序.天を仰いで
・今週は受難週であります。今週の金曜日には主イエスが十字架にお架かりになった受苦日を迎えます。
・私たちは、主イエスが十字架にお架かりになる前の、弟子たちとの最後の晩餐の席で語られたと思われる「別れの説教」を聴いて参りましたが、先週で終わって、今日のヨハネによる福音書17章には、主イエスの祈りが記されています。
・1節を見ますと、イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた、とあります。ここまでは、主イエスは弟子たちに目を注がれながら、何とか思いを伝えたいと、心を込めて語って来られました。ここからは、主イエスの目は天に向けられます。そして、天の父なる神様に向かって語られます。それを弟子たちが書き残してくれたので、私たちは幸いなことに、その祈りを聞くことが出来ます。そこで祈っておられることは、主イエスの個人的なことではありません。弟子たちや私たちのためにしようとなさっていること、私たちの救いのための祈りであります。そこには、弟子たちや私たちに対する主イエスの篤い思いが込められています。
・この祈りは大分長くて、大変豊かな内容が含まれていて、連続講解説教であれば、普通、3~4回に分けて取り上げる箇所でありますが、私たちの伝道所では4月から、日曜学校誌のカリキュラムに従ったテキストを用いようとしていますので、今日一回で、全体を取り上げることにしました。
・この主イエスの祈りは、三つの祈りから構成されているとされています。一つ目は1節から5節までで、ここには主イエス御自身の栄光を求める祈りがなされています。御自身の栄光を求めると申しましても、後でも述べますように、御自分のことだけを考えておられるのではなくて、結局は私たちのための祈りであります。二つ目は6節~19節までで、6節に「世から選び出してわたしに与えてくださった人々」とあるように、当時の弟子たちのための執り成しの祈りであります。そして、三つ目は20節~26節で、20節に「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々」即ち、後の弟子たち、つまり私たちを含めた教会に加えられる信者たちのための執り成しの祈りであります。
・この祈りは一般に「大祭司の祈り」と呼ばれています。祭司というのは、人々に代わって犠牲を献げて執り成しをする役目の人ですが、この祈りは全体として執り成しの祈りなので、このように呼ばれるようになりました。

1.子に栄光を
・主イエスはまず、「父よ、時が来ました」と言っておられます。
この「時」とは何時を指すのでしょうか。「別れの説教」の前に弟子たちの足を洗われたことが13章に書かれていましたが、その13章1節に、「この世から父のもとへ移る御自分の時が来た」とありました。また、12章20節以下で、ギリシャ人たちが主イエスを訪ねて来たときに、主は「人の子が栄光を受ける時が来た」と言っておられます。ここで「時が来ました」とおっしゃるのも、主イエスが父のもとへ帰られる時であり、御栄光を受けられる時のことであります。主イエスの逮捕と十字架が目前に迫った時であります。
・主イエスはここで、「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」と言われ、5節でも、「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください」と祈っておられます。「栄光」とは何でしょうか。「栄光」とは普通、<輝かしい誉れ>のことであります。しかし、ここでは十字架と結びついた栄光であります。十字架というのは、普通は恥の極致であります。しかしそれが、主イエスにあっては栄光となるし、それがまた、神の栄光を現すことになるのであります。ですから、「わたしに栄光を与えてください」という祈りは、<十字架の道を進ませてください>という祈りなのであります。
・ この「大祭司の祈り」と言われる主イエスの祈りは、ヨハネ福音書にしか出ておりません。他の三つの福音書では、最後の晩餐の後でゲッセマネの園で祈られた有名な祈りのことが書かれています。その祈りでは、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られました。ほぼ前後して祈られたものでありますのに、祈っておられることが随分違うように聞こえます。ヨハネ福音書では十字架のことを「栄光」とまで呼んで、積極的に十字架に向かおうとしておられるのに対して、ゲッセマネの祈りでは、逡巡しておられるように聞こえるかもしれません。しかし、はっきりしていることは、どちらも神様の御心を問うておられるのであります。十字架の道が神様の御心であるのかどうか、神様の御栄光を現すことになるのかどうかを問うておられるのであります。そういう意味で、この「大祭司の祈り」はゲッセマネの祈りに通じる祈りだと言えるのではないでしょうか。
・2節、3節に進みますと、こう言っておられます。「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」――主イエスの「栄光」とは、十字架の道のことであるということを申しました。しかし、十字架の道は「すべての人を支配する権能」をお持ちになる道でもあるのであります。「支配」と言っても、政治的権力による支配のことではありません。十字架による愛の支配であります。御自身の命を人々のために捨てるという愛の極致の業によってもたらされる支配であります。その愛の業による支配は、人々に「永遠の命」をもたらすことにもなります。3節に、「永遠の命」の定義が述べられています。「永遠の命とは唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」だと言われています。「知る」という言葉は、ユダヤ人の間では、頭で知るとか論理的に理解するということではなくて、人格的につながるということを意味します。つまり、永遠の命に生きるということは、<まことの神とイエス・キリストに人格的な関係を持つ>ということであります。私たちは神様の御心に背いて、神様との人格的な関係が崩れていました。しかし、主イエスの十字架によって、その関係が修復されて、永続する関係に戻されたのであります。それが「永遠の命」であります。
・ 次の4節で、「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と言っておられる「業」というのは、諸々の奇跡の業のことだと解釈されています。それらの業はそれなりに神様の栄光を現すものでありました。しかし、ここで主イエスが求めておられることは、人々に永遠の命を与えることによる栄光であります。それは5節で、「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」と祈っておられるように、世界の初めから持っておられた栄光が一層輝きを増すことであります。このヨハネ福音書の冒頭に、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった」(1:1)とあり、1章14節で、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と言われていた栄光の回復であります。
・ このように、主イエスは、御自身の栄光を求めておられるのですけれども、その中味は、私たちが永遠の命を得ること、即ち、神様との人格的な関係を回復することであり、それは、主イエスの十字架によって達成される栄光なのであります。ですから、主イエスが御自身の栄光を求められる祈りは、私たちの救いを求められる祈りなのであります。

