序.恐れの中にある私たち
 先程、聖書の2箇所を読んでいただきましたが、どちらにも「恐れるな」ということが言われていました。旧約聖書の申命記の方は、神様がイスラエルの民に対して言われたものであり、新約聖書のルカによる福音書の方は、イエスさまが弟子たちに語られたものですが、これらはまた、今日、神様が私たちにも語っておられることであります。イスラエルの民や弟子たちが「恐れるな」と言われたのは、彼らが恐れていたからであります。イスラエルの民はいつも大国の圧力のもとで恐れていました。弟子たちは宣教に遣わされましたが、「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と言われるように、迫害の恐れがありました。私たちにも今日、「恐れるな」と語られるのは、私たちも恐れているからであります。
 私たちは普段、平静を装っています。しかし、内心は様々な恐れに囚われているのではないでしょうか。自分や家族の将来に対する不安や恐れがあります。病いや老いや死に対する恐れがあります。仕事や人間関係に対する不安や恐れがあります。人からどう思われるのか、どう評価されるのかが心配であります。孤独ヘの恐れがあります。また、これからの日本はどうなって行くのだろうか、生活は大丈夫か、環境は守られるのか、平和は保たれるのだろうか、という不安があります。教会もまた恐れから免れているわけではありません。どこの教会も高齢化が進み、若い人は無関心なため信者の数がどんどん減って来て、閉鎖する教会も出て来ています。牧師になる人が少なく、兼任の教会も増えています。
イエス様は、そのような様々な恐れの中にある者に向かって、「恐れるな」と語られます。それは、単なる励ましではありません。イエス様は、恐れる必要がない理由を語られます。今日は、ルカによる福音書12章で語っておられるイエス様の御言葉に耳を傾けることによって、「恐れ」から解放されたいと思います。

1.恐れの原因
 先週もお話しましたが、イエス様は、天に上げられる時期が近づいて、弟子たちと共にエルサレムに向かっておられます。その旅の途中で村々町々を訪れて、神の国の福音を宣べ伝えたり、敵対する人たちと論争したりしておられます。12章の初め(1節)を見ますと、とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった、と書かれています。イエス様への関心が高まって来て、喜ばしいことのように思えます。確かに、イエス様の話を聞きたい、イエス様に癒していただきたいという人たちも大勢いたでしょうが、イエス様に敵対する人たちもやってきて論争を仕掛けて、イエス様を陥れようとしておりました。そんな群衆に取り囲まれて、弟子たちは喜んでいるというよりも、恐れていたのであります。イエス様はそういう弟子たちの弱さを気遣っておられるのであります。
 1節の後半を見ていただきますと、イエス様は弟子たちにこう言っておられます。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。」――11章の終わりには、ファリサイ派の人々と律法の専門家に対するイエスさまの非難の言葉が続いておりました。その続きで、パン種のように膨れ上がる彼らの偽善に注意するように言っておられます。だからこれはファリサイ派の人たちに騙されないように警戒せよということでありますが、それは同時に、弟子たちもまた偽善に落ち込んでしまうから、気をつけなさい、ということであります。なぜ人は偽善に陥るのか。それは、人の目や口を気にするからであります。人にどう思われているかを意識するときに、偽善のパン種がふくらみます。ファリサイ派の人たちも人々の評価を恐れて偽善者になっていました。弟子たちも、集まって来る人々の評価を恐れて偽善に陥ることを、イエス様は見抜いておられるのであります。私たちの恐れの原因には、単純に先が見えないことから来る恐れとか、不慮の事故や病気に対する恐れというのもありますが、最も心を悩ますのは、人からどう思われるかという恐れではないでしょうか。たとえ不幸な状態に陥ったとしても、人から軽蔑されたり、無視されなければ、人は我慢が出来るのであります。それで、何とか体面を保とうとします。だから、偽善に陥るのであります。私たちの恐れの根底には人の目に対する恐れがあると言えるのではないでしょうか。

