序.もはやたとえによらず
・ヨハネによる福音書14章から始まった、主イエスの長い別れの説教を聴いて参りましたが、今日の箇所はその最後の部分であります。主イエスが捕らえられ、十字架に架けられ、殺される時が迫っている中で、動揺している弟子たちに向けて、<ご自分は天の父の家に行くのであって、それはあなたがたのために場所を用意しに行くのだから、心を騒がせるな>ということをおっしゃいましたし、<ご自分が天に昇られた後は、弁護者として聖霊を送る>ということも約束されました。また、<わたしはぶどうの木であなたがたはその枝である>という比喩を用いて、教会が形成されることも暗示されましたし、更に、<弟子たちは主イエスを見ることが出来なくなるのだが、再び会える日が来て、その日には悲しみも喜びに変わるのだ>ということまで、縷々話して来られたのでありました。
・そして、今日の箇所に至って、25節では「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」とおっしゃいました。「たとえを用いて話してきた」とおっしゃっていますが、確かに、「ぶどうの木」の話は「譬え」なのですが、これまでの話しの全部がいわゆる「譬え」ではありません。ここで主イエスが言っておられる「たとえ」というのは、弟子たちにとっては主イエスの言われることがはっきりとは理解できず、謎のようにしか受け止めることが出来なかった、という意味であります。主イエスはいわゆる譬えも含めて、言葉を尽して語って来られたのでありますが、主イエスが示唆しておられる「復活」や「聖霊が降る」ということがどういうことなのか、まだよく呑み込めていなかったのであります。それは、まだそれらを体験していない弟子たちにとって、止むを得ないことでもあります。
・しかし、主イエスは、「もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」とおっしゃいます。その「時」というのは、主イエスが十字架にお架かりになったのちに、復活して弟子たちの前に現れ、やがて弟子たちに聖霊が降るという出来事が実際に起こる時のことであります。それは言い換えれば、教会が誕生する時でもあります。
・その教会の時が始まってから既に2000年が経っています。私たちはその新しい時の中にいます。聖書を通して、復活のことも、聖霊の働きも知らされています。しかしながら私たちは、未だに聖書に書かれていることが、あたかも「たとえ」で語られているように、現実のこととしては受け止めていないところがあるのではないでしょうか。主イエスは「はっきり父について知らせる」と言っておられるのですが、私たちにとって、父なる神さまが、遠い存在のままになっているのではないでしょうか。主イエスはそのような私たちのことも、はるかに見据えながら、既に起こされた出来事を受け止めることが出来るために、あらかじめ弟子たちを通して、私たちに語りかけておられるのではないでしょうか。今日は、この別れの説教の締め括りの部分を通して、父なる神様についてはっきりと知らされたいと思います。また、33節を見ると、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」とおっしゃっています。父なる神様のことを知るということは、私たちが本当の平和(平安)を得るということでもあります。弟子たちは、主の死を前にして心が乱れておりました。私たちも、父なる神様を知らずして、あるいは父なる神の恵みを忘れて、心を乱し勝ちであります。そんな私たちのために、主イエスは今日も聖霊において、この礼拝に来て下さって、私たちに語りかけて下さるのであります。そんな主の御言葉に耳を傾けたいと思います。
1.その日には――父と子と弟子たちの関係
・26節で「その日には」と語り始めて、28節まで語られていることは、父なる神様とイエス・キリストと弟子たち(即ち私たち)の関係がどうなるのか、ということであります。「その日」とは、先週聴いた23節でも言っておられて、そこでも申しましたが、主イエスの復活と聖霊降臨で始まった新しい日、即ち教会の時のことであります。私たちにとっては「今日」のことであります。
・23節では「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない」とおっしゃって、もはや以前のように「どこに行かれるのですか」というような質問をしなくなるということを言われ、また、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」という有難い約束までして下さっていました。今日の箇所では更に26節で、「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない」と言っておられます。ここでも「わたしの名によって」と言われています。先週も申しましたが、私たちが祈る場合に必ず「イエス・キリストの名によって」と申します。それは、主イエスが取り次いで下さらなければ私たちは神様に直接祈ることなど出来なかったからであります。
・ ところが主イエスはその後で、「わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない」とおっしゃるのであります。これはどういう意味かと思っておりましたら、加藤常昭先生は、この箇所の説教の中で、この言葉の意味は、<あなたがたはわたしの名によって願うことができるようになっているから、もはや、あなたがたに代わって、父に願いごとをしてあげる必要はもうない>ということなのだ、と言っておられます。そして、「イエス・キリストの御名によって」というのは、<この通路以外に祈りの通路がないということではなくて、私どもがイエス・キリストの名を身に帯びている者、生活の至るところにキリストの名が刻まれた者として、いつも祈っているのだ>と言われるのであります。なるほどと思いました。私たちはもはや、イエス・キリストの名を身に帯びる者とされているので、どのような祈りも、イエス・キリストを通しての祈りになっているのであります。だから、どんどん神様に祈ってよいのであります。有難いことであります。
