序.善い行ないの落とし穴
 今日与えられている聖書の御言葉は、先週聴いた「善いサマリア人」の譬えに続く箇所であります。そのよく知られた譬えでは、山道で追いはぎに襲われて半殺しになっている人を見かけた祭司やレビ人という立派な人たちは、その人に関わることを避けて、見て見ぬふりをして、道の向こう側を通り過ぎました。それに対して、ユダヤ人からは軽蔑されていたサマリア人は、半殺しになっていたユダヤ人を見て憐れに思って、丁寧に介抱し、宿屋まで連れて行って、必要な費用の負担までしました。この譬えでイエスさまが教えておられることは、ユダヤ人がサマリア人を隣人とは見做していなかったように、隣人の範囲を限定するのではなくて、サマリア人がしたように、困っている人を見つけたら、自分が隣人になって相手の必要を満たしてあげることが大切だということです。けれども私たちは、なかなかそのように出来ないのが現実です。そのような罪深い私たちのために、サマリア人に遥かに勝る大きな十字架の愛をもって助けて下さったのが、イエスさまその人である、というのが、先週聴いたポイントでありました。
 さて、今日のマルタとマリアの話は、一見「善いサマリア人」の話とは何の関係もないように見えますが、実は、二つの話を並べて読むように、筆者はここにマルタとマリアの話を持って来たらしいのであります。というのは、今度の話は譬えではなくて実話ですが、この姉妹が住んでいたのは、ここには「ある村」と書いてありますが、実はエルサレムにほど近いベタニアという村だということが、他の福音書から分かるのです。ところが、イエスさまがエルサレムの近くまで来られるのは、十字架が間近に迫った時で、ルカ福音書ではまだ大分先のことであります。それだのに、筆者のルカはどうしても、「善いサマリア人」の話と関連づけて読んでもらいたくて、ここに入れたと考えられるのです。
 では、この二つの話はどのように関係づけて読めばよいのでしょうか。マルタとマリアの話というのは、一読して分かるように、旅の途中で立寄られたイエスさまたちの一行をもてなすためにせわしく立ち働いていたマルタと、何もしないでイエスさまの足もとに座り込んで、じっとイエスさまの話に聞き入っているマリアが対比して描かれています。マルタは旅に疲れたイエスさまや弟子たちのことを思いやって、のどが渇いておられるだろうから、飲物を差し上げよう、お腹をすかしておられるだろうから、おいしい食事の用意もしよう、お泊りになってゆっくり休んでもらいたいから、部屋を掃除してベッドも整えようなどと、一行の必要を満たすために、山ほどあるしなければならないことを、次々とこなしていたのでしょう。これは大好きなイエスさまのためですから、サマリア人が追いはぎに襲われたユダヤ人を助けたのとは、状況は大きく違うのですけれど、相手の必要を満たすために、精一杯のことをしたという点では共通であります。イエスさまがエルサレムの指導者たちからは敵視されているという状況があったことを考えれば、その方をこのようにもてなすということは、勇気ある行動であったとも評価できるのであります。ですから、マルタのしていることはサマリア人がしたことと同様に賞賛されるべきことであります。
 しかし、そのマルタですが、マリヤが何も手伝わずに、ただイエスさまの話を聞いているだけなのを見て、腹立たしく思って、イエスさまに不満をぶっつけてしまうのであります。せっかく善いことをしていても、それを喜んで出来なくなっています。先週登場した祭司やレビ人は、自分の都合を優先して素直に隣人になれなかった人たちでありました。それとは違いマルタは自分の都合など考えずに、一生懸命奉仕しています。しかしそこにも、落とし穴があるのであります。それは私たちも落ち込み易い落とし穴であります。ルカ福音書の記者は、そこに目を向けさせようとするのであります。

