序.愛と憎しみ

 ・教会の暦によりますと、既に先週の21日からレント(四旬節)に入っています。今年はイースターが44日で、その日から説教のテキストを日曜学校の新しいカリキュラムに合わせることにしていて、ヨハネ福音書の連続講解説教は3月いっぱいで中断するのでありますが、17章の十字架を前にした主イエスの祈りまで進む予定です。そこまでずっと、主イエスの長い別れの説教が続いているのでありますが、この箇所を主イエスの御受難を偲ぶレントの季節に聴くのは、大変相応しいことであると思います。
 15章は「ぶどうの木の譬え」から始まっていて、ぶどうの木である主イエスと枝である弟子たち(私たち)が、生きた愛の関係でつながっていることが語られ、先週の箇所では、そのような関係を「友と呼ぶ」という言葉で表現されました。このような主イエスと弟子たちとの間の深い愛の関係について語られると同時に、弟子たち(私たち)同士の間でも、互いに愛し合いなさいとの「愛の掟」についても、何度も語って来られました。
 ・ところが今日の箇所では、「憎む」、「迫害する」という言葉が合わせて10回も語られています。<世があなたがた弟子たちを憎み迫害する>とおっしゃるのであります。主イエスが十字架にお架かりになり、地上における弟子たちとの関係が終わらねばならない時が迫っている中で、どうしても語っておかねばならないという思いから話されたのではないかと思われます。 ・弟子たちとは、新しいイスラエルとしての教会であります。私たち信仰共同体のことです。私たちは、「世」から憎まれ、迫害されなければならないのであります。主は愛の共同体を作ろうとされているのに、なぜ、この世はそれを憎むのでしょうか。私たちが憎まれるということに、どのような意味と恵みが込められているのでしょうか。今日は、そのことを聴き取りたいと思います。

1.世にあるキリスト者
 ・まず、「世があなたがたを憎む」と言われる場合の「世」というのは何か、ということですが、新約聖書で「世」と訳されているものには二種類あって、一つはアイオーンという語で、時間的な用語で「時代」という意味に使われることが多く、今一つはコスモスという語で、空間的な意味での「被造世界」や人間の活動する場としての「この世」、あるいは「人間世界」の意味で用いられます。ここでは、後者のコスモスという言葉が使われています。
  この「世(コスモス)」という言葉は、新約聖書全体の約半分がヨハネによる福音書で出てくるのですが、今日の箇所でもそうであるように、主イエスや弟子たちを憎むものとして出て来ます。しかし、神様の方が「世」を憎んでおられるのではなくて、「世」は神様が愛を込めて造られたはずであります。有名なヨハネ福音書316節では、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」と書かれています。「世」は神様の愛の対象なのであります。ところが、そのような神様の愛にもかかわらず、その後に書かれていますように、「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」のであります。「世」は御子イエス・キリストを受け入れなかったのであります。
  ヨハネ福音書では、なぜ「世」が、このように神様や主イエスに敵対するものとして書かれているのか。それには、この福音書が書かれた時代の背景があると言われています。ヨハネ福音書が書かれたのは、他の福音書よりも遅く、紀元90年以降だと言われています。はじめに教会が誕生した頃には、キリスト教もユダヤ教の一派のように扱われていましたが、この頃になりますと、キリスト者たちはユダヤ社会の中の異分子と考えられて、ユダヤ教の会堂から追い出されるようになって来ました。そういう状況が反映しているというのです。もちろん、ここに書かれていることは主イエス御自身が話されたことです。しかし、当時はテープレコーダに録音されていたわけではなくて、記憶に頼りながら言い伝えられたものが、6070年後に編集者の手によって文章化されたわけで、当然書かれた時代の関心事が強調されるわけであります。ですからここで「世」という時に、筆者が強く意識しているのは、キリスト者を迫害しているユダヤ人たちのことであります。というより、主イエスがそのような状況になるのを読んだ上で、このようにお語りになったと言った方がよいかもしれません。しかし、このような状況というのは、ヨハネ福音書が書かれた時代の特異な状況というのではなくて、その後の長いキリスト教の歴史の中でも、そして今も、教会が置かれている状況なのであります。
  現代の日本の社会で、キリスト者が「世」から憎まれているというのは当らないように思われます。ヨハネ福音書が書かれた時代のような迫害はないかもしれません。しかし、イエス・キリストが容易に受け入れられないという点では変わらないのではないでしょうか。一つには仏教や神社神道の伝統がありますし、一方では、八百万の神を受け入れて特定の神に固執しない寛容さがありますし、最近では無宗教であることが理性的で合理的な態度であると考える人や、宗教に無関心あるいは警戒的である人が増えて来ているようであります。キリスト者が迫害されるわけではないけれども、キリストを信じるということには消極的あるいは否定的なのであります。キリスト者を「憎む」という言葉は当らないかもしれませんが、自分もキリスト者になろう、キリストのために身を投じようとする人は少ないのであります。
  では、私たち自身はどうでしょうか。19節を見ると、「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである」と言われています。「身内として」という分かり易い訳になっていますが、口語訳では直訳で「自分のものとして」と訳されていました。<自分の仲間として>、<自分と同じ民として>という意味であります。私たちはこの世の人々からどのように思われているでしょうか。先程申しましたような、現代の日本の風潮の中で、異質な人々と見られているというよりは、「身内として」見られているのではないでしょうか。私たち自身も、なるべく「身内として」扱ってもらいたい、敢えて事を荒立てたくない、と思っているのではないでしょうか。それは、私たちがいつのまにか、「世」の身内になってしまっていることであります。そこでは「憎まれる」ということは起こらないかもしれません。何の軋轢も起こらないかもしれません。しかし、それはもはや、キリスト者ではなくなるということであります。私たちはいつもそのような誘惑の中にあります。私たちは主イエスを信じている、主イエスを愛していると思っていますが、実はいつのまにか主イエスとの間に溝を設け、主イエスのようには生きたくない、この世的な生き甲斐やこの世の身内との関係を失いたくない、主イエスのようには自分の命を捨てられない、主イエスから自分にプラスになるものは戴きたいが、十字架を負うことは避けたい、と思っているのではないでしょうか。それは、主イエスを憎む者になってしまっているということであります。ぶどうの木につながっていない枝になってしまっているということであります。

