序.弟息子の問題点を通して
 ルカによる福音書15章には、イエス様の三つの譬が集められていますが、これらの三つの譬は、同じテーマが語られています。そのテーマとは、<失われたものを見つけ出す喜び>であります。先週は三つの譬の内の最初の「見失った羊」の譬えを聴きました。今日もそれと同じことが語られているなら、繰り返して聴く必要がないのですが、テーマは同じでも、違ったことに気づかせてくれて、新たな喜びへと私たちを導いてくれます。
 先週の譬と違う一つの点は、「見失った羊」の譬では、羊の過ちや問題点については特に語られておりませんでしたが、今日の譬では、小見出しに「放蕩息子」の譬えと書かれていますように、弟息子が放蕩で身を持ち崩したという問題が取り上げられています。今日、ここにおられる方の中には、放蕩で身を持ち崩した経験をお持ちの方はおられないと思いますが、そうであれば、今日の話はここにいる皆さんには関係ないのかというと、そうではありません。「放蕩」という形で、私たちの誰もが持っている問題点が表わされているのであります。そのことは後ほど見て行きたいと思います。
 今日の譬が、10節までの二つの譬えと違うもう一つの点は、失われた者が放蕩息子という形で描かれているだけでなく、25節以下では、もう一人兄息子が登場して、こちらは、弟とは反対に、父の家から出ることなく、お父さんに忠実に従った生き方をするのであります。では、この兄息子の方は何の問題もなかったのかというと、実はそうではなくて、その心は、父の思いから遠く離れていたことが明らかになるのであります。表面に現れた態度は兄と弟では全く違っておりましたが、同じ問題点を持っていたのであります。それはまた、全ての人間が持っている問題点でもあり、私たちの問題点でもあります。
 今日は、日曜学校のカリキュラムでは24節までということになっていますので、弟息子の方を中心に取り上げながら、今日、新たにイエス様が私たちに語ろうとしておられることに耳を傾けたいと思います。

1.財産の無駄使い
 まず、12節を見ていただきますと、「弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった」とあります。弟息子の要求に応じて、父親はあっさりと財産を分けてやっています。生前に財産を分け与えるということは、ユダヤの社会では必ずしも不自然なことではなかったようでありますが、それにしても、何の条件もつけず、訓戒らしいことも言わずに分け与えるのであります。ここに、父なる神様の広い愛が表わされていると言えるのかもしれません。神様は私たちにも惜しみなく良き賜物を与えて下さるお方であります。そしてそれを人間の自由意志で用いることを許されるのであります。人間は自分勝手だし、過ちを犯しやすいので、もう少し規制をしていただいた方が良いのではないか、などと考えるのですが、神様は人間の自由意志を尊重されるのであります。
 さて、財産を分けて貰って何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ちます。当時の財産と言えば、土地や家畜でしょうが、そのままでは自分が自由に使えませんので、全部金に換えます。そして「遠い国」に旅立ちます。「遠い国」というのは、父親の指図の及ばないと思われる所であります。自分の意思が貫けて、自由を満喫できると思える所であります。この弟息子は、父親や家族との関係を断ち切って、自分の思い通りの生き方をしたかったのであります。
 若者が両親の家を離れるという家出はよくあることで、家のしがらみや親の干渉を逃れて自由になりたいという点では、この弟息子と同じでしょうが、ここでイエス様が表そうとしておられるのは、普通の家出のことではありません。神様のもとから離れて、自分が持っている賜物を用いて、自分の思い通りに自由に生きたいという、私たちが共通に持っている願望を表わしています。日本はキリスト教国ではないので、<神様のもとから離れる>という感覚はあまりないのかもしれませんが、神様は人それぞれに家庭環境や地域環境を備え、それぞれに個性や能力を与えておられます。私たちはそういうものに感謝するよりも、不満を持ったり、それらに縛られることを嫌います。そして自分が持っているものは自分が好きなように使って当然だと思っています。そういう思いが新しい世界を切り開くエネルギーになるということもないわけではありませんが、そこに必ず入り込んで来るのが、自分さえ良ければいいという自己中心的な考えであります。そこでは、神様や人々から受けた愛や恵みが忘れられ、人に対する愛を欠いた生き方になってしまいます。