2.弟子たちを守ってください
・6節から19節までは、当時の弟子たちのための執り成しの祈りであります。それならここに述べられていることは私たちには関係がないのかというと、そうではなくて、そっくりそのまま私たちのことに置き換えて聴くことが出来るし、私たちのために祈られていると受け取ってもよい内容であります。
・ 6節ではこう言っておられます。「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは御言葉を守りました。」――弟子たちというのは、自分たちで主イエスを先生として選んだのではありませんでした。神様が選び出して主イエスの弟子とされたのでありました。その弟子たちに主イエスは、御名を現されました。「御名」とは単なる名前ではありません。神様の本質ということです。主イエスはその御業において、また御言葉において、父なる神様を示して来られました。そのような主イエスの働きに対して、「彼らは御言葉を守りました」と言っておられます。弟子たちは御言葉に聴き従うものとされたのであります。また、7節を見ると、「わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを知っています」とも言われています。主イエスの御言葉も御業も神からのものであることが分かった、ということです。更に8節を見ると、「わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じた」とまでおっしゃっています。これらは、先週聞いた16章の30節で、弟子たちが「あなたが何でもご存知で、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と言ったことに符合しています。
・ しかし、先週聞きましたように、その後16章31節で主イエスは、「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る、いや、既に来ている」とおっしゃいました。そのお言葉通り、この後主イエスが捕らえられると、弟子たちは主のもとから逃げ去ってしまうのです。主イエスは弟子たちがそんな弱い者たちであることを御存知であります。しかも、そんな弟子たちのことを、神様に対しては、「彼らは、御言葉を守りました」と言い、「彼らは知っています」と言い、「彼らは信じた」と言っておられるのであります。なぜでしょうか。主イエスは自分の弟子たちの弱い面を隠して神様に報告しておられるということでしょうか。そうではありません。
・ 9節以下には、主イエスから神様への願いが述べられています。「彼らのためにお願いいたします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものです」という言葉に始まって、11節では、「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」と祈っておられます。主イエスが地上を離れられても、神様が弟子たちを守ってくださるように、祈っておられるのです。
・ 更に、13節を見ますと、「しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」と祈られ、15節では「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」と言われ、17節では、「真理によって、彼らを聖なる者としてください」と祈っておられます。――主イエスは弟子たちの弱さを知っておられ、世の力に押し流されそうになることをご承知の上で、神様の守りを祈っておられるのであります。この主イエスの祈りの後ろには、神様が必ず弟子たちを守って下さるという確信があります。12節を見ると、「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです」と言っておられます。――ここには、主イエスが地上におられた間に、神様の御名によって弟子たちが守られたことが述べられています。「滅びの子」とは主イエスを裏切ったユダのことであります。ユダは初めから「滅びの子」として定められていました。それ以外の弟子は、弱さを持っていましたが、神様が選んで下さった弟子であることを主イエスは確信しておられます。
・ そして最後に18、19節で、「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」と言っておられます。主イエスはこれから十字架に向かわれ、御自身を献げられます。主イエスは弟子たちのために命を献げる覚悟で、弟子たちのために執り成しの祈りをしておられます。そこに迷いはありません。神様が必ず弟子たちを守り通して下さるという確信があります。ここに、この執り成しの祈りが神によって聞かれる確実さがあります。事実、主イエスの復活の後には、あの弱い弟子たちが見違えるようになって、力強く、世界中に主イエスのことを宣べ伝えて、今日の私たちのところにも福音は届いたのであります。神様は主イエスの祈りを聞いて下さったのであります。

