序.悲しみの中で
・ヨハネによる福音書に記されている主イエスの別れの説教を少しずつ聴いて来ております。先週の箇所の中の16章6節では、主イエスが弟子たちに向かって「あなたがたの心は悲しみで満たされている」とおっしゃいました。この「悲しみ」というのは、主イエスが父なる神のところへ行ってしまわれるという別離の悲しみでありますが、それは単に別れを悲しんでいるということではなくて、主イエスに対する弟子たちの大きな期待が砕かれて、失意の中にある悲しみであろう、ということを申しました。これからどう生きて行ったらよいのかという、不安と恐れに満ちた悲しみであります。この「悲しみ」という言葉は、「苦しみ」とも訳される言葉であります。主イエスが逮捕されて処罰を受けるとなると、弟子たちにも権力者の手が及んで来る恐れがあります。そのような苦難が待ち受けているかもしれないのであります。
・そのあと主イエスは、「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」と言われて、「弁護者」である「真理の霊」を送るということをおっしゃって、その「真理の霊」すなわち、聖霊の働きについてお話になったのでありました。その聖霊の働きとは、第一には、8節から11節にかけて語られているように、「罪」とか「義」とか「裁き」について、世の誤りが明らかにされて、正しい理解が得られるということと、第二は、12、13節にあるように、「真理をことごとく悟らせる」、すなわち、神様の救いの御心を知らされるということ、第三は、13節後半にあるように、「これから起こること」、すなわち、主の十字架によって罪から解放されて神の国に入れられること、そして、14節で言われているように、「わたしに栄光を与える」、即ち、主イエスに栄光を帰する礼拝を捧げるようになる、ということでありました。
 
 1.しばらくすると
・今日の16章16節以下は、その続きでありますから、引き続き、聖霊の働きについて語っておられると受け取ることができます。
・16節では、こう言っておられます。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」――ここに「しばらくすると」という言葉が2回出て来ますが、それぞれ何時のことを指しているのかということが、問題になります。「しばらくすると」という言葉は、ギリシャ語では「ミクロン」と言います。「ミクロの世界」などという言葉と同類です。つまり、「ほんの僅かな時」という意味です。ですから、前の「しばらくすると」は、このあとに迫っている主イエスの十字架と死の時、と理解し、後の「しばらくすると」はそれから3日目に墓から復活された時のことだという理解が自然であります。しかし、後の「しばらくすると」については、文脈から言うと聖霊のことが話されていたのですから、弟子たちに聖霊が降ったペンテコステのことを指しているとみることも出来ますし、更には、キリストが昇天の際に約束された再臨の時を指しているとする人もいます。「見るようになる」という言葉を肉眼で見ることと理解すると、分からなくなってしまいますが、霊的な目で「見るようになる」という意味も含めて理解して、どの時点かを特定せずに、キリストが肉体や聖霊において再び弟子たちや私たちに現れ、働いて下さることを指していると考えれば、納得できるのではないかと思います。「しばらく」というのは、時間の短さというよりも、主が私たちに働いて下さることの確実さを表わしていると見た方がよいのではないでしょうか。主は確かに弟子たちに働かれましたし、それ以来二千年間働き続けて下さり、現代の私たちにも、聖霊において働いていて下さいます。それが「見るようになる」と言われたことであります。
・ しかし、当時の弟子たちは、主イエスが死を覚悟しておられるらしいことは分かりましたが、その後に、「しばらくするとまた見るようになる」と言われることが何のことか、全く分からなかったようであります。そのことが17~19節に、少々くどく感じられるくらい繰り返し書かれています。止むを得ないことであります。それに比べると私たちは、聖書によって、主イエスが復活されたことを知っております。五十日目には弟子たちに聖霊が降ったこと、そして、それ以来教会には聖霊が注がれ続けていることも知っています。更に、終わりの日には、もう一度私たちの所に来て下さるとの約束も聞いています。幸いなことであります。
・ けれども、それらについての聖書の証言を信じることができなければ、弟子たちと一緒であります。心は悲しみで満たされなければなりません。生きる意味が見出せず、不安と恐れの中で苦しむしかありません。
 
