序.イエスさまとの出会いのために
 先週は復活節の礼拝をしました。甦られたイエスさまは、目には見えませんが、今も生きておられます。礼拝は(いつも申し上げることですが)この生きておられるイエスさまとの出会いの場であります。今日もイエスさまは御言葉を通して、私たちに出会ってくださいます。
 一口に「出会い」と言いましても、色々な形や段階があるように思います。書物で「イエス伝」などを読んで、イエスという人物を知るのも一つの出会いの形であるかもしれません。聖書を自分で読んでイエスさまのことを知るのも出会いの一つの形ではあります。イエスさまのなさったこと、語られた言葉を知ることによって、イエスさまの人柄や教えに触れることが出来ます。しかし、聖書には色々な読み方や解釈があります。自分だけで聖書を読むということは、自分の勝手な解釈で、自分の気に入った読み方をしてしまうことになります。それに、聖書は何よりも、信仰の書物であります。聖霊の導きによって書かれたものですから、聖霊の導きによって読まないと、聖書が伝えようとするメッセージを聞き逃すことになりかねません。聖書は2000年の教会の歴史の中で読み継がれ、解釈も深められて来ましたので、その伝統を踏まえつつ、教会の礼拝の中で、神の言葉をして、聖霊の導きを受けて聴く時に、本来の読み方が出来るし、真実のイエスさまに出会うことが出来るのだと思います。
 とは言え、教会で読めばいつも同じイエスさまに出会えるかというと、必ずしもそうではありません。御言葉を取り次ぐ説教者の理解の仕方によって変わりますし、同じ説教者でも、聖書の読み方は時に応じて変わります。聞く聴衆や、時代の状況によっても変わります。イエスさまは生きておられるのですから、それは当然のことかもしれません。
 また、イエスさまとの出会いには色々なレベルがあるようにも思います。初期の段階としては、イエスさまについて知識として知る段階があります。この段階は、礼拝でなくとも、一人で聖書を勉強しても、ある程度達せられるかもしれません。聖書から様々な教訓を引き出すことが出来るでしょう。しかしそれは、あくまでも、自分の頭の中での出会いであります。イエスさまの御人格に出会っているとは言えません。次の段階は、イエスさまの言葉が自分に語られた言葉として受け止められる段階です。自分の考えや思いを越えて、イエスさまのご意思が迫ってくるのです。自分の気に入ったことばかりではありません。自分が聞きたくないことや自分が思いもよらなかったことを聞かされるのであります。そして、御言葉によって自分の真実の姿が明らかにされるのであります。更に次の段階は、イエスさまの心に触れる段階です。イエスさまの愛が迫って来るのであります。単なる知識や言葉ではなくて、イエスさまの私たちに対する深い憐れみや御計らいの御心が私たちの心にも響いてくるのです。そして最後は、主イエスの御心と御言葉に押し出されて、私たちが行動する段階です。もはや、単にイエスさまとの出会いというよりも、イエスさまと一緒に歩み始めるということであります。具体的に私たちの生き方、生活が変わるということです。
 今日与えられています、ルカによる福音書10章25節以下は、聖書の中でも大変よく知られた箇所で、皆さんも何度かお聞きになったかもしれません。この伝道所でも、2006年春の伝道礼拝で取り上げたことがあります。聖書の中のよく知っている箇所というのは、ともすれば、自分なりの読み方が確定していて、新鮮な思いでイエスさまと出会うということが出来にくくなり勝ちであります。牧師は特にそうであります。ですから聖霊の導きを祈りながら、新たな思いで、聖書の御言葉にぶっつかって行って、新たなイエスさまとの出会いに与りたいと思います。

1.イエスさまの教訓として読む――理想・建前にとどまる

 さて、今日の箇所でイエスさまが話された「善いサマリア人」の譬えと呼ばれているものは、初めて聞いた人にも分かり易い譬えです。若干の解説を加えるとすれば、エルサレムからエリコまでは28キロの道のりで、途中には荒れた、岩だらけの寂しい所があって、しばしば盗賊や追いはぎが出没したようであります。追いはぎに襲われて半殺しになった人を見て、道の向こう側を通った祭司やレビ人というのは、エルサレムの神殿に仕える人たちで、エリコに住んでいる人が多かったと言われています。倒れていた旅人はユダヤ人と考えられるのですが、助けたサマリア人というのは、北王国イスラエルが大国アッシリアに滅ぼされた時に、移住してきた異邦人と血族的にも宗教的にも混交が行なわれたため、南王国ユダの人々からは不純だとして軽蔑され排斥されていました。