2.あなたがたは世に属していない
 ・主イエスの弟子たちも、やがて主が捕らえられる時には、主を捨て去るのであります。主イエスというぶどうの木につながっている枝とは言えなくなるのであります。ヨハネ福音書が書かれた時代の教会の中にも、迫害を受ける中で、信仰を捨てる者もいたことは十分考えられることであります。だからこそ、主イエスの言葉をはっきりと思い出しながら、書き止めているのであります。弟子たちの離反が予想される中で、主イエスは弟子たちに何とおっしゃったのでしょうか。主イエスは今、弟子たちに向かって、<お前たちはもはやぶどうの木の枝ではなくなっている>と断罪されるのでしょうか。そうではあり              ません。もう一度19節を見ていただきますと、こう言っておられます。「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」――「あなたがたは世に属していない」と断言されています。弟子たちは、そのようには思っていなかったでしょう。主イエスの弟子になったとは言え、この世的な価値判断が残っていたでしょうし、この世に未練も残っていたでしょう。主イエスの弟子となっておれば、やがて主イエスが王になられた時には自分たちも王の脇に座れるという、この世的な期待さえあったようであります。自分たちが世に属していないなどとは思ってもみなかったでしょう。しかし、主イエスははっきりと「あなたがたは世に属していない」と言われます。このことは私たちに向かっても言われるのではないでしょうか。私たちも世には属さない者とされているのであります。自分ではその意識は希薄であるかもしれません。私たちは信仰を持って、神の国の一員とされたのではあるけれども、なおこの世にも属していると思っています。確かに、私たちはこの世に生きる人間として、地上の習慣や制度、様々なしがらみの中で生きていて、それらを捨て去っているわけではありません。しかし、主イエスは私たちを世に属していない者として下さっているのであります。なぜ、そのように言えるのでしょうか。それは、「わたしがあなたがたを世から選び出した」と言われているように、主が私たちを選んで下さったからであります。先週聞いた16節でも、こう言っておられました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」――主イエスが実を結ぶ枝として私たちを任命して下さったのであります。だから、もはや「世に属していない」のであります。戸惑いを覚えざるを得ないのですが、主イエスは既に私たちをそのような者として下さったのであります。

3.主イエスと共に憎まれる
・さて、今日の主題の「世が憎む」という話に戻りますが、弟子たちがなぜ「世」から憎まれるのかと言えば、19節の終わりで、「わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」と言われている通りであります。もはや世の「身内」ではなくなったからであります。しかも、世とは引き離されて没交渉になるのではなくて、世へと「出かけて行って実を結ぶ」ようにと任命されます。この世へと派遣されて、この世の只中でキリスト者として御言葉に従う生活をいたします。だから、世から憎まれるのであります。「憎まれる」という言葉がぴったりとしないということであれば、<軋轢がある>とか<摩擦がある>という表現にしてもよろしいが、いずれにしても、この世から抵抗を受けなければならないのであります。
  では、弟子たちや私たちは世に遣わされて、世の憎しみの最前線に立って自分たちだけで戦わなければならないということでしょうか。そうではありません。主イエスは18節で「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」と言っておられるように、私たちが「世」に憎まれる前に、主イエス自身が「世」に受け入れられず、憎まれていたことを覚えなければなりません。20節では、「『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するであろう」と言っておられます。「僕は主人にまさらず」という言葉は13章で主が弟子たちの足を洗われた時にも言われたことですが、そこでは、本来は僕である弟子たちが足を洗わなければならないのに、その前に、主人である主イエスが先に弟子たちの足を洗って下さった、そのように、弟子たちもこれから人々のために仕えなければならないのだけれども、主イエスがまず弟子たちのために十字架を負って仕えて下さるのだという意味で語られたのでありました。ここではその主イエスの言葉を、世の人々の憎しみや迫害に関連して思い出しなさいと言われていて、人々があなたがたを憎んだり迫害したりするかもしれないけれども、その前に主人である私を人々が憎み迫害したのだから、あなたがたが憎まれ迫害されるのは当然で、むしろ弟子たるものも自分なりの十字架を負うことを喜ばなければならない、という意味であります。逆に言うと、キリストに従っていると言いながら、この世の人々との間に何の抵抗も軋轢もないとしたら、本当にキリストに従っているのか、キリストを証ししていると言えるのか、怪しいということになります。ですから、世の人々から憎まれたり、この世的なやり方や生き方との間で抵抗や軋轢があれば、むしろ光栄なことだと思わねばならないということになります。
  とは言っても、憎まれることや軋轢があること自体が好ましいわけではありません。私たちが何を語り、何を証ししているか、それが、主イエスがお語りになり、行なっておられることと通じていることが肝心であります。