 この弟息子は、遠い国に行って、そこで放蕩の限りを尽して、財産を無駄使いしてしまいました。弟息子がどんな生活をしたのか、詳しいことは語られていませんが、楽しいことや自分の欲望を満たすだけの生活を続けるならば、お金はいくらあっても足りません。苦労して貯めたお金なら大事に使うでしょうが、親から分けてもらったお金は、無駄使いしてしまいます。私たちが神様から与えられている賜物も、感謝することなく、どう使ったら良いか神様に相談することもなく、自分の好きなように使っていると、つい無駄使いしてしまいます。お金は巧く使うと新しい価値を産み出します。神様の御心に添った使い方をすれば、金銭的な価値以上のものさえ産み出します。しかし、自分勝手な使い方をしていると、ドブに捨てるように減って行きます。お金がある間は、ちやほやしてくれる人もいるかもしれませんが、お金がなくなれば、誰も相手にしてくれません。無駄使いの結果は、お金を失うだけでなく、友達も、名誉も、そしてあれだけ求めていた自由さえも失ってしまいます。
 弟息子が、何もかも使い果たしたとき、悪いことに、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めました。お金がなくなれば、働けば良いと安易に考えていたかもしれませんが、飢饉が追い討ちをかけます。食べるにも困って、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせました。豚というのは、ユダヤでは汚れた動物とされていて、食べることはしませんでした。弟息子が行ったのは遠い外国の異教国だったので豚が飼われていたのでしょうが、その世話をするというのは、ユダヤ人として屈辱的な仕事をさせられたということであります。弟息子の惨めさはそれだけではありません。彼は食べるにも困っていたので、豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったのですが、それさえ食べさせてもらえなかったというのであります。
 これはイエス様が創作された譬えですが、弟息子をこのような悲惨な姿で語られるのは、神様のもとを離れて、自分勝手な生き方をすることが、これほどまでに悲惨なことだということをお示しになりたかったのだと思われます。私たちは、この弟息子ほど自分勝手な生き方をしていないし、自分の状態はこれほどまで落ちぶれてはいない、と思っているのですが、イエス様の目から見れば、この弟息子のように見える、あるいはこの弟息子のようになりつつあるのが見えている、ということではないでしょうか。私たちが持っているものは全て、神様から与えられたものであります。それなら、その使い方は神様に相談しなくてはなりません。祈りつつ、自分の賜物の活かし方、自分の身の処し方を示していただかなくてはなりません。更に必要なものがあれば神様にお願いしなくてはなりません。それなのに、神様に相談しなくても、神様にお祈りしなくても、自分でやっていけると思ってしまって、与えられた賜物を勝手に無駄使いして、使い果たそうとしているのではないか、とイエス様はこの譬えを通して指摘されているのであります。私たちの日常生活の中で、自分の日々の歩みについて、真剣な祈りがなされていないとすれば、それは私たちが弟息子の道を歩み始めていることの表われではないでしょうか。

2.我に返って
 弟息子は財産を使い果たしたときに、折悪しく飢饉が起こって、最悪の状態に落ち込みました。そこで、17節にあるように、彼は我に返ったのであります。飢饉が起こってはじめて、自分の破れた姿・破綻した自分の本当の姿が明らかになったのであります。飢饉が起こらなかったら気がつかなかったかもしれません。私たちは、順風満帆の時、自分の思い通りに物事が進んでいる時には、自分の過ちに気づきません。大きな障害にぶつかった時、自分の計画が破綻した時など、人生の危機に遭遇した時に、自分の真実の姿に気づいて、自分の人生を神様の手に戻すことが出来れば幸いであります。