2.恐れる必要がない理由
 このような私たちの恐れに対して、イエスさまは恐れる必要がない理由を三つ挙げておられます。今日の4節以下で「恐れてはならない」ということを二回言っておられますが、実はマタイによる福音書の並行箇所(マタイ10:26以下)では、もう一回言っておられて、それはルカによる福音書で言えば、2節の前の部分です。それらの三回の「恐れてはならない」と言って語られたことが、恐れる必要がない三つの理由であります。

2-1.明るみに出される
 まず、一つ目は、2節,3節ですが、マタイでは「人々を恐れてはならない」という言葉が頭についているのですが、その後で、ここに書かれているように、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」と言われました。
 この意味は、直接的には、<人の目を気にして、偽善的に上辺を取り繕っていても、やがて真実が明るみに出るから、上辺を繕っても駄目だ>、というように受け取ることが出来ます。それは<ファリサイの人たちは自分たちが正しいことを偽善的な行為で誇っているけれども、いずれ化けの皮が剥れるから、恐れるに足りない>という意味と、<あなたがたも偽善に陥っていると、化けの皮が剥れるから、気をつけなさい>という警告の意味の両方に受け取ることが出来ます。しかし、イエス様がここで「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」と言っておられるのは、それだけの意味ではないと思います。この段階では、イエス様は既に御自分の死と復活のことを予告しておられましたが、その事実はまだ起こっておらず、救いの御業は覆われた状態でありました。しかし、やがてその覆いは取り除かれ、明るみに出されるのであります。そうなれば、私たちが罪から救われることが明らかになります。そうなれば、誰も偽善的に自分は良い行いをしているかのように、上辺を飾る必要はなくなるのであります。そうなれば、誰の目をも恐れる必要がなくなるのであります。もっとも、イエス様の十字架と復活の出来事が起こってからでも、それを信じることが出来ない人には、救いの恵みは覆われたままになります。最後の終わりの時まで隠されたままになります。しかし、その時まで、救いの御業は、「屋根の上で言い広められる」ように、堂々と大声で世界中に言い伝えられるのであります。ですから、私たちは人の目を恐れて、繕う必要はありません。神さまは私たちの醜い部分、罪にまみれた部分をも受け入れて、赦して下さるのであります。これが、恐れる必要がない一つ目の理由であります。