 2.悲しみは喜びに
・しかし、主イエスは、19節にあるように、弟子たちが尋ねたがって、論じ合っているのを知っておられます。そんな弟子たちを主は放って置かれません。20節を見ると、こう言っておられます。「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」
・「はっきり言っておく」というのは、口語訳聖書では「よくよくあなたがたに言っておく」と訳されていましたが、主イエスが重要なことを語られる際に宣言されるお言葉であります。主イエスの死によって、弟子たちは「泣いて悲嘆に暮れる」ことになります。一方、「世は喜び」ます。主イエスを邪魔者だと考えていたユダヤの指導者をはじめ、彼らに扇動された民衆も、主イエスの死を確認して、一件落着と思って喜ぶことになります。しかし、主イエスは続けて、「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と、権威をもって宣言されるのであります。悲しみのままでは終わらないと言われるのであります。でも、なぜ悲しみが喜びに変わるのか、その具体的な理由については、ここでは触れておられません。他の福音書によれば、主イエスは、捕らえられ十字架に架けられて殺されるが、三日目に復活するということを、弟子たちに三度にわたってはっきりと予告しておられました。十字架の死による悲しみは、復活の喜びに変わるのであります。このヨハネ福音書でも11章で、ラザロが死んで姉のマルタが悲しんでいる時に、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」とおっしゃって、ラザロを生き返らせなさいました。弟子たちはそのようなことを見聞きしておりましたが、主イエスの死が迫っている中で、そのことを思い出すことが出来なかったのでしょうか、あるいは、思い出しても信じることが出来なくなってしまっていたのであります。サタンが弟子たちの心を閉ざしてしまっていたのでありましょう。
・サタンは、私たちの心をも閉じさせて、主イエスの言葉も聖書の証言も、思い出せないように、思い出しても信じられないようにしようとします。そうであれば、悲しみは喜びに変わることがありません。
 
 3.産みの苦しみ――主の十字架
・さて、そんな弟子たちに、主イエスは一つの喩えをもって、悲しみが喜びに変わることを分からせようとなさいます。21,22節で、こんな喩えをお話しになりました。「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」
・ 私は男ですから、出産の苦しみを知りません。昔は病院でなくて家で出産することもありましたので、出産する本人だけでなく家族も、ある程度苦しみが分かったのかもしれません。最近は病院で出産する場合でも、父親が立ち会うケースも多くなったようですから、こういう聖書の譬えも理解しやすいのかもしれません。
・ 先程朗読されましたイザヤ書26章は、昨年の3月に説教で取り上げた箇所ですが、その17、18節でこう言われていました。 妊婦に出産のときが近づくと、もだえ苦しみ、叫びます。主よ、わたしたちもあなたの御前でこのようでした。わたしたちははらみ、産みの苦しみをしました。しかしそれは風を産むようなものでした。救いを国にもたらすこともできず、地上に住む者を産み出すこともできませんでした。(イザヤ書26:17,18) 当時のイスラエルは大国の支配を受けざるを得ない状況にあって、その苦しみを妊婦の出産に譬えて語っているのであります。出産の苦しみというのは、妊婦の命も奪いかねない危険な苦痛でありますが、一方では、新しい命を産み出す喜びが待っている苦しみであります。しかし、イスラエルの苦しみは、「風を産むようなものでした」と述べられているように、結果的には「救いを国にもたらすこと」も出来なかったのであります。
・しかし、主イエスの十字架の苦しみは違います。新しい命が産み出される喜びが待っているのであります。それも、主イエス御自身が復活されるというだけではありません。主イエスを信じる者たちが神の子として産み出されるという大きな喜びが待っているのであります。けれども、その喜びは、神の独り子イエス・キリストの十字架という、大きな犠牲を通してしか、もたらされることがありません。だから主イエスは今、妊婦の苦しみどころではない大きな十字架の受難に向かわれるのであります。「しかし、子どもが生まれると、一人の人間が生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」と言われます。これは、単に一人の母親のことではありません。主イエス自身が、私たちが神の子として産み出される喜びのために、十字架の苦痛を思い出さないほどに、喜んで下さるということであります。その喜びのために、主イエスは今、十字架に向かおうとしておられるのであります。何と有難いお言葉ではないでしょうか。
 