・ 次の27節も、有難いお言葉であります。「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」――私たちは神様に背くこと多く、神様に罪を重ねて来た者であって、主イエス・キリストの執り成しがなければ、神様の愛を受けることなど出来ない者であります。主イエスの十字架の贖いがなければ、決して赦されることのない者であります。しかし、主イエスが既に神のもとから私たちのところに出て来て下さり、完全な執り成しをして下さっており、その主イエスの愛を私たちが感謝をもって受け入れているのであれば、もはや、神様の愛を直接に受けることが出来る、と言って下さっているのであります。父なる神様は私たちにとっては遠い存在でありました。直接祈ったり、直接愛を求めることなど出来ないお方でありますが、私たちが主イエスを愛し、<主イエスが神の子である>と信じることさえ出来るならば、神様は私たちを決して捨てられないどころか、永遠の愛の関係を結んで下さるのであります。主イエスはその愛の関係をしっかりと構築するために、今、十字架の道を進まれて、父のもとへ行かれるのであります。ですから、28節でこう言われます。「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」――主イエスは執り成しの業を完全に成し終えて、天の父なる神のもとに帰られるのであります。
2.自分の家に帰ってしまう
・ここで主イエスの別れの説教が一応終わるのでありますが、弟子たちはここまで聞いて、少々舞い上がったようであります。29節、30節には弟子たちの告白が述べられています。彼らはこう言いました。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存知で、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」――この弟子たちの言葉は、ここまでに主イエスが語られたことを受けております。「今は、はっきりとお話になり、少しもたとえを用いられません」という言葉は、25節で主イエスが「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」とおっしゃったことに対応しています。しかし、主イエスがおっしゃったのは、<もうすぐたとえによらず、知らせる時が来る>ということであって、その時はまだ来ていません。「はっきりと父について知らされる」のは十字架と復活の御業によってであります。少々早とちりであります。「だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました」という言葉は、主イエスが23節で、「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない」と言われたことに対応しているのでしょう。しかし、これも主が言われたのは、「その日」のことであります。復活と聖霊降臨の出来事が起こってはじめて、弟子たちは本当に「分かった」のであります。この時点ではまだよく分かっていません。最後に弟子たちは「これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と言っています。立派な信仰告白であります。私たちはこの告白を貶(けな)す必要はないし、本気で主イエスを信頼する気持ちになったのでありましょう。
・ しかし、主イエスはすぐに31節でこう言われました。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。」――主イエスも弟子たちが「信じます」と言った言葉を否定はされません。「今ようやく」ではあるけれども、「信じるようになったのか」と言って喜んでおられます。しかし、主イエスにはこの先のことも見えておられます。「散らされて自分の家に帰ってしまう」というのは、主イエスが捕らえられた時に、弟子たちが主のもとから散り散りに去って行き、十字架に架けられると、すっかり失望して、元の生活に戻ろうとするようになることを言っておられるのであります。弟子たちの告白は、何日も経たないうちに、脆くも崩れ去るのであります。主イエスはそのことを見抜いておられるのであります。
・ しかし、主イエスは、そのような弟子たちを咎め立てしようとはされません。そして言われます。「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。」――弟子たちの信仰は頼りないのですが、主イエスの父なる神様への信頼は揺らぐことはありません。そして、怯(ひる)むことなく、十字架へと真直ぐに進んで行かれるのであります。
・さて、ここに描き出されている弟子たちと主イエスの関係は、そっくりそのまま、今の私たちと主イエスの関係でもあります。私たちも、自分の不甲斐ない現実の姿を直視できていません。そして、主イエスが私たちのために何をして下さったのか、今何をなさろうとして下さっているのかということも、よく理解しないまま、不安になったり、時にはいい気になって、思い上がったりしています。けれども、主イエスはそんな私たちを、しっかりと見ていて下さいます。そして、私たちのために必要な救いの業を、粛々と実行していて下さるのであります。
3.主による平和
・ 33節には、主イエスの別れの説教を締めくくる重要な言葉が語られています。弟子たちに語られたこの言葉を、私たちにも語られた言葉として、耳を傾けたいと思います。
