序.譬の中のどこに自分が?
 先程、後で朗読したルカによる福音書15章の「見失った羊のたとえ」という小見出しがついた箇所は、大変よく知られた箇所でありますし、初めて聞いた人でもイエス様が言おうとされていることをほぼ理解できるのではないかと思います。しかし、イエス様の譬え話には、必ずひっかかる所があります。常識とは違う所があります。この譬えにもあります。実はそこに、大切なポイントが隠されていることが多いのです。またイエス様の話は、理屈で理解しただけでは、聞いたことにはならないのであります。イエス様はその話によって、聞く人と出会おうとしておられます。ですから、そこで語られていることを他人事として聞いていて、この私に語って下さっている言葉として聞いていなければ、聞いたことにはならないのであります。譬えの場合、そこに登場する人物やモノは誰か(乃至はあるグループの人たち)を表わしていますが、それが自分とは全く違う人たちとして聞いていると、その譬えは自分とは関係のない話になってしまいます。<譬えの中のどの人物やモノが自分のことなのか>ということを考えながら聞く必要があります。そういう点では、今日の「見失った羊」の譬えで、誰でもすぐ気づくことは、この「見失った羊」とは、私たちのことではないか、ということであります。それは間違ってはいません。しかし、それだけの読み方では、この話全体の核心に触れたことにならないのであります。従って、イエス様の御言葉が私たちの中に鋭く深く入り込んで来ることにはなりません。イエス様の譬えには、必ずそれを話された状況があり、語っておられる相手があります。その相手が実は自分であることが分かった時に、イエス様の話を本当に聞いたということになるのではないかと思います。そういう意味では、今日の話は、分かり易いようで、核心を取り違え易い話なのであります。

1.羊飼いに見出される喜び――羊の立場
 まず、4節から6節までの、イエス様が話された譬えの部分から見て行きたいと思います。その前半の4節では、「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」と言っておられます。羊と羊飼いの関係というのは、聖書の中でよく譬えとして出て来ます。先程朗読した旧約聖書のエゼキエル書もそうですし、よく知られているのは、詩編23編の「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」という箇所であります。しかし、私たちは当時のユダヤ人とは違うので、羊と羊飼いの実際の関係というものを、よく知りません。余談になりますが、去年10月、鳥取西部牧師会で聖公会の先生の話を聞きました。あそこの教会は幼稚園を持っていますから、先生は幼稚園児にもお話をされることがあるのですけれど、この「見失った羊」の譬えを幼稚園児に話しても、子供は羊飼いが羊を飼っている様子を見たことがないので分からないだろうと考えて、羊の代わりに、子供たちに身近なクレヨンに置き換えて話されたそうです。クレヨンで西瓜を描こうとしたのですけれど、赤色が一本足りないので、黄色のクレヨンで描いたら、お月さんになってしまったという話をされて、クレヨンの一本一本がなくては絵が描けないように、皆さんも一人一人が神様にとってはなくては困るのだよということを話されたそうです。それはさておき、聖書の解説書などを見ますと、羊飼いというのは沢山の自分の羊の1匹1匹の名前を覚えているし、羊の方も自分の名前をよく知っていて、名前を呼ばれるとすぐに寄って来ると言います。ですから、羊が1匹でもいなくなると、どの羊がいなくなったのか、すぐ分かるそうです。羊飼いは迷子になった一匹の羊を見つけ出すまで、名前を呼びながら捜し回るのだそうです。場合によっては、羊飼いは自分の身の危険を冒しながら、羊を助けるという場面も想像できます。(崖の下に迷い込んだ羊を命がけで助け出そうとする羊飼いを描いた絵をどこかでご覧になったことがあるかもしれません。)
 イエス様がなぜここで「見失った羊」の譬えを話されたのでしょうか。1節、2節には、この譬えを語られた時の状況が説明されています。1節に、徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た、とあります。「徴税人」というのは、当時ユダヤを支配していたローマのために税金を取り立てる仕事をしていた人たちです。ユダヤの人たちはローマの支配を快く思っていませんでした。その上、徴税人は決められた以上の取立てを行って私腹を肥やしていたようですから、ユダヤ人からは嫌われていました。彼らは経済的には裕福でしたが、ユダヤの社会からは疎外されていました。「罪人」というのは、ユダヤの律法を守れない人たちです。盗みや詐欺、姦淫・売春などの罪を犯した人たちで、貧しい階層の人たちであったと考えられます。