1.二人の姉妹の迎え方
 順に見て行きましょう。まず38節を見ますと、一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった、とあります。イエスさまの一行は、何のためにこの村を訪れられたのでしょうか。951節を見ていただきますと、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあります。それまで主に活動しておられたガリラヤ地方を去って、十字架にお架かりになることになるエルサレムの都に向かって進んで行こうとされているのであります。しかし、エルサレムに直行なさるのでなくて、10章の初めに書かれていますように、途中の村々町々に立寄って、「神の国が近づいた」ということを人々に知らせようとしておられました。この村へ来られたのも、そういう目的があったと考えられます。ただし、先程触れましたように、マルタとマリアの姉妹が住んでいたのは、ベタニアというエルサレムにほど近い村であると考えられております。イエスさまがエルサレムに来られた時は、よくこの姉妹の家で泊まられ、ここを拠点にして、エルサレムでの活動をされたのではないかと推察されています。そして今回は、その最後の機会であったかもしれないのであります。既に、イエスさまに対するユダヤの指導者の敵意は高まりつつあったと考えられます。そのような中で、38節後半には、すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた、とあります。イエスさまの一行を迎え入れるということは、勇気の要ることであったに違いありません。マルタはお座成りな気持ちでイエスさまをお迎えしたのではありません。イエスさまに対する大きな尊敬と信頼があったからこそ出来たことであります。単に、イエスさまと以前から親しい関係にあったからとか、善意に基いてという以上に、イエスさまに対する信仰を持っていたと言ってもよいかもしれません。それが、40節の前半に書かれているような、いろいろのもてなしのためにせわしく立ち働く、という行動となって現れたのではないでしょうか。信仰に基づく行為であったのであります。 一方、マリアの方も、イエスさまを喜んでお迎えしたと思われます。以前からイエスさまのお話を聞くのが好きで、イエスさまが来られるのを待ち遠しく思っていたのかもしれません。この時も、マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた、と書かれています。「足もとに座る」という表現は、律法の先生のもとで弟子たちが学ぶ姿勢を指します。当時はまだ、女性が学ぶということはあまり奨励されなかった時代でありますから、マリアは与えられた機会を逃すまいと、熱心に聞き入っていたのでありましょう。それも、ただ<勉強好き>というだけではないでしょう。イエスさまもただ興味ある有益なお話をされていたというのではないのです。「天に上げられる時期が近づいた」という意識の中で、何とか一人でも多くの人に「神の国が近づいた」ということを伝えたいという思いをもって語っておられるのであります。切迫感をもって話しておられるのであります。マリアは、その勢いに引き込まれるようにして聞き入っていたのではないでしょうか。
 どうしてマルタとマリアの間にこのような違いが生じたのでしょうか。これは二人の性格の違いでしょうか。多分マルタの方がお姉さんと思われますが、彼女は実際家であり、行動的で指導力もあります。一方、妹と思われるマリアの方は、内面的で、静かに人の話を聞いたり、考えたりする方が性に合う、といった分析が出来そうです。確かに人間には両方のタイプあるようで、教会の中の人も、そういう色分けをすることが出来るかもしれません。こういう性格の違いが、様々な場面で行動や判断の違いとなって表れます。しかし、ここで問題となるのは、そういう性格の違いではありません。何が問題となるのか、この後を見ていく必要があります。