 弟息子は飢饉が起こって最悪の状態に落ち込む中で、我に返りました。「我に返って」というのは、口語訳聖書では「本心に立ちかえって」と訳されていました。自分自身に戻ること、失われていた自分に気づくということであります。我に返った弟息子は、17節でこう言っております。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。』―父の家にいた時の恵まれた状態を思い起こして、今の自分の惨めさに気がつくのであります。父のもとを飛び出した時は、父のもとでは自分のやりたいことが出来ず、自由のない窮屈な所だと思っていました。そこで自分らしい生き方を求めて、飛び出したのであります。しかし、その結果は、自分らしい生活どころか、生きることもままならない状態に陥ったのであります。彼がこの時、自暴自棄にならなかったのは、父のところでの恵まれた生活を思い起こすことが出来たからであります。飢え死にしそうな状況の中で、有り余るほどパンがあったことを思い出したというのは、相変わらず自分の欲望を満たすことだけしか考えていないようにも受け取れますが、次の18節の弟息子の言葉を聞くと、そうではないことが分かります。こう言っております。『ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』――神様とお父さんに対して「罪を犯しました」と言っております。こういう惨めな状態に陥った時に、それを飢饉のような不運のせいにすることも出来ますし、親か誰かのせいにすることも出来ます。そうしがちであります。しかし、この弟息子は自分に罪があることを認めています。父のところにいるのが本来の姿であったのに、自分の気侭で出て行ったことが間違いであったことに気づいているのであります。自分の罪に気づいていますから、<もう一度、息子として扱ってください>とは言えません。「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と言っております。罪に気づくというのは、単に失敗に気づくとか、間違いを犯したことに気づくということではありません。神様との関係において間違っていたということ、神様の御心を裏切ったことに気づくことであります。ですから、神様の恵みを受ける資格のないことを告白せざるを得ません。
 ところで、この弟息子は、父の家にいた時の恵まれた体験があったから、それを思い起こして、我に返ることが出来たけれども、そういう体験がない場合はどうなるのか、という疑問を持たれるかもしれません。日本はキリスト教国ではないし、クリスチャン・ホームに育っていないと、神様のもとにある幸せというものを知りません。でも心配は要りません。イエス様はそういう人もあるので、このような譬えを通して、神のもとにある幸せや神の国のことを教えて下さるのであります。また、この弟息子のように、父のところにいた体験があったとしても、そこにある本当の恵みや喜びには気づいていなかったのであります。そのことが、この後の父との再会で明らかになります。

3.父の非常識な対応
 弟息子は、父に対してどのように言うかを考えながら、故郷に向かいます。ところが、20節にあるように、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻しました。まだ遠く離れていたのに見つけたということは、父親は息子が必ず帰ってくることを信じて、待ち続けていたということであります。<あんな奴はだめだ>と思わないし、<もう帰って来ないから諦めるしかない>とも思わないで、ずっと帰って来ることを確信していたのであります。帰ってきた息子に対して、父親は咎めるような言葉は一言も述べていません。ただただ憐れに思って抱き寄せ、戻ってきたことを喜ぶのであります。ここに父親の愛情が示されています。
 ここまでであれば、まだ父親の気持ちが分からないでもないのですが、この後の対応は少々甘すぎるし、非常識ではないかと思えるほどであります。息子は、準備して来た言葉を述べ始めます。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』(21節)そこまで言ったとき、父親は後の言葉を遮るように、僕たちに命じます。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。』――弟息子は「雇い人の一人にしてください」と言うつもりでした。しかし、それを言う前に、父親は僕に命じて、息子としての服装や身支度をさせ、最大級の祝宴の準備をさせるのであります。ここには、少々度を過ごしているのではないかと思われる父親の喜び様が描かれています。このあと、25節以下には、畑に出かけていた兄息子が帰ってきて、喜びの宴で大騒ぎになっている家の様子を見て、父親に文句を言うのですが、その方が当たり前のように思えます。しかし、主イエスがこの譬で表そうとしておられることは、神様が私たちをどれほど愛しておられ、私たちが悔い改めて神様のもとに帰るということを、神様がどれほど待っておられ、お喜びになるか、ということであります。

結.生き返った息子