 4.喜びを奪い去る者はない
・22節では更に、こう言っておられます。「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」
・ここで、「わたしは再びあなたがたと会い」と言っておられる「会う」と訳されている言葉は、「見る」という言葉であります。16節から19節の間で「わたしを見なくなる」とか「見るようになる」と言われていましたが、そこでは、弟子たちが見るということでしたが、ここでは主イエスが弟子たちを見る、と言われているのであります。16節のところで申しましたが、「見るようになる」というのは、主イエスが復活されて弟子たちがもう一度主イエスのお姿を見るようになる、という意味であるとともに、天に昇られたた後も聖霊が降って、霊的な意味で主イエスを見るようになるということも含まれている考えられます。そうしますと、ここで主イエスが「再びあなたがたに会う(見る)」と言っておられるのも、復活して弟子たちに会って下さるだけでなく、その後もずっと、聖霊において私たちにも会って下さる、私たちを見ていて下さる、ということであります。
・主イエスは十字架と復活の御業によって、私たちの罪が赦されるようにして下さいました。その救いの御業は私たちの罪が赦されるために十分でありました。そして、主イエスはその業を成し終えると、私たちが見ることの出来ない天に昇ってしまわれたのでありますけれども、そのままではなくて、聖霊が弟子たちの上に降り、教会が形成されるという形で、私たちにも見える形で今も働いて下さっているのであります。しかし、それは私たちが主イエスに出会い、主イエスを見ることが出来るようになる以前に、先に主イエスが私たちをちゃんと見ていて下さるということであります。私たちはこうして教会に導かれて、聖書を通し、説教を通し、そこに聖霊が働いて、主イエスというお方がどのようなお方なのか、どういうことを私たちにして下さったのかを知ることが出来、主イエスというお方の御人格に触れることが出来るのでありますが、その前に、私たちが気付く以前に、主イエスの方から私たちに近づいて下さって、私たちを見ていて下さり、私たちを救うべく働きかけていて下さるのであります。それがここで、「わたしは再びあなたがたと出会う」と言って下さっていることの中味であります。
・だからこそ、続いて言われているように、「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」のであります。私たちは主イエスのことを色々な形で知らされても、すぐさま忘れ去ったり、他のものに目移りがして、ついて行かなくなったりしてしまうのでありますが、主イエスの方が私たちを尋ね求めて、出会って下さるので、その出会いの喜びを誰も奪い去ることは出来ないのであります。サタンもそれを妨げることは出来なくされるのであります。復活した主イエスが天に昇られる時、弟子たちにこう言われました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)。その主イエスは、今日も私たちと出会うために、聖霊においてこの礼拝に来て、共にいて下さいますし、世の終わりまで、共にいて下さるのであります。

 結.祈る喜び
・今日の最後に、23、24節の御言葉を聴きましょう。「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
・「その日」というのは、ユダヤの社会ではメシア(救い主)の到来の時であります。しかし、ここでは主イエスの復活の日のことを言っておられると考えられますし、更に、先程から述べておりますように、聖霊降臨日(ペンテコステ)をもって始まる聖霊の働きのときを含めて受け取ることが出来ます。「その日」には、もはや、「どこへ行かれるのですか」などと尋ねることがなくなります。もう主が復活して弟子たちに現れ、聖霊において私たちのところに来ておられるからであります。
・そして、もういちど「はっきり言っておく」という、重要なことを宣言される際の言い方をもって、大きな約束をして下さいました。それは、「わたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」という約束であります。同様のことは、有名な山上の説教の中でもおっしゃいました。「求めなさい。そうすれば、与えられる」(マタイ7:7)。私たちは、本当だろうか、と思います。また、自分勝手な願いをしても良いのだろうか、御利益を求めるような祈りをしても良いのだろうか、とも考えます。大事な点は、「わたしの名によって願う」ということであります。主イエスの御名に対する信仰なしに、ただ自分の願いを申し述べるだけであれば、ご利益主義に終わってしまいます。しかし、主イエスの御名を信じて願うならば、私たちの身勝手な願いも、主イエスによって清められ、主の御心にかなった願いが選ばれて、父なる神様に聞かれることになります。だから私たちは祈るときに、必ず「主イエス・キリストの御名によって」と言います。主イエスが取り次いで下さるのであります。主イエスは私たちを見て下さっています。私たちに何が一番必要であるかも見て下さっています。それを父なる神に取り次いで下さいます。
・「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」――主イエスが取り次いで下さる願いは、必ず与えられます。それは私たちにとって最もよいものをもって応えられるので、私たちは喜びで満たされます。十字架の主は、今日も私たちにそのような約束をして下さっています。
・お祈りいたします。

 祈  り
・主イエス・キリストの父なる神様!
・御子イエス・キリストを十字架に送るほどに私たちを愛して下さり、聖霊において今日も私たちに臨んで下さって、恵みの御言葉を賜わりましたことを感謝いたします。
・あなたは私たち一人一人の必要を知っていて下さいます。どうか、私たちの悲しみ・苦しみを顧みて下さり、本当の喜びで満たして下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年3月14日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書16:16-24
 説教題:「悲しみが喜びに」
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