序.復活の主に出会うために
 今日は、イエス様が復活なったことを喜び合うイースター(復活節)です。イエス様は金曜日に十字架にお架かりになって死なれ、墓に葬られましたが、3日目の日曜日に墓からお甦りになりました。それ以来、教会では毎週日曜日に礼拝をするようになりました。それは、イエスさまが2000年前に復活されたことを、日曜日ごとに思い出して、ただ「よかったよかった」とお祝いするだけではありません。お甦りになったイエス様は、目には見えませんが今も生きておられます。私たちは復活されたイエス様にお会いするために、日曜日ごとに、礼拝をするのです。
 復活のイエス様にお会いするなどと言うと、<そんなことは信じられない>と思う人がいるかもしれません。あるいは、<先生は、比喩的な意味でそう言っておられるであって、本当に会えるわけではない>と受け取っている人がいるかもしれません。確かに、イエス様が私たちの目に見える姿でお会い下さるわけではありません。けれどもイエス様は決して過去の人ではありません。今も生きて私たちの側に寄り添い、私たちに言葉をかけ、私たちに力を注いでくださって、私たちを新しい歩みへと向かわせてくださいます。
 先程朗読したルカによる福音書24章13節以下には、イエス様が復活された日の午後から夕方にかけて、エルサレムからエマオという村へ向かった二人の弟子が、復活されたイエス様に出会ったという出来事が書かれています。彼らは、イエス様が殺されたことで、失望落胆しておりました。これからどう生きて行けばよいのか、途方に暮れていました。その弟子たちが、復活のイエス様に出会って、もう一度弟子としての新しい歩みを始めることになります。この二人の弟子たちに起こったことは、今の私たちにも起こるのです。イエス様は今、この聖書の御言葉を通して、私たちに寄り添って歩いてくださろうとしておられます。

1.エマオに向かって
 さて、この日の朝に起こったことは、24章の初めから報告されています。それによれば、明け方早くに、まず婦人たちが墓に行きました。準備しておいた香料を持って墓に行ったということですから、イエス様のご遺体に香料を塗るつもりだったようです。しかし、墓に着くと、入り口の石がわきに転がしてあって、ご遺体が見当たりません。誰かが他の場所に移したのだろうか、もしかすると誰かが盗んだのかもしれない、などと色んなことを考えたに違いありません。どうしたものかと途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の天使がそばに現れました。婦人たちが恐ろしくなって地に顔を伏せると、二人の天使は、こう言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(5節)――婦人たちはイエス様のご遺体を墓に納める有様を見届けたと23章55節には書いてありますから、復活なさるなどとは思いもよらないことでした。生きておられるなら、墓の中におられる筈はありません。でも、信じられないことです。すると天使は続けてこう言いました。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」(6節)――確かにイエス様が何度か十字架と復活のことをお話しされていたことを、婦人たちは思い出しました。でも、その時は、まさかそのことが本当に起こるとは思わなかったでしょう。
 婦人たちは、これらの一部始終をほかの弟子たちに知らせましたが、弟子たちはたわ言のように思われて信じなかったと、11節に書かれています。ペトロや他の弟子たちが急いで墓に行って、ご遺体がなくなっていることは確認しましたが、復活ということについては、半信半疑であったと思われます。
 さて、今日の13節からの箇所に入りますが、二人の弟子がエルサレムからエマオという村に向かって歩いていました。この二人は十二人の弟子以外の人であったようです。この日の朝に起こった出来事については、この弟子たちも聞いていたようです。14節には、この一切の出来事について話し合っていた、とあります。でも、イエス様が甦られたなどということは信じられず、ただ困惑するばかりだったのではないでしょうか。
 この二人の弟子が、なぜエマオの村に向かっていたのか、その理由は書かれていません。恐らく、この村がこの弟子たちの出身地であったと思われます。二人はこれまで、イエス様に大きな期待をかけて、従って来ました。19節を見ると、「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした」と言っておりますし、21節では「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」と言っております。イエス様こそ、イスラエルの民をローマ帝国の支配から解放する政治的な指導者であると期待していたのです。しかし、その望みはイエス様が亡くなられたことによって、あっけなく失望に変わりました。もうエルサレムに留まっている必要はありません。むしろ、エルサレムにいると、自分たちにも敵対者たちの手が及ぶかもしれません。イエス様のご遺体がなくなったということは、弟子たちが隠したのではないかという疑いのかかる可能性もありました。そんなことから、エルサレムを後にしたのではないかと思われます。しかし、エマオへ行ったところで、新しい目標が見えて来るわけではありません。何の当てもなく、足だけはエマオへ向かっているのであります。
この二人の困惑した様子は、私たちの姿を写し出しているのではないでしょうか。私たちも、イエス様の教えや行動が、人々に大きな影響力を持つことは認めています。自分自身もこの方から色んな事を教えられたいと思っています。聖書に書かれたこの方の言動は、現代の社会をも動かす力を持っていることは認めています。教会で礼拝生活をすることが、自分の精神生活にとってとても大切であると思っています。
 しかしながら、なぜイエス様が十字架に架からなければならなかったのか、それが私たちとどう関わるのか、ということはなかなか理解できません。まして、死んだイエス様が甦ったというようなことは、神話めいたことのように思えて、俄かには信じ難いのです。また、イエス様というお方が、自分たちの実際の生活の中の困難や苦悩とどう関わって来るのかというと、なかなか確信が持てませんし、この方に自分の人生をかけるべきかどうかとなると、なかなか踏ん切りがつかないのが普通であります。――そんな中で、イエス様の十字架と復活の出来事は、クリスチャンであろうとなかろうと、私たちを困惑させる出来事であります。