2-2.体を殺しても何もできない
 二つ目の恐れる必要がない理由は、4節であります。「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」と言っておられます。冒頭で弟子たちのことを「友人であるあなたがた」と呼んでおられます。私たちは3月までヨハネによる福音書を学んで来ましたが、その15章15節で、イエス様は弟子たちに「わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。・・・わたしはあなたがたを友と呼ぶ」とおっしゃっていました。人の目や口を気にして偽善に陥ってしまう弟子たち、そしてやがて、イエス様を裏切ってしまう弟子たち、――そんな彼らをイエス様は親しみを込めて「友人」と呼ばれるのであります。イエス様は当時の弟子たちだけでなく、今日の弟子である私たちにも、「友人であるあなたがた」と言って下さるでありましょう。私たちも、人からどう見られるかを気にして戦々恐々としています。上辺は信仰者としての生き方を取り繕っていますが、神様の言葉よりも、人の目や言葉の方が怖いのであります。そんな私たちを、イエス様は「友人」と呼んで下さるのであります。
 そして言われます。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」私たちは病気や事故や災害によって命を奪われることを恐れます。しかし、そうしたことは恐ろしいですけれども、出来るだけの対策はして、不運にもそういうことに遭遇すれば、それは止むを得ないこととして諦めているところがあります。しかし、ここで言われているのは、敵対者たちの迫害によって命を奪われることであります。ここで「体」と言われているのは、肉体的な体だけでなく、「人格」と受け取ってもよいでしょう。人格を否定されることは最大の屈辱であります。ある意味では肉体の命が奪われるよりも恐ろしいことであります。「あいつは駄目な奴だ」と思われることが恐ろしいのであります。
 しかし、イエス様は私たちを「友人」と呼んで下さるのであります。決して私たちの人格を粗末に扱われません。むしろ、私たち一人一人の人格が罪によって損なわれないために、御自分の命さえ惜しまずに献げてくださるお方であります。もちろん、私たちの肉体の命も最大限に生かして用いて下さるはずであります。
 ただし、肉体の命には限度があります。私たちは罪人ですから、いずれは死の時を迎えなければなりません。場合によっては、弟子たちが恐れていたように迫害に遭うとか、厳しい境遇の中で、命を縮めなければならない場合があるかもしれません。けれどもイエス様は、「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」とおっしゃいます。私たちは、死んでしまったら最悪だと思うのですが、イエス様は、最悪でも死ぬだけで、それ以上のことは起こらない、と言われるのです。では、「それ以上」のこととは、どういうことでしょうか。5節を見ると、「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ」と言っておられます。恐ろしいのは、死ぬことではなくて、死んだ後で地獄に投げ込まれることです。地獄というと、えん魔大王を思い浮かべたり、聖書で言えば旧約聖書のダニエル書でダニエルがネブカドネツァル王によって投げ込まれた燃え盛る炉を思い出すかもしれませんが、そのような肉体的苦痛というよりも、地獄とは神様との関係が断たれることであります。「永遠の命」とか、「天国」というのは、何の苦しみもない、楽園にいるような状態のことではなくて、神様との良い関係が保たれることですが、その反対が「地獄」であります。もし、死んだ後で天国に行けるのであれば(言い換えれば神様との良い関係が続くのであれば)、死ぬことは決して恐ろしいことではありません。天国に行けるか、地獄に行くかを決めるのは神様です。ですから、私たちが恐れなければならないのは、病気や事故や災害ではなく、また私たちを苦しめる人たちや、命を縮めるような困難な状況ではなくて、すべての権威を持っておられる神様です。では、どうすれば天国に行けるのでしょうか。どうすれば神様との良い関係を保つことが出来るのでしょうか。――心配は要りません。イエス様が私たちを「友人であるあなたがた」と呼んで下さっています。そのイエス様が執り成しをして下さいます。イエス様を信頼しておればよいのであります。

2-3.髪の毛まで数えられている
 恐れる必要のない三つ目の理由は、6節以下に述べられています。「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
 一アサリオンというのは、聖書の後ろにある度量衡の解説によれば、ローマの青銅貨で、銀貨の1デナリオンの1/16ということです。1デナリオンは1日の賃金に相当したそうですから、今の日本の価格に換算すると1万円とすれば、1アサリオンというのは5~600円程度になります。5羽で2アサリオンですから、1羽では200~240円程度で、生き物の値打ちとしては小さなものであります。そのような値打ちのないものでも、父なる神様の許しがなければ、地に落ちて命を失うことはないのであります。まして、人間の命が、神様の御心なしに取り去られることはないということであります。それどころではありません。神様は私たちの髪の毛までも一本ずつ残らず数えておられるのであります。どんな小さなことでも神様は私たちのすべてを知っていて下さるということです。
 私たちの恐れの一つの原因は、誰にも知られていないことへの恐れであります。孤独の恐れと言ってもいいでしょう。私たちは誰も、人には知られたくない弱い部分を持っています。克服したいと思いつつも、克服できない弱みや醜い部分があります。それを人には隠しています。だから独りで耐えたり、乗り越えなければなりません。それは恐ろしいことであります。反対に、私たちは誰でもそれぞれに誇りを持っています。誇れるようなことが何もないとか、また小さな誇りで誰にも知ってもらえないとしたら、生きていけません。よい面も悪い面も、誰にも知られていないことは孤独であります。恐ろしいことであります。
 しかし、恐れる必要はないのです。神様は私たちのどんな小さな弱みも、どんな小さな強みも、全て御存知であります。私たちの日常に起こる些細な失敗や、小さな手柄も知っておられます。人知れず流す涙や悔しさや、誰にも気づいてもらえないと思っている苦しみも神様は知っておられます。私たちの隠れた祈りや、小さな奉仕も御存知であります。神様は私たちのした良い事、悪い事の全てを御存知であります。それは恐ろしいことのように思えるかもしれませんが、神様は私たちがした小さな悪い事のためにも、大きな悪い事のためにも、共に悲しんで下さり、その責めを共に担って下さるお方であります。御子イエス・キリストの命をもって負って下さるお方であります。反対に、私たちがした小さな働きを御自分のこととして喜んで下さるお方であります。私たちのした事が虚無の中に消え去ることはありません。良い事もそうでないことも、全てを知っていて、最善の結末へと導いて下さるのであります。だから、恐れる必要はありません。