2.マルタの訴え
 40節の後半を見ますと、マルタはイエスさまのそばに近寄って言いました。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。――「そばに近寄って」という言葉は、ギリシャ語では「割り込んでくる」とか「暴れこんでくる」という意味を併せ持っています。イエスさまが熱意を込めて語られ、マリアがそれに聞き入っている所へ、マルタはづかづかと割り込んで来たのであります。「わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせています」と言っております。この言葉の裏には、自分がしていることは正しいという思い込みがあります。ここでマルタが使っている「もてなし」という言葉は、ギリシャ語で「ディアコニア」と言いますが、「奉仕」という意味の言葉で、元々は<食卓で接待する>という意味の言葉ですが、奴隷の給仕のように言いなりに仕えるということではなくて、<相手の利益のために奉仕する>という意味の言葉であります。マルタは義務的に働いているのではなくて、イエスさまや弟子たちに喜んでもらおうと思って、心から仕えているのであります。しかし、自分が忙しく立ち働いているのに、妹のマリアが何もしないで、ただじっと話を聞いているのを見て、腹が立って来たのであります。せっかく善いことをしても、人間は他の人と比べてしまいます。そして、自分が正当に評価されていないのではないかと不満を持ってしまいます。そして、善い業を喜んですることが出来なくなるのであります。その上、マリアを非難するだけでなくて、イエスさまに向かって、「何ともお思いになりませんか」と言って、イエスさまを非難しています。おまけに、「手伝ってくれるようにおっしゃってください」と言って、イエスさまに命令までしています。イエスさまよりも自分の方が上にあるかのような言い方であります。
 私たちもどうかすると、こういう思いに囚われることがあります。自分のしていることが正しい、人の役に立っていると自負している場合に、それを評価してほしくなりますし、他の人も自分と同じようにしないのは間違っていると思ってしまいます。教会における奉仕や献金なども、うっかりすると、そういう思いに囚われて、同じようにしていない人を見下げたり、非難したり、自分を誇る気持ちを持ったりしてしまいます。「善いサマリア人」は純粋に追いはぎに襲われた人を憐れに思って介抱しました。しかし、私たちの隣人愛や慈善活動には、いつも不純な思いが入り込んで来ます。
 更に言うならば、マルタはマリアが自分のようにしないことに対して不満を持つだけでなくて、マリアのしていることに全く理解がありません。イエスさまの話を聞くということの意義を認めていないのであります。ということは、イエスさまがしておられることに対しても理解がないし、むしろ不平を言っているのであります。これは言い換えれば、慈善活動や世の中の役に立つ仕事と、教会に来て礼拝することとどちらが大切か、という問題にもなります。教会に行って聖書の話を聞くことは、本人は慰められたり、教えられたりしてよいのかもしれないが、それよりも、社会に出かけて行って、困っている人、助けを必要とする人たちのために奉仕する方が、有益なのではないか、という問題であります。せっかく教会で「善いサマリア人」の話を聞いても、実行しないのでは意味がないのではないか、という批判であります。確かにイエスさまも、「善いサマリア人」の譬えを話されたあとで、律法の専門家に「行って、あなたも同じようにしなさい」とおっしゃいました。実行することが大切なのであります。しかし、自分は実行しているからと言って、イエス様の話を聞くために、イエスさまの前に座って、話に聞き入っている者を非難するのは、思い上がり以外の何でもありません。

3.必要なことはただ一つ
 さて、マルタの訴えに対してイエスさまはこうお答えになりました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
 イエスさまはマルタの訴えに従って、マリアに手伝うようには指示なさいませんでした。しかし、マルタが不満を抱いていることをお叱りにもなりません。むしろ、「マルタ、マルタ」と二度呼ばれたことには、マルタに対する愛情が込められています。そして、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と、マルタの心の中から喜びが失われてしまっていることを深く憐れんでおられます。マルタのどこに問題があるのでしょうか。なぜマルタは心を乱さなければならなかったのでしょうか。イエスさまは「あなたが多くのことに思い悩み」とおっしゃいます。マルタは気になる多くのことが頭にあるのであります。単細胞で一つのことしか考えられないのは問題であります。多くのことに気がついて、配慮が行き届くということは大切なことであります。しかし、多くのことに気が回っても、肝心のことが抜けていては何もなりません。どうしても必要なことは「ただ一つ」なのであります。イエスさまは山上の説教の中で、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、思い悩むな。・・・何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ62534)と言われました。イエスさまがマリアに話しておられた内容は分かりませんが、世間話をしておられたのではないでしょう。恐らく、他の町や村でも話しておられたように、神の国の話をしておられた筈であります。そのことを聞かないで、いくら隣人のために善い行いをしても、イエスさまのために手厚いおもてなしをしても、心を乱すことにしかならないのであります。私たちが思い悩み、心を乱すのは、全部自分が処理して解決しなければならないと思うからです。イエスさまは「思い悩むな」とおっしゃってくださいます。それは、イエスさまが一番よい解決をしてくださる、ということであります。私たちはイエスさまの解決にお任せすべきなのです。そうでないと、心が乱れてしまいます。
 「必要なことはただ一つだけ」という所は、実は写本によって若干違う表現がありまして、口語訳聖書ではそうした写本に従って、「無くてならぬものは多くない。いや、一つだけである」と訳されていました。「必要なことはただ一つだけである」というと、他のことは何も必要がないように聞こえますが、イエスさまはマルタのしていたことを必要ないこととおっしゃったわけではないでしょう。そうしたことも必要だが、なくてならないのは、イエスさまのお言葉に耳を傾けることだけである、というのが真意でありましょう。イエスさまは、食事を用意されたことも泊めてもらうことも、お喜びになったに違いありません。そのためにマルタのしたことは必要なことでした。けれども、イエスさまのお話が聞けないようでは、イエスさまもお喜びにならない、ということであります。イエスさまは自分の話に耳を貸さないから怒っておられるのではありません。イエスさまの話を聞いて、神の国の約束を信じてこそ、思い悩みと心の乱れから解放されるからであります。

