「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」  
                  (ヨハネによる福音書16:20) 
 主イエスが父なる神のところへ行ってしまわれると聞いて落胆する弟子たちに対して、主は「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」(16)と言われた。その意味は、間もなく十字架の死の時を迎えるが、三日目には復活されることだと理解できるが、後の「しばらくすると」は、聖霊降臨の後、今に至るまで、聖霊において働き続けて下さることとも受け止めることができる。しかし、主の復活の予告を信じられない弟子たちは何のことか分からない。私たちも、主の復活を信じなければ、不安と恐れから脱け出すことは出来ない。   そんな弟子たち(私たち)に対して主は、標記のように語られる。主に敵対する「世」は、主の死を喜ぶが、弟子たちは落胆して悲しまざるを得ない。しかし主は、「悲しみは喜びに変わる」と宣言され、出産の喩えを語られる。出産は妊婦にとって大きな苦痛を伴うが、新しい命を産み出す喜びが待っている。そのように、主イエスは、私たちを神の子として産み出す喜びのために、十字架という大きな苦痛をさえ、もはや思い出さない(21)と言って下さるのである。そして、主は「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」(22)と言われる。「会い」とは「見る」という語である。主が弟子たち(私たち)に出会って下さり、その後もずっと、聖霊において見ていて下さる。だから、「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」のだ。 
 更に主は、「その日」即ち、聖霊が送られる時には、「わたしの名によって何かを願うならば、父はお与えになる」(23)と約束される。私たちの祈りは身勝手だが、それは主イエスによって清められて、父なる神に取り次いでいただける。そして、私たちにとって最善のものをもって応えられるので、私たちは喜びで満たされるのだ。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2010年3月14日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書16:16−24
 説教題:「悲しみが喜びに」
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