序.つまずかせないため

・先週聴きました1518節以下の箇所で、主イエスは弟子たちに「世があなたがたを憎む」ということをはっきりと言っておられました。これはまた、私たちに向かってもおっしゃっている言葉であります。その場合、「憎む」という言葉が、現代の私たちの状況にぴったりとしないということであれば、「摩擦がある」とか「軋轢がある」という言葉に置き変えてもよいということを申し上げました。私たちがキリスト者として生きようとするときに起こってくる抵抗であります。それは、周りからの抵抗もあるかもしれませんが、何よりも、自分自身の中にある抵抗であります。それは、これからキリスト者になろうかどうしようかと考えている人だけでなく、長い間信仰生活を続けている人にもある抵抗であります。

・主イエスの弟子たちは、大きな期待をもって、それまでの生活を捨てて、主イエスに従って来ました。しかし、ここに来て、それが良かったのかどうか、迷い始めているのであります。主イエスは当初期待したように、ユダヤ人の生活を改善してくれる王ではないということが次第にはっきりして来ました。ユダヤ人の指導者たちは主イエスに敵対して、亡き者にしようとしています。やがて自分たちにも彼らの敵意が及んで来るかもしれません。そういう中で、弟子の一人のユダは既に裏切ってしまいました。

・私たちも、主イエスに着いて行くことで、多くの恵みや慰めを受けられるものと思って、礼拝生活を続けて来ました。確かに精神的な支えを与えられて来ました。しかし、信仰を持っても、自分の人生は思い通りに行かない。なぜ、信仰を持っているのに、このような辛い目に遭わなければならないのか、という思いにもなってしまう。もっと楽しいことに、時間やお金を使った方が良いのではないか、などとさえ思ってしまう。

・そんな弟子たちや私たちに、先週の箇所で主イエスは、「世があなたがたを憎む前に、(世は)私を憎んでいたことを覚えなさい」と言われ、私たちとこの世との間にある摩擦や軋轢や抵抗は、すべて御自分が既に受けて止めておられると述べられました。それが十字架の死にまで至ることを、私たちは知っています。けれども、それが神様によって備えられた救いへの道筋なのであります。しかし、そのことを弟子たちや私たちは容易に納得できません。そしてなお、この世との摩擦に苦しまなければならない私たちに対して、先週の最後のところで主イエスは、弁護者すなわち真理の霊を遣わして下さることをお約束になりました。

・今日の16章に入って最初の1節で、主はこう言っておられます。「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。」――「これらのこと」というのは、13章から始まった別れの説教の全体とも受け取れますが、特に、先週聴いたこと、すなわち、<この世が主イエスと弟子たちを憎む>とおっしゃったことを指していると考えられます。2節を見ると、「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう」と言っておられます。キリスト者はユダヤ人の会堂から追い出されるのであります。4節を見ると、「しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである」と言っておられます。「その時」とは、十字架の時であります。主が人々の憎しみを一身に背負って十字架に架けられ、死へと赴かれる時であり、更には、その後に弟子たちが会堂を追い出され、迫害を受けることも含まれているのでありましょう。そうなった時に、弟子たちがつまずかないために、今からそのことを話しておいて、思い出すようにしておくのだ、とおっしゃるのであります。

・更に5節を見ると、主イエスはこれからしようとしていることと、この時点での弟子たちの状況を語っておられます。「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。」――「わたしをお遣わしになった方のもとに行く」つまり、父なる神様のもとにお帰りになる、ということは、これまでにも語って来られました。それに対して、1336節では

ペトロが、「主よ、どこへ行かれるのですか」と尋ねました。145節ではトマスが、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」と言いました。しかし、今や弟子たちにも、それは「死」を意味していることが分かったのでありましょう。ですから、もはやだれも、「どこへ行くのか」と尋ねません。むしろ、弟子たちの心は「悲しみで満たされている」のであります。ただ主イエスとの別れの死を悲しんでいるだけではありません。自分たちの期待や希望も砕かれてしまった悲しみであります。敵の力、この世の力、死の力に敗北しているのであります。主イエスは、そのような弟子たちの心の内を見抜いておられます。そして、私たちの心の内も見抜いておられます。私たちも、この世の力に敗北しそうになる時があります。この世に生きて行くことの苦しみに耐えられなくなる時があります。死の力に負けそうになる時があるかもしれません。自分ではしっかりしているつもりでも、いつの間にかサタンが忍び込んで来て、この世の楽しみなどキリスト以外のことで心を満たそうとしているかもしれません。そういう私たちの心の内を、主イエスは全部知っておられます。そのような私たちに、今日、主イエスは何を語って下さるのでしょうか。7節から後で弟子たちに語られた言葉が、今日聴くべき御言葉であります。これを聴いて参りましょう。