4.聞くことから仕えることへ
 私たちが生きて行くためには、食事をすることも、寝ることも必要ですし、仕事をすることも、勉強することも、奉仕することも大切なことです。社会生活をする上では、自分に必要なことだけではなく、人のことも考えなければなりません。「善いサマリア人」の譬えでは、イエスさまも助けを必要としている人の隣人になることの大切さを教えてくださいました。
 しかし、そのような大切な愛の奉仕も、イエスさまのお言葉を聞くということが忘れられているなら、何にもならない、ということをおっしゃっているのであります。イエスさまの言葉を聞くことから出発しないと、せっかくの善い行いであっても、間違った方に行ってしまったり、息が続かなかったりしてしまうのであります。
 教会の奉仕も同じであります。教会の御用をすること、伝道のために働くことは、私たちがしなければならない数々の事の中でも上位にランクされるようなことであります。けれども、もし、イエスさまの御言葉に聞くことが疎かにされて、ただ教会の用事で忙しく立ち働いているだけでは、イエスさまはお喜びにならない、ということであります。礼拝において御言葉を聞くことから押し出されて、教会のために働いたり、隣人のために奉仕したりするのでなければ、神様に喜んでいただけるような働きも出来なくなってしまうし、その働きを喜んですることも出来なくなってしまう、ということです。現に、マルタがそうでありました。せっかくイエスさまのために直接御奉仕できる良い機会でありました。しかし、奉仕だけが先行するところには、イエスさまが指摘されているように、思い悩みや心の乱れしか起こらないのであります。本当の喜びが湧き上がって来ないのであります。

結.聞く者へと変えられる
 今日の箇所では、マルタとマリアが対照的に描かれておりました。そして、奉仕すること・善い行いをすることと御言葉に耳を傾けることが対照的に語られていました。しかし、ここで言われているのは、マリアの方が信仰的で、マルタは駄目だとか、御言葉を聞くことだけに意味があって、奉仕したり、善い行いをすることは意味がないということではありませんでした。今日の箇所では、マリアの行為が誉められて、マルタがしたことは非難されているように見えますが、実は、今日の箇所の主役はマリアではなくてマルタであります。というのは、今日の箇所の中では、マリアがイエスさまからどんな話を聞いたかは何も書かれていません。先程は中味を想像しただけであります。むしろ、イエスさまの語られた内容がはっきり書かれているのは、マルタに語られた言葉であります。マルタがイエスさまの言葉を聞いたのであります。
 初めはイエスさまのお話も聞かずに、もてなしの奉仕ばかりをしていたマルタですが、そのマルタが最も大切な御言葉を聞くことが出来たのです。マルタは、聞く耳を持たずに自分の方の思いをイエスさまにぶっつけました。しかし、イエスさまはそのマルタに御言葉を聞かせてくださったのであります。聞かない者を、聞く者へと変えてくださったのであります。マルタがイエスさまから大きなもてなしを受けたのであります。私たちもまた、今日、このイエスさまの恵みの御言葉を聞くことの出来る者としてくださったことを感謝したいと思います。
 祈りましょう。

祈  り

恵み深い父なる神様!
私たちは、しなければならないと思っている多くのことに、心を悩まし、心を乱しがちな者であります。時には御言葉を聞くことよりも、他にしなければならないことを優先してしまいます。
けれども今日は、私たちに無くてはならないこと、御言葉を聞くことの恵みに与ることをさせてくださいました。感謝いたします。
どうか、マルタとマリアのように、私たちも、いつも御言葉を聞く恵みから漏れることがないようにしてください。どうか、御言葉を喜んで聞く者とならせて下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年4月18日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書10:38-42
 説教題:「必要なことはただ一つ」
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