・ まず、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」と語っておられます。弟子たちの現状は、平和であるとは言えません。師である主イエスを失おうとしています。弟子たちも危険な目に遭わなければならないかもしれません。弟子たち自身も、不信仰で心もとない状態にあります。
・ しかし、主イエスは「あなたがたがわたしによって平和を得る」とおっしゃいます。今、弟子たちが置かれている状況とは全く反対と言える「平和」が、どうして得られるのでしょうか。
・ 主イエスご自身も続けて、「あなたがたには世で苦難がある」と言っておられます。主も、この世には苦難があることを知っておられます。「主も」というよりは、「主こそ」この世の苦難を知り尽くしておられるお方であります。主イエスはこの世を直視しておられます。主はこの世の苦難を傍観しておられるのではありません。この世の弱さや悪から目を逸らしたり、見過ごしにしたりはなさいません。弟子たちや私たちが不安に思ったり、苦しんでいる状況、直面している問題の本質、私たち自身の中にある弱さや罪、それに死、――それらを全部よくご存知であり、それらをしっかり見据えて、正面から立ち向かわれるのであります。
・ 「あなたがたには世で苦難がある」という言葉には、<私はあなたがたの苦難を全部承知しているよ>という意味が込められています。主イエスが知られない私たちの苦難はないのであります。主イエスが私たちの苦難を知っておられるということは、ただ状況を知っているということではなくて、苦難を一緒に負って下さっている、ということであります。私たちは自分だけで(あるいは、自分たちだけで)、苦難を背負っているのではありません。主が私たちと共に苦難に立ち向かって下さっているのです。
・ だからこそ、次の主イエスの言葉が出て来ます。「しかし、勇気を出しなさい」。――この「しかし」は、大きな力強い「しかし」であります。これは、<苦難があるけれども、しかし、勇気を出して頑張りなさい>という、ただの励ましの言葉ではありません。「欝」の状態にある人や、心の病気の人に、「頑張れ」と言って励ますのは禁物だと言われます。それは、「頑張れ」という方にこれという解決の手立てがあるわけでなくて、弱っている本人が頑張るしかないからであります。けれども、主イエスの言われる「しかし、勇気を出しなさい」という言葉の背後には、闇の中に光をもたらせ、死の世界から命の世界へと転換させる、主イエスの力が込められています。
・ この世の苦難、この世の闇に対しては、誰も軽々しく、<光を見出せ>とか<希望を持て>とか<勇気を出せ>などと言うことは出来ません。しかし、主イエスは、それを言うことの出来る唯一のお方であります。主イエスは、勇気の源である父なる神に、しっかりとつながっておられるからであります。そして主イエスは、苦難の中にある者と一緒に戦って、最後まで責任をとることが出来るお方であるからであります。

結.わたしは既に世に勝っている
・ 最後に、主イエスは断言されます。「わたしは既に世に勝っている」
・ なぜ、弟子たちや私たちが、苦難の世にあって勇気を出せるのか、――それは、主イエスが既に世に勝っておられるからであります。
・ もっとも、主イエスがこのお言葉を語っておられるのは、まだ十字架と復活の以前であります。しかし主は、既に勝利を確信しておられるのであります。32節後半では、「わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」とおっしゃっていました。主イエスにはこの確信があります。だから、勝利は未来のことでありながら、既に得たのと同然なのであります。この時点で、主イエスの確信の前には、もはや悪も罪も死も、太刀打ち出来ないのであります。勝利は先取りされているのであります。
・ しかし私たちは、このような力強いお言葉を聴いても、私たちを苦しめている苦難の現実が水を引くように去っていくわけではありません。私たちの心の中にある不安や恐れや不信仰が、すぐさま解消するわけではありません。私たちの戦いは続くのであります。生涯、何の悩みもないような、夢のような状態にはなり得ません。
・ けれども、今日聴いた主イエスの言葉は、そのような現実の中にあっても、真実であって、決して取り消されることも、弱まることもありません。ありがたいことに、主は事実、十字架にお架かりになって、私たちの罪をすべて負って下さいましたし、死から復活もして下さいました。勝利は既に主イエスにおいて現実のものとなりました。そして、その勝利を私たちのものとするために、約束の聖霊も送り続けていて下さいます。私たちの身の回りの戦いは続きます。しかしそれは、勝敗の決まった戦いであります。終わりの日には、主イエスと共に、勝利を喜び合うことが約束されている戦いであります。
・祈りましょう。

祈  り
・世に勝利し給うイエス・キリストの父なる神様!
・ 世にあって様々な苦難を背負っております私たちに、復活の主が御言葉を下さり、私たちをも勝利へと導いて下さるとの約束をして下さって感謝いたします。
・ 信仰弱く、不安に陥りやすい者でございますが、どうか、絶えず主の御言葉のもとに留まり続ける者とならせて下さい。どうか、私たちの内にあります、サタンを御言葉の力をもって滅ぼして下さい。どうか、あなたに全てを委ねることによって、平安な日々を送らせて下さい。
・ 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年3月21日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書16:25-33
 説教題:「世に勝っている」
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