2.遮られた目を開くために
2-1.一緒に歩き始める

 しかし、失意と困惑の中にあるこの二人の弟子を、イエス様は放っておかれませんでした。15節を見ると、イエス様は、話し合い論じ合っている二人に、イエス様の方から近づいて来て、一緒に歩き始められたのであります。
 けれども16節を見ると、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった、とあります。なぜ、彼らはよく知っている筈のイエス様の姿を見て、すぐ気が付かなかったのでしょうか。復活のお姿は、地上で人々の苦悩を担われていた時のお姿とは違うと考えることも出来ます。あるいは、お甦りになるなどとは全く考えていなかったので、まさかイエス様だとは思わなかったからかもしれません。いずれにせよ、イエス様は初めから彼らにはっきりと分かる形では御自身を現されませんでした。最初は彼らの目は遮られていたのであります。信仰の世界というのは、はっきりと理解できて、納得したら入るというものではありません。あくまでも信じることによって得られる世界であります。見ないで信じる世界であります。目で見て納得するのではなくて、心で信じて、心の目が開かれるのです。目に見えて、頭で分かることが、必ずしも確実とは言えません。むしろ、信仰をもって見えてくることの方が真実なのです。
 イエス様は、二人の弟子が気付かないうちに、彼らと一緒に歩かれたように、私たちが気付かないうちに、私たちに近づいて、私たちと一緒に歩いて下さるのです。私たちがまだ、苦しんだり、悩んだり、迷ったりしている間に、先にイエス様の方から近づいて来て下さっているのです。私たちの目や心がまだ開かれていないうちから、一緒に歩いて下さっているのであります。
 17節を見ると、イエス様は、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言って、二人の会話に入って来られました。二人は暗い顔をしながら、エルサレムでここ数日に起こったこと、イエス様がどんな方であったか、イエス様が十字架につけられたいきさつ、そして、この日の朝、仲間の婦人たちが墓で見聞きしたことを、全部話しました。イエス様は当然、彼らが話したことは全部知っておられます。けれども、イエス様は二人に質問されることによって、彼らが十字架から復活に至る一連の出来事をもう一度思い起こすことが出来るようになさいました。そして、最後には、天使が現れ、「イエスは生きておられる」と告げたことも思い出して、話しました。しかし、そこまで話しても、彼らはまだ、何が起こっているのか理解しておりません。目の前におられるのが、誰かも分かっておりません。彼らの目が開かれるためには、もう一押し、二押しが必要でありました。この後、イエス様は二人の目を開くために、大事な二つのことをなさいました。

2-2.聖書の説き明かし
 一つは、25節から27節に書かれているように、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されたということであります。この場合の聖書というのは、旧約聖書のことですが、そこに何が書いてあるかというと、メシアのこと、すなわちイエス・キリストのことが書いてあるではないか、ということです。しかも、メシアというのは、二人が思い違いしていたように、政治的に人々を解放するのではなくて、イザヤ書などにも書かれているように、「苦しみを受けて、栄光に入るはずではないか」と指摘されるのです。十字架に架かって人々の罪の身代わりになることによって、悪に勝利し、栄光をお受けになる、即ち復活の命に甦られるはずではなかったのか、と言われて、聖書に預言されていることを思い起こさせておられるのであります。
私たちが、十字架と復活を受け入れることが出来るようになるのは、聖書の証言によるのであります。科学的な証明や、理論的な説明によるのではなくて、旧約聖書から新約聖書に述べられている神様の救いの御意思や御計画が、イエス様によって行なわれたのだということを気付かせ、理解させるのであります。このような礼拝で聖書の言葉を聞くことによって、主イエスの御業の意味が理解出来るのであります。
 しかしそれは、私たちが頭で納得出来るということではありません。後で二人は、この時のことを振り返って、32節でこう語り合っております。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と。このように、聖書の言葉が私たちの心を燃やすのです。聖書の話しよりも、感動的な実話や例話の方が、心を動かすということがあるかもしれません。そういう話を説教に期待する向きもあります。しかし、本当に力がある言葉は、聖書の言葉なのです。私たちに命を与えてくれるのは、御言葉そのものなのです。そこには神様の心が込められているからです。「心が燃えていた」というのは、単に<感動した>ということではなくて、聖霊の働きがあった、ということではないでしょうか。聖霊というのは、直接私たちに感動を与えたり、力を与えたりするということもあるかもしれませんが、聖書の言葉を通して与えられるのが本筋です。神様は、御言葉によって聖霊を与え、私たちの心を燃やして下さるのであります。