4.主の業と世の罪
  20節の最後では、「わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るであろう」と言われています。世の人々が主イエスの言葉に聴き従ったならば、弟子たちの言葉にも聴き従うと言われています。僕である弟子たちの言葉は、主人の言葉に優ることはありませんが、そこに主人の言葉の真実が含まれているならば、主人の言葉と同じように人々は聴き従うのであります。
 ・しかし、21節で言われているように、「人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる」のであります。「わたしの名のゆえに」というのは、<キリストが証しされるところでは>という意味であります。「これらのこと」とは、様々な形での迫害のことであります。キリストがはっきりと証しされるところでは、迫害は避けられないと言われるのです。なぜなら、世の人々は「わたしをお遣わしになった方を知らないから」、つまり父なる神様の本当の愛を知らないからであります。
 22節以下では人々の「罪」のことが語られています。ここで「罪」とは、諸々の悪い行いというよりも、神様との関係であります。神様を知らず、神様の方を向いていない生き方のことであります。神の民であるはずのユダヤ人たちが、神の方を向かなくなっていました。現代の日本の多くの人々は当然、神様を知らず、神様の方を向いた生き方をしていません。しかし、その罪が明らかにされたのは、22節で「わたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったであろう」と言われ、24節で、「だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう」と言われているように、主イエスが来られて御言葉を語られ、数々の奇跡の御業をはじめ十字架と復活に至る御業をなさったからであります。罪からの救いの道筋がはっきりと示されたところでこそ、罪が明らかになるのであります。 世の人々がキリスト者を憎み迫害するのは、自分たちの罪が明らかにされるからであります。自分たちが神の方を向いていない生き方をしていることが明らかになるからであります。もし私たちがキリストの御言葉と御業をはっきりと証ししていなければ、人々の罪は明らかになりませんし、迫害も起こりません。
 25節に「『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法の書に書いてある言葉が実現するためである」とあります。この引用は、先程朗読していただいた詩編69編の5節にある言葉ですが、人々は理由もなく弟子たちを憎んでいるように見えるのですが、実ははっきりとした理由があるのであります。それは、キリストによる罪からの救いが明らかになったからであります。人々は自分が神様から離れた生き方をしている罪が明らかにされるのを好まないのであります。実は、私たちもそうであります。私たちも世の人々の「身内」になってしまっているのであります。そうであれば、主イエスを正しく証しすることなど出来ません。

結.聖霊による証し
 ・そこで、主イエスは26節以下でこうおっしゃいます。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」――「弁護者」と「真理の霊」については、既に14章の16,17節と26節で語られていました。聖霊のことであります。そこでは、弁護者である真理の霊が弟子たちと共にいて、主イエスが話されたことを思い起こさせて下さり、父なる神と主イエスを愛し、主の言葉を守る者とされることが約束されていました。ここでは更に、主を証しするものとなることが約束されています。
 ・弟子たちだけではありません。私たちにも、父なる神とイエス・キリストから聖霊が送られて、私たちは正しく主を証しする者とされます。そのとき、世が私たちを憎むと言われていることが、当然のように伴うのでしょう。しかし、そこから本当の悔い改めが始まり、罪からの救いの出来事が起こって行くのであります。
 ・今日も主は聖霊を遣わして下さって、私たちを、主を証しする者として送り出して下さいます。世が私たちを憎むことや、世との間で摩擦があることを恐れる必要はありません。それは、救いの御業が始まっていることのしるしであります。

・祈りましょう。

祈  り
 ・救い主イエス・キリストの父なる神様!
 ・世の大きな力の中に呑み込まれてしまいそうな私たちでありますが、弁護者である真理の霊を送ってくださるとの約束をいただき、感謝いたします。
 ・どうか、主イエスを信じ、主を証し続ける者たちとして下さい。
 ・どうか、この小さな伝道所の、この礼拝から、救いの御業がこの地に広がって行きますように、絶えず聖霊をお送りください。
 ・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年2月28日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書15:18-27
 説教題:「主の業と罪」
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