彼らも社会から疎外された人たちであります。そうした人たちがイエス様の所に「近寄って来た」というのは、イエス様がそういう人たちを無視したり、差別することはなさらず、むしろ彼らを憐れまれて、彼らと席を同じくすることも厭われなかったからであります。イエス様はそうした人たちをこそ救いたいとお考えになったのであります。「見失った羊」とは、まさに徴税人や罪人たちのことであり、道を誤って、神様のもとから迷い出してしまった人たちのことであります。世の中からはじき出されてしまった人々、多くの人々から取り残されてしまった人々、もしかすると教会からもはじき出された人、そのような羊を助け出すために、命を惜しまない羊飼いとは、イエス様御自身のことであります。
 このイエス様の譬えに、ひっかかりを感じられる方がいらっしゃるのではないかと思います。それは、羊飼いが99匹を野原に残して、見失った1匹を捜し回るという点です。迷わなかった99匹はどうなるのだろう、と心配になります。見失った1匹を捜すよりも、残った99匹を大切にした方が良いのではないか、とさえ考えます。この点について、「日曜学校」誌で今回のテキストの箇所の教案を執筆された青木先生は、上林順一郎という牧師の説教を紹介されています。上林牧師はこのように語っておられるそうです。「羊飼いが99匹の方を大切にして、見失った1匹を捜しに行かなかったとする。しばらくすると、もう1匹を見失った。残りは98匹。当然捜しに行かない。しばらくすると、また1匹を見失った。残りは97匹。今度も捜しに行かない。こうして1匹ずつ見失って、残りが2匹になり、その内の1匹を見失ったとき、彼は初めて、自分がどの羊をも愛していなかったことに気付く。ただ数の多い方を選んだだけだったのだと気付くのです。」――数の多さではなくて、本当は1匹1匹が、かけがえのない1匹であることを忘れていたということです。見失った1匹のために自分の身の危険をも顧みないで捜し回る愛こそが、100匹の羊を守り抜くことになる、ということでしょう。神様はそのような愛をもって、罪を犯して迷い出しがちな私たちを捜し求めていて下さるということが、この譬えで語られている第一のメッセージであります。
 この譬えのこのような聞き方は、小見出しにあるように、「見失った羊」の立場で聞く聞き方であります。この聞き方で、羊である私たちに対するイエス様の大切なメッセージを受け取ることが出来ました。しかし、この聞き方だけでは、まだ譬え話の前半しか聞いたことになりません。

2.見失った羊を見つけ出した喜び――羊飼いの立場
イエス様が話された譬えの後半は5節、6節ですが、こう話されました。「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」――ここには見失った羊を見つけた羊飼いの喜びが、少々大袈裟すぎるのではないかと思われるくらいに語られています。ここには見つけられた羊の喜びは何も述べられていなくて、見つけた羊飼いの喜びが、友達や近所の人々まで巻き込んで一緒に喜ぶほどのものであることが強調されています。
 先程、讃美歌247番を歌いました。この讃美歌はイザヤ書53章6節を題材にしたものであることが、楽譜の右下に記されていますが、今日の箇所も題材にしていることは明らかであります。しかし、ここで歌われている内容は、「檻をはなれ、こころのまま、さまよう羊と、われはなりぬ」で始まっているように、自分を迷い出た羊になぞらえて歌っているのでありまして、最後には、「楽しくわが世を、おくらまほし」と自分の喜びを歌っています。この譬えからそのように聞くことは、間違っているわけではありませんが、この讃美歌には、羊飼いであるイエス様の労苦は歌われている(2番)ものの、羊飼いの喜びは歌われていません。しかし、イエス様の譬えで強調されているのは羊飼いの喜びであります。イエス様が私たちを見つけ出すことを、これほどに喜んで下さるということが語られているのであります。イエス様の喜びがあるからこそ、私たちの喜びも確かになるのであります。
 この譬えをよく見ると、なぜ羊を見失ったのかという原因については何も述べられていません。「見失った」という訳は、羊飼いの方に落度があったかのような印象がありますが、口語訳のように「いなくなった」という訳の方がよかったかもしれません。いずれにしろ、この譬えの中では、羊の過ちは問題にされていません。羊が群れからいなくなったという事実が、羊飼いにとっては放置できないことなのです。99匹を野原に残して、見失った1匹を捜し回るということは、私たちにも奇異に感じられるように、誤解を招きかねない行動です。しかし、羊飼いは、何と誤解されようと、見失った羊を捜しに出かけて行くのであります。
