帝のものは皇帝に」という言葉に続いて、「神のものは神に返しなさい」とおっしゃいました。いかに強い権力者といえども、神様の御支配には服さなければなりません。ローマ皇帝といえども、当時のこの世の政治的権力の一部を神様から預かっていたに過ぎませんから、自分のために権力を欲しいままに用いることは許されません。祭司長や律法学者たちは、当時のユダヤの宗教指導者として、自分たちの権威を誇っておりましたが、その権威は神様から預かったものに過ぎませんから、それは神様に返すべきものであって、神の子であるイエス・キリストが来られたのであれば、預かった権威を神様に返して、神の子であるイエス様の権威にこそ従うべきであったのであります。
 「神のものは神に返しなさい」という言葉は、しかし、当時の祭司長や律法学者たちにだけ語られたものではありません。イエス様は今日、私たちに向けても、同じことをおっしゃっているのではないでしょうか。私たちは神様の何を、自分のものにしてしまっているでしょうか。日曜学校誌のこの箇所の教案を執筆された青木豊先生は、「先ず何よりも『わたしたち自身』です」と指摘されて、「わたしはわたしのものだ、思い通りに生きて何が悪い、と思っていませんか」と問いかけておられます。私たちは、<自分の人生は自分のものだから、自分の思い通りに生きて当然だ>と思っていないでしょうか。いやいや、<他の人の役に立つことも考えている>という人はいるかもしれません。しかし、私たちの人生は、本来は神様のものであります。私たちは自分の幸せのために生きているのでもなく、自分の周りの人たちの幸せのために生きているのでもなく、人類の幸福のために生きているのでさえなくて、私たちは神様のお役に立つために生かされているのです。私たちが与えられているもの、命も、体も、持ち物も、能力も皆、神様のものであります。それらを神様のために用いてこそ、神様にお返しすることが出来るのであります。
 創世記の人間の創造が記されている中で、1章27節には、「神は御自分にかたどって人を創造された」と書かれています。デナリオン銀貨にはローマ皇帝の像が刻まれていましたが、私たちには神の像が刻まれているのであります。私たちは元々、神のものであります。ですから、私たち自身を神様にお返ししなければなりません。私たちは本来誰のものであるのか、誰の権威と支配のもとにあるのかを知る時に、私たちの人生の本当の意味を見出すことが出来るし、生きる目標も見えて来るのであります。

結.神に返された私たち
 最後に、「神のものは神に」と言っておられるイエス様御自身に、もう一度目を戻したいと思います。イエス様はこの時、神様の御心に従って、ご自分の全てを献げて、十字架へと向かっておられました。イエス・キリストこそ、実際にこの世で神の像を現したお方であります。「神のものは神に」ということを実践して、御自分をいけにえとして神の前に返されたのであります。
 私たちは、神様から与えられたものも、自分の中に取り込んで自由に使おうとする罪深い者たちであります。そんな私たちに代わって、イエス様は御自身の全てを献げられました。それ故に私たちは、諸々の地上の諸力から自由なものとされて、神のものへ返されたのであります。私たちは、この自由の喜びに招かれていることを感謝するとともに、私たちのこれからの人生が、真に、神と人とに仕える人生とされることを祈りたいと思います。

祈  り
 全ての権威の上に立っておられる父なる神様!
 私たちは、この世の諸々の力の支配を受けて、右往左往している者でありますが、今日は、イエス様の御言葉によって、私たちのような者も、あなたの像を刻まれた者であり、私たちのささやかな人生も、あなたのものとして受け取って下さることを覚えて、感謝いたします。
 どうか、これからの私たちの地上の歩みが、あなたのご支配のもとにあって、御心にかなって用いられますように。どうか、この世の諸々の権力者が、あなたから預かった務めを、御心に従って果たすことが出来ますように、お導き下さい。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年5月16日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書20:20-26
 説教題:「神のものは神に」
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