2-3.パンを取り、お渡しになる
 イエス様が二人の弟子にされた、もう一つのことは、エマオの村に着いて、なおも先へ行こうとされる様子だったイエス様を、無理に引き止めて、一緒に泊まるために家に入ったときになさったことです。多分二人のどちらかの家での事だと思われますが、30節にありますように、一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになりました。二人のどちらかの家だとすると、パンを裂くのは主人の役割ですから、彼らがするのが普通ですが、このときはイエス様が主人であるかのように、パンを裂かれました。その様子を見て、二人の目が開け、イエスだと分りました。
 イエス様は弟子たちと食事をするときには、いつも御自分がパンを裂いて渡されたのかもしれません。以前、五千人の人にパンを与えて満腹させたという話しがこのルカによる福音書の9章にも出ていますが、その時も、イエス様は五つのパンと二匹の魚を取って、賛美の祈りを唱えて、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせられました。十字架の前の最後の晩餐の時も、イエス様がパンを裂いて弟子たちに配られました。この二人の弟子は十二人の弟子以外のようですから、その席にはいなかったと思われますが、あの時の様子は、とても印象深い出来事として聞かされていたに違いありません。
それらの様子を思い出して、二人は目が開けたのであります。イエス様が今生きて、共にいて下さることに気付いたのであります。
 聖餐は、言うまでもなく、イエス様の犠牲を表すものであります。パンとぶどう酒は十字架に架かられたイエス様の体と血を表しています。それと共に、聖餐は、イエス様が今、聖霊において共にいて下さることを私たちに気付かせるものであります。
 教会で今も行われている基本的なことは、この時行なわれましたように、聖書の説き明かし(つまり説教)と、聖餐式でパンとぶどう酒が配られることであります。この二つのことが、イエス様の十字架と復活の出来事を私たちに受入れさせるのです。この二つのことが行なわれているとき、イエス様が二人の弟子に伴われたように、私たちと一緒に歩んで下さるのです。そして、そのとき、私たちの心は聖霊によって燃やされ、私たちの心の目が開かれるのです。

結.エルサレムに戻って
 二人の弟子の目が開かれ、イエス様だと分った瞬間、その姿は見えなくなりました。それは、彼らが目で見て信じるのではなくて、心で信じて見えるようになるためです。
 このあと二人の弟子は、時を移さず出発して、エルサレムに戻ったとあります。そして、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときに、イエスだと分かった次第を話したのであります。彼らはもはや、敵対者を恐れることなく、失意の中に沈み込むこともなく、再びエルサレムに戻りました。そして、イエス様のこと、十字架と復活のことを証しする働きに加わることになったのでしょう。
 私たちもまた、イエス様に出会い、その十字架と復活の恵みを知ったならば、それを人々に伝える者とされます。もはや、何の当てもないエマオに向かうのではなくて、エルサレムに向かうのです。失意と困惑から脱出して、弟子たちが待つ教会へと向かうのです。そして、教会でこそ、御言葉が語られ、聴かれ、目が開かれ、真実の心の癒しと解放が行なわれ、新しい命に生きるようになります。そこには、主の恵みを語り継ぐ喜びが待っているのであります。
 お祈りしましょう。

祈  り
 憐れみ深い父なる神様!
 甦りの主が、今も御言葉において、生きて働いて下さいますので感謝いたします。主は、私たちが失意と困惑の中にある時にも、私たちと共に歩んで下さいますことを覚えて励まされています。
 どうか、主の十字架と復活の恵みを他の人々にも証しする者とならせて下さい。どうか、重荷を負っている者、疲れている者、失意の中にある者、まだ戸惑いの中にある者と、主が共に歩いて下さいますように。そして、主の御言葉によって、目と心が開かれ、新たな望みに生きることが出来るように、させて下さい。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年4月4日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書24:13-35
 説教題:「復活の主との出会い」
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