ユダヤ人にとってはサマリア人というのは、隣人としては扱いたくない人々であったのです。その嫌われていたサマリア人がユダヤ人である旅人の隣人となって助けたという話なのです。そういう背景を知ると、このサマリア人がしたことの素晴らしさが、より浮かび上がって来ます。半殺しにされた旅人と関わっていると、自分も襲われる危険があります。人々から尊敬を受けている祭司やレビ人でさえ通り過ぎたくなる状況であったのに、普段は差別を受けている方のサマリア人が差別をしたユダヤ人の旅人を憐れに思って助けました。宿屋まで連れて行って、翌日には必要な費用の負担まで申し出ました。これぞ隣人愛の模範と言える行為であります。大変よく出来た譬え話で、これを読むと誰でも、こうありたい、本当はこうでなければならないと思います。しかし同時に、これは一つの理想像を描かれたのであって、実際はなかなかこうは行かない、とも私たちは思ってしまうのであります。このように、この譬え話を一つの教訓として聞くだけなら、イエスさまの巧みなお話を聞いて感心したというだけで終わってしまうのであります。それではイエスさまにお会いしたことにはならないのではないでしょうか。少なくとも、一人の教師としてのイエスさまにお会いしたに過ぎないことになります。これはイエスさまが創作された譬え話であって、実話ではありませんが、実際にあったことで、隣人のために命までも捧げたような美しい話はいくつもあります。そういう話と比べると、イエスさまはただ、巧い話を創っただけだ、ということになりかねません。

2.イエスさまと対話する――自分の罪に気づく
 イエスさまはこの譬え話を、単に隣人愛のモデルとしてお話しになったのではありません。25節に書かれているように、ある律法の専門家がイエスさまを試そうとして言った質問から始まった対話の中で、語られた譬えであります。律法の専門家というのは、聖書(旧約聖書)の教えをよく勉強していて、それをよく守っていると自負していた人たちであります。彼らはイエス様の言動に疑問を持っていました。イエスさまは、律法が形式的に解釈されて本来の主旨が曲げられていることを警告して来られましたが、律法の専門家たちは逆に、イエスさまが聖書に書かれている律法を軽んじているのではないかと考えました。そこでこの律法の専門家は、イエスさまにぼろを出させようとして、質問を出したのです。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問いかけました。「永遠の生命」というのは、<肉体的にいつまでもなくならない命>というよう意味ではなくて、<本当の命>とか<正しい生き方>と理解した方がよいと思います。ですから、この質問は、<どうすれば正しい生き方が出来るか>ということであり、律法の真髄を問うものであったのです。大変真面目な質問にも思えますが、イエスさまは律法をはき違えているので、律法を軽んじるような発言をすればとっちめることが出来ると考えていました。
 ところがイエスさまは、逆に律法の専門家に質問をされました。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」。彼は律法に通じていますから、すぐに答えることが出来ました。ここに述べられている答えは、先程朗読しました旧約聖書の二箇所を合成したもので、前半は神を愛すべきこと、後半は隣人を愛すべきことが述べられていて、律法の真髄を的確に答えております。
 この答えに対してイエスさまは、「正しい答えだ。それを実行しなさい」と言われます。イエスさまが律法を曲げて解釈するだろうと期待していたのに、拍子抜けです。かえって、「それを実行しなさい」と言われて、ちょっと困りました。彼らは律法に精通していて、それを一応守っているという自信がありましたが、実は、律法を素直に文字通り守っているというのではなくて、律法を形式的に守るために、自分たちが守りやすいように解釈して守っているだけだったのです。例えば、「隣人を愛しなさい」という戒めでは、「隣人」の範囲をユダヤ人に限っていて、異邦人や、異邦人と結婚した人は自分たちの隣人ではないから、愛さなくてもよい、というような解釈をしていたのであります。ですから、サマリア人は問題のある人たちだから、隣人とは言えず、従って愛さなくてもよい、と考えていたのです。そこで、この律法の専門家は、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言います。これは、自分を正当化しようとして、と書かれているように、逃げの質問です。自分の周りには隣人はいくらでもいる。その人たち皆に愛の行ないをしていたらキリがない。全部の人を愛するなんて不可能だし、中には愛する値打ちのないような人間もいる。世間で評判のよくない人は、愛さなくてもよいではないか。自分の貴重な人生は、無駄なことに使いたくない。大切なことだけに集中的に使いたい。――これがこの律法の専門家の言い分であろうと思われます。