1.しかし、実をいうと――弁護者がいつもどこでも

・まず7節では、「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」と言っておられます。

・「実を言うと」という訳は、会話調で大変親しみ易いのですが、直訳すると、「わたしはあなたがたに真理(真実)を語る」となります。「実を言うと」というと、何か隠し事をしていたみたいで、重みが足りないように思います。大変重要な真理を語ろうとなさっているのであります。

その真理とは、主イエスが地上を去って父のもとへ行かれることによって、弁護者すなわち聖霊を送るということであります。それがあなたがたのためになるのだ、とおっしゃるのであります。私たちは目に見えない聖霊を送って下さるよりも、主イエスが2000年前と同じように、見える姿で地上におられて、かつてのように直接主イエスのお声を耳にしたり、数々の奇跡をこの目で見ることが出来たらすばらしいだろうと思います。もしそんな体験ができれば、もっと確信をもって主イエスについて行けるだろうし、主イエスのためにわが身を献げることだって厭わない、と思います。しかし、よく考えてみる必要があります。主イエスが私たちと同じような肉体をもって地上におられるとすれば、主イエスに会ったり話を聞いたりすることが出来るのは極く限られた人だけになってしまいます。皆が主イエスにお会いしたいと考えたら、どんな混乱が起こるかしれません。主イエスに敵対する人たちとの争いも絶えないことになります。「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」と言われます。「ためになる」というのは「利益になる」「有益である」という言葉であります。主イエスが父のもとに帰られて、弁護者である真理の霊を送って下さることの方が私たちにとって好都合なのであります。今、聖霊は世界中の教会の礼拝に送られて、どこででも御言葉を聴き、礼拝をすることが出来ます。御言葉を通して、主イエスの御心に接することが出来ます。誰も主イエスを私たちから奪うことは出来ません。いつでも、どこでも、主イエスのお力を受けることが出来ます。主イエスが天に昇られて、聖霊が送られるということは、主イエスと父なる神様がいつも私たちと共にいて下さる道が拓かれたということなのであります。それが、主イエスが十字架の死によって成し遂げて下さった真理の道なのであります。

2.その方が来れば――罪と義と裁きが明らかになる

・続いて8節では、弁護者である真理の霊によって何が明らかにされるのかが述べられています。「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」と言われます。弁護者である真理の霊は、主イエスの弟子たちを弁護してくれ、いつでもどこでも主イエスと共にいることが出来るようにして下さる一方で、相手方の、主イエスに敵対し、キリスト者を苦しめている「世」の誤りを明らかにするのであります。真理の霊は、罪とか義とか裁きについての「世」の誤りを明らかにし、正しい考え方を教えて下さるのであります。

・まず、「罪について」の誤りが明らかにされます。9節を見ると、「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」だと言われています。これは世間で言う「罪」とは違います。世は主イエスを信じないことを、それほど重要なことだとは思っていません。むしろ主イエスを信じることは愚かなことだとさえ思っています。しかし、主イエスを信じないことに根本的な誤りがあるのであります。世の中の様々な問題の根もそこにあります。聖霊の働きによって、まずその根本的な誤りが明らかにされるのであります。

・次に、「義」については、10節を見ると、「わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」と言っておられます。弟子たちは主イエスが父のもとへ行かれて、肉眼で見ることが出来なくなるかもしれないということに大変な不安を覚えていました。しかし、実は、主イエスが十字架で死に、復活され、天に昇られて、人間の目では見えなくなる。そしてそれ以後は聖霊が送られて、一人一人に語りかけて下さり、救いへと導かれることこそ、神の義が達成されるということなのであります。義とはこの世で言う正義とは少し違うのであります。この世では、正義を掲げて戦争が起こったりします。自分は正しいと思い込んでいるところから、問題が起こります。しかし、神の義とは、罪の逆で、神様との関係が正常であることであります。罪が赦されて神様との関係が回復することが、本当の義であります。それは主イエスを信じることによって実現します。主イエスを信じさせるのも聖霊の働きであります。

・三番目に、「裁き」について語られています。11節を見ると、「裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」と言っておられます。「この世の支配者」とは、政治的な支配者のことだけを言っているのではありません。神様ではないのに自らを神として他を支配する者のことであります。私たちは自分自身をこの世の支配者にしていることが多いのではないでしょうか。神様を私たちの思いや生活の中から閉め出してしまっているとき、私たちはこの世の支配者になっています。そのような者が断罪されるのが「裁き」であります。ここで「断罪される」と現在形で訳されていますが、ここは原文でははっきりと「断罪された」と書かれているのであります。もはや裁かれたのであります。「この世の支配者」は既に裁かれているのであります。ヨハネ福音書316節の有名な箇所で、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された・・・」と記されたあと、17,18節で「神が御子を世に遣わされたには、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」と言われています。私たちの内にある「この世に支配者」は、既に聖霊によって断罪されているのであります。もはや何の力をも持ち得ないようにされているのです。一方、主イエスを信じる者は、罪を赦されて裁かれることはないのであります。――以上が、弁護者(聖霊)によって明らかにされる、罪と義と裁きについての世の誤りであります。

