まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。     (ルカによる福音書15:20)
              
 ルカ福音書15章の三つの譬えは、いずれも<失われたものを見つけ出す喜び>をテーマにしているが、放蕩息子の譬えは他の二つと異なり、失われたものの問題点が「放蕩」という形で表されている。父親の財産を分けてもらった弟息子が、父親から遠く離れた所で自分の思い通りの生き方をしたいと思ったことは、自分の賜物を好きなように用いて、自由に生きたいという、私たちが共通に持っている願望を表わしている。弟息子は、遠い国で放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いし、その上、ひどい飢饉が起きて、豚の餌さえ食べることができないところまで落ちぶれてしまう。私たちはこの弟息子ほど自分勝手な生き方をしていないし、これほど落ちぶれていないと思っているが、神から与えられた賜物の活かし方について祈って神に相談することもなく、自分勝手に無駄使いしている私たちの姿に、主は、弟息子の道を歩んでいるのを見ておられるのだ。
 弟息子は最悪の状態の中で「我に返って」、父親のもとにいた時の幸いを思い出すとともに、父に対して罪を犯したことに気づき、息子としてではなく雇い人の一人にしてもらおうと、父のもとに帰って行く。すると、息子の帰還を信じて待ち続けていた父親は、標記のように、遠くから息子を見つけて走り寄る。そして、息子が「雇い人の一人に」と言い出す前に、息子としての服装や身支度を用意させ、最大級の祝宴の準備をさせる。ここに、私たちが悔い改めて神のもとに立ち帰ることを待ち給う神の愛と喜びが示されている。主イエスは、十字架と復活の御業によって、この神の愛を実際に行われた。父親は、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言っている。私たちが神との関係を疎かにし、自分勝手に生きることは死を意味する。死んだ私たちを、神はイエス・キリストによって神との関係を修復なさることによって、復活させて下さったのである。


 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2010年5月9日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書15:11−24
 説教題:「我に返って」
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