3.信じる人々を一つにしてください
・20節以下は、弟子たちが伝える言葉によって主イエスを信じるようになる人々、即ち、教会に導かれるすべての信徒たちのための執り成しの祈りであります。主イエスは私たちのことも見越して、祈って下さっているのであります。
・ここでの主イエスの祈りは、21節にあるように、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」ということであります。22、23節でも、「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」――ちょっとひつこいくらいに、信者たちが一つになること、教会の一致を祈っておられます。これは、ただ信者たちが仲良くすることだとか、教会の組織が一本化するようなことではありません。21節で「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように」と言われています。父なる神様とイエス・キリストが一つであるように、一つとなるということであります。それは愛による一致であり、信仰による一致であります。人間が作り出す一致ではなく、私たち一人一人がキリストに結ばれていることによる一致であります。24節では、「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください」と祈っておられます。主イエスが私たちと共にいて下さるところに、私たち同士、信者同士の一致も与えられるのであります。具体的には、教会の礼拝における説教と聖餐において、主イエスが聖霊において現臨して下さる時に、教会は一つになるのであります。主イエスはそのことを父なる神に祈って下さっているのです。

結.永遠の祈り
・今日は、十字架を直前にした主イエスの祈りを聴いて来ました。しかし、この祈りは2000年前に一度だけ祈られた祈りではないでありましょう。25、26節を見ると、こう祈っておられます。「正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。」――主イエスは、この時だけでなく、御名を「これからも知らせます」とおっしゃって、私たちに神の御名を知らせることを決意なさっておられます。主イエスは今も、私たちが神の御名を知るようになるために祈って下さり、聖霊において働いて下さっています。それは、最後に述べられているように、「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるため」なのであります。主イエスに対する神の愛が、主イエスを通して私たちにも注がれることを、祈り続けて下さっているのであります。これは永遠の祈りであります。この主イエスの永遠の祈りがある限り、私たちがどのような弱さを持ち、この世がどのように私たちを神様から離そうとしても、決して私たちは救いから漏れることはないのであります。神様との愛の関係は永遠に続くのであります。永遠の命が約束されているのであります。
・感謝して祈りましょう。


祈  り
・ 主イエス・キリストのゆえに祈ることを許された父なる神様!
・ 御名を賛美いたします。
・ 罪深い私たちですけれども、主イエス・キリストを送って下さり、私たちをあなたから離   れることのない者として下さった恵みを、感謝いたします。
・ どうか、御言葉を聴き続け、守り続ける者として下さい。
・ どうか、絶えず主にある喜びを内に満ちあふれさせて下さい。
・ どうか、主の愛のもとで、互いに愛し合い一つにならせて下さい。
・ どうか、主と共に、私たちもまた祈り続ける者となして下さい。
・ 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。



米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年3月28日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書17:1-26
 説教題:「永遠の祈り」
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