 そこでイエスさまが話されたのが、善いサマリア人の譬えです。その譬えでは、この律法の専門家が考えていた隣人の範囲の外にあったサマリア人が、ユダヤ人を助けたのです。これは彼らの律法の解釈を越える行為であります。しかし、イエスさまは譬えを語られた後で最後に、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。彼は同じようにしたのでしょうか。おそらく出来なかったに違いありません。イエスさまはこの一連の問答を通して、この律法の専門家の問題点、つまり罪を明らかにされたのであります。
 このような問題はこの律法の専門家だけのものではありません。ここでイエスさまは、私たちの誰でもが持っている隣人に対する接し方の実相をえぐり出しておられるのであります。私たちも、自分が好きな人、気の合う人、利害が一致する人に対しては親しく付き合うし、出来るだけのことはしたいと思います。しかし、気に入らない人、利害が反する人、自分に対して好意を持っていない人に対しては、どうしても疎ましくなってしまいます。そんな人とは付き合わない方がよい、と思ってしまいます。時には意地悪さえしてしまいます。そして自分は正しいことをしていると言い訳しているのです。イエスさまはこの律法の専門家との対話を通して、実は、私たちと対話をしておられるのであります。律法の専門家は「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問しました。大変真面目な問いのようであります。私たちも教会へ来て、<どうすれば正しい生き方ができますか>とイエスさまに問いかけているのではないでしょうか。しかし、この律法の専門家の心の中味は、神様が与えて下さった律法の厳しさから、どうすれば脱け出すことが出来るか、という自分を正当化することでありました。私たちもイエスさまに自分を正当化してもらうために、イエスさまを訪ねて来てはいないでしょうか。そんな私たちに対して、イエスさまは今日の箇所を通して、私たちと対話をなさいます。そして、私たちの罪の実相を明らかになさるのです。

3.イエスさまこそ隣人――主の愛に気づく
 では、今日のイエスさまとの出会いはそこまでなのでしょうか。イエスさまは、私たちがこの譬えに登場する善いサマリア人のようには出来ない罪人であることを知らせるために、こうして私たちを礼拝に招かれたのでしょうか。イエスさまは私たちの罪を暴き出すお方として、私たちの前におられるのでしょうか。それだけではありません。イエスさまは私たちにもっと大きなことに気づかせようとなさっています。
 イエスさまと律法の専門家の対話をもう一度振り返ってみますと、29節で律法の専門家は、「ではわたしの隣人とはだれですか」と尋ねました。隣人愛の対象は誰かを問うたのです。それに対してイエスさまは「善いサマリア人」の譬えをお話しになったあとで、36節で、「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問い返されました。律法の専門家は愛すべき対象は誰かを尋ねたのに対して、イエスさまは愛する主体へと目を向けさせておられるのであります。追いはぎに半殺しにされた旅人を隣人として見るかどうかということも大切なことですが、旅人を介抱したサマリア人を見るようにされているのであります。このサマリア人によって何を表そうとしておられるのでしょうか。単なるお人好しの人物なのでしょうか。それとも、<こういう情け深い人をお手本として見習いなさい>と勧めておられるだけなのでしょうか。そんな勧めなら、イエスさまでなくても出来そうです。そんな勧めをされたら、そうは出来ない私たちは、落ち込んでしまうか、さもなければ、馬耳東風で聞き流すだけになってしまいます。
 イエスさまは確かに、最後に律法の専門家に「行って、あなたも同じようにしなさい」とおっしゃいましたから、私たちにも、「あなたもあのサマリア人のようになりなさい」と言っておられるのは間違いがありません。でも、それだけでしょうか。