 イエス様の周りには、徴税人や罪人が集まって来ていました。それを見たファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだしました(2節)。彼らはイエス様の行動を非難しております。しかし、イエス様は、何と非難されようと、迷い出てしまった徴税人や罪人と言われる人々を放って置くわけには行かないのであります。彼らを見つけ出し、彼らに神様のことを話し、彼らと一緒に食事をすることが喜びなのであります。そして、そのことをファリサイ派の人々や律法学者も含めて、皆と一緒に喜びたいのであります。そのためには、イエス様は大きな誤解を受け、わが身を危険に曝さなければなりません。見失った羊を捜し回る道、罪人を捜し求める道は、十字架にまで通じていることを御存知であります。しかし、イエス様は見つけ出す喜びのために、敢えてその道を進もうとされるのであります。そして、実際に、十字架の上の喜びへと凱旋されるのであります。十字架上で、隣の犯罪人の一人に、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。見失われた羊が見つかったことを喜んでおられるのであります。
 イエス様は7節でこう言っておられます。「言っておくが、このように、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」――このように、失われた私たちを見つけ出すことを、神様はどれほどお喜びになるかということが、この譬えで語られている第二のメッセージであります。

3.見つけ出すことに不平を言う人たち
ところで、この譬えをイエス様は誰に向かって語られたのでしょうか。先程2節で見たように、ファリサイ派の人々や律法学者たちがイエス様のことを、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだしたので、彼らに語られたのであります。
 ファリサイ派の人々とか律法学者というのは、律法に厳格な人たちであります。自ら律法をよく守っていると思っていますし、人々からも尊敬を受けていた人たちで、当時のユダヤの民衆の指導者たちであり、良識を代表する人たちであります。彼らは、道から外れた見失った羊よりも、正しくて、野原に残っている99匹の迷わない羊の方が大事な人たちであります。彼らはイエス様が徴税人や罪人とされている人たちと親しくしておられる行動を理解できません。理解できないだけでなく、イエス様の行動は間違っていると非難しているのであります。そのようなファリサイ派の人々や律法学者たちに対して、この譬えを語られたのであります。
 私たちはここまで、まず、譬えの前半から、「見失われた羊」の立場で、この譬えで語られているメッセージを聞きました。次に、譬えの後半で語られていることから、「見失った羊を見つけて喜ぶ羊飼い」の立場を思い巡らしつつ、羊飼いであるイエス様(そして天の神様)が罪人の悔い改めをどれほど喜ばれるかというメッセージを聞きました。いずれも、私たちにとって、重要なメッセージであります。しかし、この譬えは、直接には、羊である徴税人や罪人に語られたのではなく、また、イエス様の立場を支持する弟子たちに語られたのでもなく、ファリサイ派の人々や律法学者たちに語られたのであります。ということは、私たちがこの譬えを聞くときに、自分がファリサイ派の人々や律法学者たちと同じ所にいるということに気づかなければ、この譬えを自分のこととして聞いたことにならない、ということであります。
 私たちはファリサイ派の人々や律法学者たちとは違うと思っているのではないでしょうか。彼らのように、イエス様に敵対なんかしていないと思っています。イエス様の理解者であると思っているかもしれません。しかし、徴税人や罪人が話を聞こうとしてイエス様に近寄って来ることに対して理解しているでしょうか。彼らは当時のユダヤ社会では問題ありとされていた人たちであります。教会では、たとえ社会的に問題があるような人であっても喜んで迎えなければならない、と私たちは思っています。現に、教会の雰囲気に多少そぐわないような人でも受け入れているつもりであります。しかし、そのような人の存在によって、何か不都合なことが起こるとか、嫌な思いをさせられると、排除したくなったり、同席できなくなったりすることがあります。