 このような常識を超えた神様の愛は、ただこのように譬えとして表現されただけではありません。イエス様は、十字架と復活の出来事によって、神様の愛を実際に行われたのであります。そして、父なる神様は、自分勝手なことばかりしている私たちを、神の子の一人として、迎え入れようとして下さっているのであります。私たち人間は皆、この弟息子のように、身勝手であります。神様の賜物を自分の喜びのために勝手に用いてしまう不真実な者たちであります。けれども、神様は真実な方であります。たとえ私たちが裏切っても、真実を曲げられることはありません。私たちが、真実なる神様のもとに立ち帰るのを、喜んで迎えて下さるのです。
 24節で父親はこう言っています。『この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかったからだ。』これと同様の言葉は、このあと、文句を言った兄息子に対しても、32節で述べています。『だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』――弟息子は死んでいたと言われています。弟息子が神様のもとを離れることは、自分らしい生き方をするためでありました。より良く生きようとしたのでありました。しかし、それは父親からすれば、死ぬことでありました。ここで死ぬとは、肉体の命がなくなることではなくて、父親と子の関係が切れてしまうことであります。私たちが自分勝手に生きることは、神様との関係が切れた生き方をすることであり、それは実は死を意味するのであります。ですから、父親のもとを離れていた息子が帰って来たことは、「死んでいたのに、生き返る」ことなのであります。復活したのであります。そこには父親の大きな愛と赦しがありました。私たちが神様のもとを離れて、気侭な生き方をすることは、死ぬことであり、神様のもとに立ち返って、イエス・キリストの十字架の故に赦されることは、生き返ることなのであります。こうして、出来た神様と私たちの関係というのは、ただ昔の関係の回復ではありません。父親のもとに帰った弟息子は、日々感謝と喜びをもって、父親と共に働いたにちがいありません。それと同じように、イエス・キリストによって生き返った私たちと神様との関係は、以前とは違って、感謝と喜びに満ちた関係であります。父なる神様の御心に従って、自分の賜物を生かすことに生き甲斐を感じる生き方へと変えられるのであります。
 最後に、兄息子のことにも少しだけ触れておきます。兄息子は弟息子に対する父親の対応に不満を抱きました。父親の喜びを喜びとすることが出来ませんでした。彼はずっと父親の言いつけを守って過ごして来ましたが、その内実は、父親の心とは離れていたのであります。父親の近くにいながら、実は、その心は弟息子と同様に遠くにあったのであります。私たちも、この兄息子のように、忠実な礼拝生活をし、神様の御心に添って生きていると思っているのですが、いつの間にか、神様の喜びを喜びとすることが出来なくなってしまって、御心から離れてしまっているのではないかと、この兄息子の態度を通して問われています。
 そのような兄息子に対して、父親は最後に言いました。「いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」父親はこう言って、父の心から離れている兄息子をも、喜びに招きいれようとしています。そのように、神様は、身勝手な生き方をして遠くにいた私たちをも、また近くにいながら御心から離れてしまっていた私たちをも、主イエスによる復活の喜びの席へと招いて下さっているのであります。
 祈りましょう。

祈  り
 主イエス・キリストの父なる神様!
 かねてより、あなたのもとに導かれ、あなたと共に生きるよう招かれて、様々な賜物もいただきながら、あなたに祈りつつ生き方を求めること少なく、自分勝手な生き方をして、あなたから遠く離れてしまっていたことを思い、懺悔いたします。
 そのような私たちを、お見捨てにならず、イエス・キリストの贖いの故に、もう一度喜んで受け入れて下さり、新しい復活の命に生きることが出来るようにして下さったことを感謝いたします。
 どうか、絶えず、あなたの御言葉に聴き続け、喜んであなたに従って行くものとならせて下さい。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年5月9日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書15:11-24
 説教題:「我に返って」
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