 このサマリア人によって、イエスさまは、忘れてならないもう一人の人のことを指し示しておられます。それは、イエス・キリスト御自身であります。イエスさまは、ユダヤ人から受け入れられずに、彼らに苦しめられ、遂に殺されました。けれどもイエスさまは、そのユダヤ人を愛し抜かれて、彼らの罪を神様に赦していただくために、自ら十字架にお架かりになりました。こうして、どんな立派な律法の専門家にも出来なかった、大きな愛の業を成し遂げてくださいました。ユダヤ人から嫌われていたサマリア人が、追いはぎに遭ったユダヤ人を助けたということは、このイエスさまの大きな愛の行為を指し示しているのです。33節には、サマリア人が、倒れているユダヤ人を見て憐れに思ったと述べられていますが、イエスさまがユダヤ人を見、律法の専門家を見て、そして私たちを見て、憐れに思っておられるのであります。私たちは、サタンに襲われて、自分では罪の中から起き上がれなくなって倒れているのであります。そんな私たちにイエスさまが近寄ってきて、介抱してくださるのであります。罪で傷ついた魂に、油とぶどう酒を注いで癒してくださるのです。十字架で裂かれた御自身の体と流された血をもって、私たちを贖ってくださるのであります。イエスさまがこの譬えで示されたことは、<私たちが愛さなければならない隣人はだれか>ということだけでなくて、<私たちのような罪深い者のために命まで捨てて、愛し抜いて下さるお方は誰であるか>ということであります。

結.隣人になる
 イエスさまが十字架にお架かりになってまでして、私たちの真の隣人になってくださいました。そのようにまでして下さるイエスさまが、「行って、あなたも同じようにしなさい」と命じられるのであります。私たちはとても、イエスさまと同じようには出来ません。そんな私たちにイエスさまは、再び負いきれないような重荷を背負わされるのでしょうか。そうではありません。「行って、同じように」ということは、サマリア人がしたのと同じようにということです。サマリア人のしたことは、その状況からすれば大変勇気の要ることでした。しかし、大慈善事業をしたわけではありません。持っていた油とぶどう酒で傷を洗い、包帯をして、自分のろばに乗せて宿屋まで連れて行って、宿屋の主人にデナリオン銀貨二枚――それは二日分の生活費相当ですが――それを渡したというだけであります。自分の都合や面子だけを考えることを少し止めれば出来ることであります。イエスさまは私たちに過大な要求をなさるわけではありません。私たちが持っているもので、出来ることをするように命じておられるだけであります。私たちはただ、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言って押し出してくださるイエスさまのお言葉に、素直に従えばよいだけであります。イエスさまが私たちを隣人になることが出来る者にしてくださいます。イエスさまは「行け」とおっしゃって私たちを放り出されるわけではないでしょう。私の隣人になってくださったイエスさまは、私が隣人になるために、私と一緒に隣人のところにも来てくださるに違いありません。イエスさまは私たちと出会ってくださるだけでなく、私たちと一緒に歩んでくださるのであります。そのようにして、私たちがいつまでも罪人のままでいることから助け出してくださるのであります。イエスさまは今日も、私たちの礼拝の場に来てくださって、このように御言葉によって私たちに出会ってくださり、厳しいお言葉をもって、私たちの魂を揺さぶられるとともに、罪の中から引き出して、私たちに寄り添って歩んでくださるのであります。
お祈りいたしましょう。

祈  り
 憐れみ深いイエス・キリストの父なる神様!
 今日、イエスさまを私たちの礼拝に遣わしてくださって、私たちの隣人となってくださり、私たちに御言葉をもって語りかけてくださって、私たちのような罪深い者をも、隣人になれるように導いてくださいましたことを感謝いたします。
 どうか、あなたの大きな愛の一端を担う者とならせて下さい。
 どうか、助けを必要としている方に、イエス・キリストの真実の愛を届ける者となることが出来ますように、お導きください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年4月11日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書10:25-37
 説教題:「隣人になる」
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