 私が前に属していた大阪北教会は、中之島地区にあって、以前は川べりや公園にホームレスの人が沢山テントを張っていました。先生はそういう人たちとも交わりを持つようにしておられましたので、そういう人たちの中から、礼拝にやって来る人がいました。中には礼拝後の食事を当てにして来ていると思われる人もいました。そのうちに、北教会では炊き出しの奉仕もするようになりました。しかし、そういう活動に積極的でない人、むしろそういう活動は考え直した方がよいのではないかという意見を持つ人も出て来ました。炊き出しは今も続けられていますが、消極的な意見を持つ人が今もないわけではありません。確かにホームレスの人が同席している礼拝は雰囲気が変わります。そういう雰囲気に馴染めずに、教会に来なくなる人がいるかもしれません。聖書で「罪人」と言われている人と、ホームレスの方たちを同列にするわけではありませんが、私たちの心のどこかには、教会の中は、自分たちと同質の人たちであってほしい、一般社会に馴染めないような人や、他の人とうまくやって行けない人、教会の中で問題を起こしそうな人は御遠慮願いたいという思いがあるのではないでしょうか。ファリサイ派というのは、自分たちを清く保って、罪人たちからは分離しようとする人たちであります。私たちはいつの間にか、ファリサイ派の人たちのように、人を裁いて、自分はそんな人とは違うのだと思って、分離していることがあるのではないでしょうか。そうであれば、そんな私たちにこそ、今日のイエス様の譬が語られているのであります。イエス様は、人々から差別され、現に問題を起こしているような人と共におられます。そして、そのような人が群れから見失われたならば、他の人たちを残しても、見つけ出すまで捜し回って、見つけたら、喜んでそのような人を担いで帰って、他の仲間も呼び集めて、「一緒に喜んでください」とおっしゃるのであります。私たちは、<このイエス様と一緒に喜べますか>、と問われているのであります。私たちがファリサイ派の人々や律法学者たちと同じであることを認めて、その立場で今日のイエス様の譬えを聴くのでなければ、これを聴いたことにはならないのであります。<自分こそ、このファリサイ派の人々や律法学者たちと同じだ>、と思って聴く時に、この譬は今日、私たちに向けられた御言葉になるのであります。

結.一緒に喜んでください
 そのような観点からこの箇所を見直しますと、気がつくことがあります。それは、神様の御心から離れているのは、徴税人や罪人とされている人たちだけではなくて、イエス様のしておられることを批判し、イエス様のお心を理解できないでいるファリサイ派の人々や律法学者たちなのではないか、ということであります。この人たちは、自分たちは神様の掟をしっかり守っている立派な人間だと思っているのですが、実は、イエス様の望んでおられること、イエス様が何をお喜びになるのかということが分かっていないのであります。そういう意味で、本当はこの人たちこそ、羊飼いであるイエス様から迷い出た羊だと言えるのかもしれません。この人たちこそ、罪人なのであります。イエス様はそのような羊をこそ、捜し求めておられるのであります。
 私たちはどうでしょうか。自分は迷った羊だと思っているなら幸いであります。イエス様の群れから外れた所で、あるいはイエス様の群れから迷い出て、神様の御心に反することをしていたと思うならば、良い羊飼いであるイエス様が見つけ出して、イエス様に喜んでいただけます。――しかし、自分はまともな羊であり、羊飼いの近くにいると自負していて、少し外れた人を冷たい目で見ているならば、実は、それこそイエス様のお心から離れている迷った羊なのであります。しかしイエス様は、そんな迷った羊を、今日も捜し求めて、私たちの所に来て下さっているのであります。そして、罪人たちと同じ席でイエス様と一緒に喜ぶことを逡巡している私たちに向かって、「一緒に喜んでください」と言って、喜びの席へと招いておられるのであります。私たちがその招きに応えて、羊飼いであるイエス様と同じように、迷い出した羊が見つかったことを喜ぶことが出来るならば、その私たちの悔い改めについてこそ、「大きな喜びが天にある」のであります。
 祈りましょう。

祈  り
 憐れみ深いイエス・キリストの父なる神様!
 迷いがちな私たちを、今日もこのところにお招きくださって、イエス・キリストによって備えられた赦しと喜びの座へと招き入れてくださったことを感謝いたします。
 頑なに自分の立場にしがみつき、自分の正しさを主張して、誤った道に行ってしまう私たちでありますが、どうか、そのような私たちを引き戻して、謙遜にあなたの肩に担いでいただく羊とならせてください。
 どうか、あなたの喜び給うことを喜ぶことのできる者とならせてください。
 どうか、あなたから遠ざかって、迷いの道にある者を、あなたが見つけ出して、救い出してください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年5月2日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書15:1-7
 説教題:「一緒に喜んでください」
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