3.恐れるべき方
 ここまで、私たちの恐れの原因は人の目を恐れるところから来るのだけれども、人の目を恐れる必要がない三つの理由を聞いて来ました。一つは、覆われていたイエス様の救いが明らかになると、私たちの弱さ・醜さ・罪といったマイナス面が神様に受け入れられ、赦されることがはっきりするので、もはや人の目を恐れる必要がなくなるということ、二つ目は、たとえ人から人格を否定され、生きることを否定されたとしても、神様との関係は永遠に損なわれることがないので、恐れる必要がないということ、そして三つ目は、仮に誰からも無視されたり、認められなくても、神様は私たちの全てを知っておられ、私たちを生かして下さるから恐れる必要がないということでありました。
 このように、私たちは人の目を恐れる必要はないし、恐れてはならないのでありますが、唯一恐れなければならないのが、5節で言われていますように、「地獄に投げ込む権威を持っている方」すなわち、神様をこそ、恐れるべきなのであります。「恐れる」ということは、<怖(こわ)がる><恐怖>という意味も確かに含まれています。神様は厳しい裁きをなさいます。地獄に投げ込まれるというのは、神様との関係が永遠に断たれることだと申しました。それは正に恐怖であります。しかし、「恐れる」という漢字は「畏怖」の「畏」という文字も使いますように、神様を<畏敬する>、<信じる>という意味が含まれています。神様は私たちのすべてを知っておられ、私たちの弱さを受け入れ、罪を赦し、神様との損なわれた関係をも回復することを願っておられるお方であります。<そのお方をこそ、イエス・キリストの故に恐れつつ信じなさい>、ということが、ここでイエス様が私たちに命じておられることであります。

結.たくさんの雀よりもまさっている
 最後にイエス様は、「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」とおっしゃっています。人間が雀よりも優っているのは当たり前で、どれだけ多くの雀と比べても人間の方が優っているのは当たり前だと思われるかもしれません。しかし、ここでイエス様が「優っている」とおっしゃるのは、人間が雀よりも力が強いとか知恵があるということではありません。人間が優っているのは、神様の言葉を聴いて、神様を信じて礼拝できるという点であります。神様は、このように礼拝している者を、決して忘れたり、地獄に行くままに放っておかれるようなことはなさいません。何とか神の国に入れようとして下さいます。神様とのよい関係を永遠に保たせようとしてくださいます。だから、私たちは何も恐れることがないのであります。祈りましょう。

祈  り
 救い主イエス・キリストの父なる神様!
 イエス様を通して、今日、「恐れるな」との御言葉をもって、私たちを恐れから解放して下さいましたことを感謝いたします。
 私たちは人の目や口を気にして、恐れている者であります。どうか、イエス・キリストによって明らかにして下さった救いの恵みに絶えず心を向けさせて下さい。そして、どうか、あなたを礼拝し続ける者とならせて下さい。
 御言葉から遠のいていて、様々な恐れに囚われている者たちを、御許に招き寄せて下さり、恐れから解き放って下さい。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

けれども今日は、私たちに無くてはならないこと、御言葉を聞くことの恵みに与ることをさせてくださいました。感謝いたします。
どうか、マルタとマリアのように、私たちも、いつも御言葉を聞く恵みから漏れることがないようにしてください。どうか、御言葉を喜んで聞く者とならせて下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年4月25日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書12:1-7
 説教題:「だれを恐るべきか」
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