3.真理を悟らせる

・弁護者である真理の霊の働きはそれだけではありません。12節から13節の前半で、こう言われています。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」――弟子たちが主イエスから聴くべきことは多いのですが、主イエスと地上の関係にある今は、聴いてもそれを理解することが出来ないと言われます。主イエスが天に昇られて、目に見えない存在になって、真理の霊が遣わされてはじめて悟ることが出来るようになるのであります。その時には、「真理をことごとく悟らせる」と言われます。今の私たちは主イエスから直接御言葉を聞くことはできませんが、幸いなことに、主イエスは真理の霊を遣わして下さっています。そして、真理をことごとく悟ることが出来るようにされているのであります。ここで「真理」とは、科学的な、あるいは学問的な真理のことではありません。霊的な真理であります。神様とはどのようなお方であるのか、神様の救いの御心とは何かという真理であります。「ことごとく」というのは、数の多さを言っているというよりも、質的な完璧さを言っていると理解した方がよいでしょう。聖霊は単なる知識を与えて下さるのではなくて、私たちを霊的に満たして下さり、救いの御心を悟らせて下さるのであります。

・では、聖霊は真理をどのようにして悟らせて下さるのかということが、13節の後半に語られています。「その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」また、14節の後半では、「わたしのものを受けて、あなたがたに告げる」と言われ、15節では、「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである」とおっしゃっています。つまり、聖霊は父なる神から聞いたこと、また御子キリストのものを受けて、私たちに語り、告げられるのであります。ここに、父なる神と御子イエス・キリストと聖霊との三位一体の真理が語られています。聖霊とは、神秘的な訳の分からないものではなくて、父なる神と子なるキリストから遣わされて、その御心を私たちに語り、告げて下さるお方なのであります。ここで、「語る」という言葉と「告げる」という言葉が、重ねて出て来ますように、聖霊の働きは言葉によることが中心です。もちろん、聖霊の働きは言葉だけに限られたものではなく、例えば、この後に行なわれる聖餐式は目で見、舌で味わうことによって、主イエスの十字架の恵みを知るのですし、また、目に見えない力が聖霊によって与えられるということもありますが、言葉との結びつきが大きいということを、ここで知らされます。

・そして、その聖霊の働きの到達点について、13節の最後では、「これから起こることをあなたがたに告げる」と言い、14節では、「その方はわたしに栄光を与える」と言われています。「これから起こることをあなたがたに告げる」というのは、占いのように将来を予言するということではありません。神様の御心がどこへ向かっているかを知らせるということであります。神様はすべての人々を罪から解放して救おうとなさっています。神の国へ招きいれようとなさっています。聖霊は、そのことが私たちにも分かるようにして下さるということであります。そして、最終的な聖霊の働きは、「わたしに栄光を与える」こと、主イエスが栄光をお受けになることであります。すべてのものが主イエス・キリストを褒め称える礼拝を捧げるということであります。真理の霊である聖霊は、私たちが三位一体の神を礼拝する者となるように、導いて下さるのであります。

結.聖霊は説教と聖餐において

・今、私たちは、地上のこの世にあって礼拝をしております。私たちには父なる神も、子なるイエス・キリストも、聖霊なる神様も、この目で見ることは出来ませんし、直接御言葉を耳にすることは出来ません。しかしここに、真理の霊である聖霊が働いて下さっています。聖書に書き残された御言葉を説き明かす「説教」と、この後に行なわれる、主の十字架の御業を現わす「聖餐」は、教会の働きの中心とされていますが、それは、説教と聖餐において聖霊が働いて、目に見えない主が御臨在して下さると信じているからであります。この説教と聖餐によって、私たちは、罪や義や裁きということを正しく認識する者とされ、主イエスの十字架による罪からの救いの真理を信じる者とされて、三位一体の神様を礼拝する者とされるのであります。

・主の日ごとに行なわれている礼拝は、来るべき終わりの日に神の国で行う礼拝の先取りであります。私たちは、その日に向けて、聖霊の導きを受けながら、地上の礼拝を続けるのであります。
・祈りましょう。

祈  り

・父、子、聖霊なる神様!

・見えるものに目を惑わされがちな私たちでありますが、今、主の御言葉によって、聖霊を送って下さる恵みを知ることが出来て、感謝いたします。

・どうか、真理の霊によって、私たちの心の目を開いて下さい。

 どうか、見えない主が、いつも共にいて下さることを信じさせて下さい。どうか、ここに呼び集められた全ての者が、聖霊の恵みを受けることが出来るようにして下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年3月7日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書16:1-15
 説教題:「真理を悟らせる」
          説教リストに戻る